第95話 こんにちは 赤ちゃん
マーガレットたちは、長い一夜の疲れから客室で休んでいた。
パメラは「赤ちゃんが生まれたら起こしてください」と侍女に頼んだものの、そのまま眠ってしまったらしい。
マリアも、ヘンリーにもたれ掛かったまま静かな寝息を立てていた。
お父様と入れ違いで私の部屋に来たのは、眠い目をこすりながらも起きてきたセザールとラウルモンドだった。
「ねえさま、大丈夫?」
セザールが、私のベッドの傍に来て、心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫よ。セザール」
「……赤ちゃん、来るって本当?」
「本当よ」
セザールは、しばらく考えてから、にっと笑った。
「じゃあ、ぼく、二人のお兄ちゃんになれる!」
(二人……私のお腹の中にいるのは双子だから、本当は三人なんだけど)
ベッドの側にあるチェストの引き出しを開ける。そこにあったのはトモエからもらったこの世界の未来が描かれた本『恋の劇薬』。
ラウルモンドはドレアス教授の元ではなく、私の義弟としてここにいる。
セザールの実姉アデライトも生きている。
レオナルド・シャーウッドの母親のマリアだって、孤児ではなく私の従姉妹マリア・ロベッタ男爵令嬢だ。
(お腹の双子の運命だって、変えてみせる……)
私が静かな決意をすると、セザールが私のお腹のあたりを見つめた。
「おかあさまの赤ちゃんと、おねえさまの赤ちゃん——私、嬉しい」
「セザール様」
ラウルモンドが、静かに割り込んだ。
「まだ生まれていませんよ」
「ラウルは嬉しくないの?」
「嬉しいですよ。ただ、将来のことを考えると不安っていうか……」
「何が心配?」
「兄としての責任や叔父として振る舞いや……」
ラウルモンドは指を数えながら一つずつ上げていく。
セザールがラウルモンドの手を握った。
「大丈夫よ!ここにいるみんなが赤ちゃん守る!」
(そっか、私は一人じゃない……)
私はセザールとラウルモンドを抱きしめた。
「頼りにしているわ。お兄ちゃんたち」
二人は照れくさそうに笑った。
◇
その頃、産室の前では男たちが無言で立っていた。
お父様、お父様を支えるアイゼン、お祖父様だ。
一番最初に駆けつけたお祖父様は待ちきれないようで、医療助手とお祖父様の声が、時折漏れてきた。
「イクシード辺境伯、お下がりください」
「……娘が心配なんだ」
「下がってください」
「……分かった。でも、すぐ呼べ」
このやり取りは、すでに十回以上繰り返されていた。
廊下に出てきたお祖父様は、腕を組んで壁にもたれた。
その顔が、いつもより険しかった。
「義父上、落ち着いてください」
お父様が声をかけると、お祖父様はそちらを見た。
「アイゼン殿下は、そんな腫れた顔だったか?」
お父様は経緯を簡単に説明した。
「なに?!私に曾孫ができるのか!」
喜ぶお祖父様にお父様の表情が険しくなる。
「何浮かれているんですか?」
お祖父様はにやにやと笑う。
「私はもう孫を可愛がるだけの立場だからな!娘ルアーナの時の私の辛さを婿殿が味わっていると思うと……」
お祖父様のにやけ顔にお父様が舌打ちした。
「アイゼン・フォレスト……」
「はい」
「私は誰より妻ルアーナを愛している。ルアーナの幸せのためなら何でもできる」
「……」
「それができるか?」
お父様は、短く言った。
「はい!」
アイゼンは力強く返事した。
「正直、まだ許す気にはなれん。だが、義父上のようにはなりたくない……」
その言葉に、アイゼンより早く反応したお祖父様だった。
「なんだと!隣国に嫁ぐことを許した西リップル海峡より心の広い私になんて言い草だ!」
「イクシード辺境伯、落ち着いて」
「心が広すぎて他人の心の機敏に鈍感ですからね」
「義父上!」
「誰が義父上だ!」
「今の流れは認めてくれたのでは……」
「殿下、うちの婿殿は心がティースプーン程度なんだ。すまないな」
「義父上!今の台詞、聞き捨て……」
その時だった。産室の扉が勢いよく開き、医療助手と侍女たちがすごい顔で睨んできた。
「奥様の邪魔をするなら、どこかへ移動願えますか!」
「「「申し訳ない……」」」
しばらく沈黙が続いたが、夜が更けるにつれて、それに耐えられなくなったのはお祖父様だった。
「ルアーナは、昔から心配をかける娘だった。嫁いで後まで心配をかけるとは……まあ、今夜は心臓に悪い夜だな」
「本当に……エリカが生まれて幸せが続いたせいで、こんな時間があるのをすっかり忘れていました」
二人の会話を聞きながら、アイゼンは自分がその立場になる未来を考えると少し胃が痛くなった。
◇
辺りが白んできた頃、産室の中から小さな声が響いた。
赤ちゃんの、泣き声だった。
廊下にいた全員が、固まった。
「……生まれた」
お父様が、呟いた。
しばらくして、ブラッドが扉を開けた。
「ルフェラン侯爵。女の子です。母子ともに健康ですよ」
お父様は、しばらく動けなかった。
「……エイデン」
お祖父様が、お父様の肩に手を置いた。
「……義父上」
「ルアーナは強い娘だ。昔からな……」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、二人の目が、赤くなっていた。
◇
産室に入れたのは、少人数だった。
お父様が先に入り、次にお祖父様が入った。
私も、アイゼンに手を引かれながら、そっと入った。
お母様は、疲れた顔をしていたが、穏やかに微笑んでいた。
「エリカ……体は大丈夫?」
「お母様こそ。お疲れ様でした」
「妹も、驚いているかもしれないわね。生まれてすぐに叔母なんて」
お母様は、赤ちゃんの頬をそっと撫でた。
赤ちゃんは、小さかった。
本当に、小さかった。
「ねえさま、見せてー!」
待っている間に眠ってしまったセザールが、背伸びをして覗き込んだ。
「セザール、起きたの?」
「ラウルが起こしてくれた」
「しーっ!妹が驚いてしまいます」
ラウルモンドが、セザールの肩を掴んだ。
セザールは両手で口を隠した。
「……見せてもらえる?」
セザールが小声でお母様に言った。
お母様が頷き、ラウルモンドが赤ちゃんの顔を覗き込んだ。
しばらく、じっと見ていた。
「はじめまして……お兄さまだよ」
ラウルモンドは、小さな声で言った。
その声は、いつもの静かなラウルモンドのままだったが、どこか、いつもより柔らかかった。
「私もお兄様だよ!」
セザールが割り込んできた。
「セザール様、声が大きいです……」
「だって!!リュンヌ、可愛いんだもん」
お父様が、小さく笑った。
この夜、初めて、お父様が笑った。
◇
「名前は、どうするの?」
私は、お母様に尋ねた。
お母様とお父様が、顔を見合わせた。
「リュンヌ、にしようと思っているの」
「リュンヌ……」
「良い名前ですね」
アイゼンが、静かに言った。
「リュンヌ・ルフェラン……」
お祖父様が、腕を組んで赤ちゃんを見下ろした。
「……イクシード家の血も引いている。しっかり育てろ、婿殿!」
「義父上に言われなくとも……」
「ルアーナを見ていれば、良い子に育つだろう」
お父様は、少し口をへの字に曲げたが、何も言わなかった。
◇
「さぁ、そろそろお母様に休んでいただかないと」
私がみんなを廊下に出そうとした時だった。
セザールが動かない。
「なに、セザール?」
「リュンヌが……」
部屋の中が、一瞬、静かになった。
みんながセザールの方を見るとリュンヌがセザールの服の裾をしっかり握って寝ていた。
「……セザール様、ずるい」
ラウルモンドが、羨ましそうに見る。
「リュンヌ、可愛いね。私、リュンヌのこと、ずっと守る!」
「……セザール」
お父様の顔がひきつり、複雑になった。
「セ、セザール……それは……」
「ダメ?」
お祖父様が、静かに咳払いをした。
「……リップル王国の第二王子が我が孫娘と将来を約束するとは」
「じじい!賛成してくれる?」
「そうは言っておらん」
お祖父様は、セザールをまっすぐ見た。
「それだけ大切にしたいなら、立派な人間になれ。良いな?」
「……うん!」
セザールは、力強く頷いた。
(この子は、きっとなれる)
私は、そう思った。
廊下の窓から、朝日が差し込む。
昨日をすべて白日の下にさらすかのように、少しずつ、明るくなり始めていた。
◇
窓から景色を眺めていると、アイゼンが隣に来た。
「体調はどうだ?」
「今は落ち着いています」
「色々、あったな」
「本当に」
しばらく、二人で黙って窓の外を見ていた。
「アイゼン」
「なんだ?」
「……後悔してない、ですか?」
「何がだ?」
「子供のこと」
アイゼンは、少し間を置いてから答えた。
「奥方の出産の場に立ち合わせてもらい……正直、あんなに大変だとは思わなかった」
「私もです」
「ただ、義父上の気持ちは真摯に受け止める」
アイゼンは、静かに続けた。
「お前もお腹の子供も私が幸せにする」
「……」
「それが私の優先事項だ」
私は、アイゼンの横顔を見た。
その顔が、いつもの涼しげな表情ではなく、どこか、覚悟を決めた顔だった。
「アイゼン」
「なんだ?」
「……ありがとう」
アイゼンは、少し黙ってから、私の手を取った。
ブレスレットが、朝の光の中で、静かに揺れた。
新しい命が、この夜に生まれた。
もう一つの命が、静かに宿っていた。
ルフェラン家の夜は、にぎやかに、そして穏やかに、明けていった。
あとがき
第95話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はリュンヌの誕生回でした。
「リュンヌ」は Lune(月) をイメージした名前です。
ルナエクリプスも「月(Luna)」が由来ですし、振り返ると私は月をモチーフにした名前や設定が好きなんだなと改めて思いました。
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