第88話 恋の劇薬
宿の食堂で朝食を終え、馬の様子を見に厩舎へ向かう。
私たちの姿を見つけた宿の主人が、にやりと笑った。
「おはようございます。ゆうべはお楽しみでしたね」
「――っ!」
私は思わず咳き込み、顔が一気に熱くなった。
「そういうことは、大きな声で言わないでください……!」
「はははっ、失礼失礼」
宿の主人は悪びれた様子もなく笑った。
その隣では、アイゼンがいつもの穏やかな表情で立っていた。
「否定しないんですか?」
「事実だからな」
「アイ……アーベン!」
さらに顔が熱くなった。
宿の主人は楽しそうに笑いながら、厩舎の方へ視線を向けた。
「それより、お馬さんですがね。まだ疲れが残っているようで、今走らせても途中でまた休ませる必要が出てくると思いますよ。もう一日休ませてはいかがでしょう?」
私とアイゼンは顔を見合わせた。
確かに、馬は昨日より元気を取り戻しているものの、長距離を走らせるには少し心許ない。
「どうする?」
アイゼンが静かに尋ねる。
「馬を優先しましょう。無理をさせるのは可哀想です」
「ああ。私も同じ考えだ」
アイゼンは宿の主人へ向き直った。
「もう一泊お願いしたい」
「かしこまりました!」
主人は嬉しそうに頷く。
こうして私たちは、予定を一日延ばし、この宿で連泊することになった。
フォレスト国へ帰るのは、もう一日だけ先。
けれど、不思議と焦る気持ちはなかった。
◇
街道沿いの宿屋には、これといった見どころもない。
気づけば、二人だけの時間が増えていった。
一度触れれば、もう理由はいらなかった。
昼近くになり、アイゼンは立ち上がった。
「食事を取ってくる」
「ありがとうございます」
アイゼンが部屋を出ていく足音を聞きながら、私はシーツにくるまったまま、ベッドの上でぼんやりしていた。
しばらくして、扉が開く音がした。
「お待たせ」
湯気の立つ料理を盆に載せたアイゼンが、戻ってきた。
「おかえりなさい」
私が顔だけを覗かせると、アイゼンは、ふっと頬を緩めた。
「王太子に給仕までさせてしまうなんて、不敬ですね」
「今はアーベンだ」
そう言って料理をテーブルへ並べる。
私はくすりと笑い、シーツを抱えたままベッドから降りた。
テーブルに並べられた料理は湯気を立てていた。
「冷めますよ」
「あとで温め直せばいい」
アイゼンがそう言って私を抱き寄せた。
結局、料理が冷めてしまい、慌てて食べ直すことになった。
何気ない昼食の時間さえ、二人にとってはかけがえのない幸せだった。
宿を発つその日まで、私たちは部屋から出ることはほとんどなかった。
隣には、アイゼンがいる。それだけで十分だった。
◇
翌朝、馬が回復したこともあり、フォレスト国に向かうことにした。
馬の毛並みは整えられ、馬具も磨かれていた。
「ここの店主、サービスがいいですね」
「ほんの少しばかり、支払いに色をつけたからな」
(一体いくら払ったんだろう……)
二人は馬に乗り、フォレスト国へ向かった。
リップル王国を出た時の、どこかぎこちない距離はもうなかった。
休憩のたびに手を繋ぎ、肩を寄せ合い、名残惜しさから自然と寄り添う二人。
恋人になった実感を噛み締めながら、二人は国境を越えた。
◇
フォレスト国へ到着すると、王家の影たちが待ち構えていた。
「殿下!我々より先に出発されたのに、どこに行かれていたのですか?」
「リップル王国の民の暮らしを視察していた」
(確かに、嘘はついてないけど……)
「王太子としての自覚を持ってください!」
「未来の王太子妃を幸せにするのも役目だ」
そういうとアイゼンは私の肩を抱き寄せる。
「殿下、まさか!?」
リアンの顔色が変わった。
「王家の影の落ち度にしたくないので、何も聞きませんから」
リアンはそういうと背を向けた。
「陛下がお待ちです。ご自分の口から説明してください」
◇
王宮へ着くと、国王陛下と王妃殿下が謁見室で待っていた。
「アイゼン」
国王陛下の声は、静かだったが、重かった。
「無断でリップル王国を飛び出したこと、まず説明しなさい」
「申し訳ありません、父上」
アイゼンは、深く頭を下げた。
「ただ、今日ここへ来たのは、謝罪だけが目的ではありません」
「……聞こう」
アイゼンは、私の隣に立ったまま、まっすぐに国王陛下を見た。
「エリカ・ルフェランを、王太子妃として迎えたいと思っています」
謁見室に、静かな沈黙が落ちた。
王妃殿下が、驚いたように目を見開いた。
「ルフェラン侯爵令嬢を……」
「はい」
「アイゼン、あなた……ずっとそのつもりでいたの?」
「はい、母上」
王妃殿下は、しばらく私を見つめていたが、やがて、静かに微笑んだ。
「……顔を上げなさい、ルフェラン侯爵令嬢」
「はい」
「リップル王国でのあなたの活躍は、聞いていますよ。コーヒー事業のこと、孤児院のこと、米の普及のこと……あなたは、行く先々で何かを残してきたのですね」
「勿体ないお言葉です」
「アイゼンが選んだのなら、私に異論はありません」
王妃殿下は、国王陛下へ視線を向けた。
「あなたはそれでいいの?」
国王陛下は、しばらく、私とアイゼンを交互に見ていた。
「……フォレスト国を出た経緯については、宰相のハーデン公爵、ルフェラン侯爵より事情を聞いている」
「父上」
「黙りなさい」
国王陛下の声は、静かだが、有無を言わせない響きがあった。
「エリカ・ルフェラン。一つだけ聞きたい」
「はい」
「アイゼンと共に、この国に戻ってきたのは、あなた自身の意思か?」
「……はい」
私は、はっきりと答えた。
「誰かに強いられたのではなく、私が選びました」
国王陛下は、少し間を置いてから、静かに頷いた。
「……ならば、よろしい。王族の婚姻についての法を立てたアンソニー・フォレストの名の元、二人の婚約を認めよう」
その一言に、アイゼンの肩が、わずかに下がった。
◇
ルフェラン侯爵――お父様への報告は、翌日に行われた。
「……それは、本当のことか?」
お父様の声は、珍しく、平静を保っていた。
けれど、その目が、すべてを語っていた。
「はい、お父様」
「アイゼン王太子と……婚約を」
「はい」
お父様は、しばらく、私を見つめていた。
(分かっている。あの場にいたお父様は納得していないのだ)
(フォレスト国を出た時も、居場所を教えなかった。それでも、守ってくれていた)
「……陛下は、ご承認されたのか?」
「はい」
お父様は、長い沈黙の後、小さく息を吐いた。
「臣下として、陛下のご判断に異を唱えることは……できない」
その言葉は、絞り出すようだった。
「お父様」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
お父様は何も言わずに、少しだけ目を逸らした。
婚約証書への記入は、その日のうちに行われた。
王族初の、婚約式なしの婚約だった。
「前例がないからな。王城は混乱していたぞ」
アイゼンが、証書を見ながら言った。
「婚約式を省いたのですから当然です」
「その代わり、婚約式と結婚式を合わせて盛大に執り行うことで話がまとまった」
「あなたが急いだせいです」
「反省はしているが後悔はしていない」
「反省もしていないでしょう」
「……まあな」
私は、思わず笑ってしまった。
◇
数日後のことだった。
イクシード辺境伯家から荷物が届いた。
中には、お祖父様からの手紙と、お菓子と――。
もう一つ、私宛に届いていたという小さな包みが入っていた。
差出人は、トモエだった。
包みを開けると、一冊の本が出てきた。
表紙に、丁寧な文字で書かれたタイトル。
『恋の劇薬』
手紙が、一枚添えられていた。
『エリカへ。
前世の記憶は、少しずつ薄れていくと言ったね。
でも、あなたが大切にしてきたものは、消えてほしくなかった。
だから、私が知っているあなたの原動力を、書き留めてみたわ。
少しでも、前世の記憶を留めておけるように。
トモエより』
私は、本を手の中で持ったまま、しばらく動けなかった。
(これは……)
表紙をそっと開く。
最初のページに、見覚えのある世界が広がっていた。
(恋蜜……)
前世で、私が知っていた物語。
ゲームの世界。
攻略対象の名前。
ヒロインの名前。
そして――その親たち。
(アイゼン王太子は、攻略対象の双子の父親だった)
その事実が、静かに、しかし確実に、胸の奥に戻ってきた。
(私は、物語を……)
思わず、本を閉じた。
部屋の中が、静かだった。
窓の外に、フォレスト国の空が広がっている。
リップル王国の、深い橙色とは違う、澄んだ青い空。
(どうしよう……なんてことをしてしまったんだろう)
宿屋での夜が、鮮明に蘇る。
顔が、じわりと熱くなった。
(落ち着いて、エリカ。落ち着け……って、無理よ!)
胸の奥で、幸せな気持ちと、取り返しのつかない何かが、ぐるぐると混ざり合っていた。
恋人として幸せな気持ちは、本物だった。
アイゼンの「もう誰にも奪われたくない」という言葉も、チェーンの音も、全部、本物だった。
(でも――あれは絶対にまずかった)
膝の上の『恋の劇薬』が、静かに、しかし確実に、問いかけてきた。
(あなたは、これからどうするの?)
(この物語の中で、あなたはどこへ向かうの?)
前世で知っていた「恋蜜」の結末が、霧の中に霞んでいた。
記憶が薄れているのか、それとも、現実がすでに物語から外れているのか。
(私たちが変えてきた物語……この本の通りには、もうならないかもしれない。でも、その確証はない……)
扉がノックされた。
「エリカ。入っていいか?」
アイゼンの声だった。
私は、本を机の上に伏せて、深呼吸をした。
「どうぞ」
扉が開いた。
アイゼンは、私の顔を見て、一瞬、目を細めた。
「お父様との話は終わったの?」
「ああ。婚約式と結婚式を合わせ、一度に盛大に執り行うことで話がまとまった。それより、顔色が悪いが、どうかしたか?」
「……なんでもありません」
「本当に?」
「……ええ」
アイゼンは、机の上の本に、ちらりと視線を向けた。
「何を読んでいた?」
「友人から届いた本です」
「面白かったか?」
「……色々と、考えさせられました」
アイゼンは、それ以上、聞かなかった。
ただ、私の隣に座り、静かに窓の外を見た。
(この人も私も、恋蜜の登場人物だ。でも、今、隣にいるこの人は、間違いなく、私が見てきたアイゼンだ)
その物語と現実が、私の中で、まだ、うまく重ならなかった。
(アイゼンとは離れたくない。だったら、これからの物語は、私が作り出していくしかない)
膝の上で、ブレスレットを握りしめた。
窓の外に、フォレスト国の空が、静かに広がっていた。
物語は、次の局面へと、静かに動き始めていた。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
エリカとアイゼンは、ようやく想いを確かめ合い、婚約者となりました。 そしてラストでは、トモエから『恋の劇薬』が届き、エリカも再び「恋蜜」の物語と向き合うことになります。
作中に登場した『恋の劇薬』は、実際に短編としてヒロオカトモエの名前で公開しています。
「恋蜜」の世界や攻略対象たちの物語を描いた作品ですので、本編とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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