第87話 繋がる夜
リップル王国を出てから、かなり時間が経っていた。
「アイゼン」
「なんだ」
「馬が、そろそろ限界みたいです」
馬が、明らかに息を荒げていた。
「……確かに。フォレスト国と比べて暑いからな」
アイゼンは、馬の首を軽く撫でながら、周囲を見渡した。
リップル王国とフォレスト国の国境付近は、まだ南国の湿気が残っている。
フォレスト国育ちの馬には、この暑さは堪えるようだった。
「護衛を連れてこなかったのは、失敗だったかもしれません」
「……そうだな」
アイゼンは、珍しく、素直に認めた。
(出発する時、誰も止められなかったもの)
私は、遠くに灯りが見えることに気づいた。
「あそこに、宿がありそうです」
「行こう」
◇
街道沿いという場所もあり、宿屋は小さかった。
一般の旅人が使う素朴な造りの宿だった。
王宮でも、イクシード辺境伯家でもない。
ごく普通の、どこにでもある宿屋。
「……馬を預けよう」
アイゼンが、静かに言った。
「その前に。身分を明かしたら、大騒ぎになります」
私は、アイゼンの腕を掴んだ。
「……ああ。リップル王国とはいえ、気は抜かない方がいい」
「名前も、変えた方がいいですね」
「アイゼンのままでは駄目か?」
「駄目です。フォレスト国の王太子の名前はこちらの新聞でも出ています」
「……アーベン、でどうだ?」
(音が一緒だけど……)
「私はエリカのままで大丈夫ですね。珍しい名前でもありませんし」
アイゼンは、少し考えてから、私を見た。
「夫婦、ということにするか?」
「……それ以外に、男女が一緒にいる自然な説明がないですね」
「嫌か?」
「嫌じゃないです」
私は首を横に振った。
アイゼンが少し目を細めた優しい表情をした。
その顔に思わずときめく。
(私、チョロ過ぎる……)
◇
「いらっしゃい」
宿の主人は、人の良さそうな中年の男性だった。
「馬が疲れてしまって。一晩、泊めていただけますか?」
「もちろんですよ。馬の世話も、うちでできます」
店の主人は、私たちを見て、にこにこしていた。
「仲の良いご夫婦ですねえ。新婚さんですか?」
「ええ、まあ……」
私は、曖昧に笑った。
「そう見えますか?」
アイゼンが、私の隣で、満足そうな顔をしている。
「この商売を長くしていますからね。見れば分かりますよ」
店の主人は楽しそうに笑いながら、鍵を渡してくれた。
(私たち、新婚に見えるんだ)
私は、横を見た。
アイゼンは、ずっと私を見ていた。
私は恥ずかしくなり目を逸らした。
◇
部屋は、小さかった。
ベッドが一つ。小さな窓。木製のテーブルと椅子が二つ。
「……狭いですね」
「街道沿いに宿泊施設があるだけ珍しいからな」
「贅沢は言えませんね」
私は、椅子に腰を下ろした。
アイゼンは、窓の外を確認してから、静かに椅子に座った。
宿屋の外から、虫の声が聞こえる。
フォレスト国よりも、少し涼しい夜だった。
二人の間に沈黙が流れた。
(なんだか、気まずい……)
「アイゼン」
「なんだ?」
返事をされても用があるわけでもない。
私は自分の手首に触れた。指先にブレスレットの感触が伝わった。
「こ、このブレスレット、本当に手錠なんですか?」
「……」
アイゼンは、少し目を伏せた。
「だって、こんなに綺麗な宝石が付いているのに、なんだか信じられなくて」
「本当だ。……付けてみるか?」
その言葉に、私は、少し驚いた。
(このまま黙っている方が、ずっと落ち着かなかった)
「はい……」
アイゼンはベッド近くに置いた荷物から箱を取り出すと、ベッドに腰をかけた。
「エリカ、こちらへ」
アイゼンは、箱の中からチェーンを取り出した。
鎖とは思えない金製のチェーン。チェーンにはターコイズとラピスラズリのチャームが均等にあしらわれていた。
(二人の瞳の色……)
カチリ。
私のブレスレットとチェーンが繋がる。
先ほどとは別の緊張感で手首が重たく感じた。
カチリ。
アイゼンが自分のブレスレットにチェーンを繋げた。
手を繋ぐのとは違う。物理的に離れられない。
私は自分の鼓動が早くなっているのが分かった。
「こんな風に繋ぎ止めたところで、お前の心が手に入るわけではないのに。私は本当に愚かな男だ」
アイゼンはチェーンを見つめながら呟いた。
(こんなものを用意するくらい追い詰められていたのね)
「エリカを見つけた時、ようやく息ができた気がした。冷静になるとこんなものを用意していたことが気まずくなってね」
「だから、ブレスレットだけ贈られたのですね」
「格好悪い話だ」
アイゼンは気まずそうに笑った。
でも、私にはその飾らない言葉が、胸の奥まで、真っ直ぐに届いた。
(この人は、ずっとそんな気持ちでいたのね)
東棟で会った時、あんな目をしていたのも、当然だったかもしれない。
「あの目、怖かったです。東棟で会った時のあなたが」
アイゼンは、少し黙ってから言った。
「正直に言う。あの時、自分でも、自分が怖かった。半年間、ずっと探し続けて……会えた瞬間に、何をするか、自分で分からなかった」
アイゼンは、自分のブレスレットを触りながら言った。
「セシル・バーンドに言われたんだ。まず、話を聞いてやれ、と」
「セシル様に?」
(あのアイゼンがセシル様に耳を貸すなんて)
「お前の手がかりが、どこにもなくて。ブリーズ王国が最後の望みだった」
私は、言葉が出なかった。
(ブリーズ王国まで……それだけ、探してくれていたのね)
「結果、セシル・バーンドの言葉が私を止めてくれた」
私のためにここまでしてくれる。それが嬉しかった。
(こんなにも愛されていたなんて)
理性よりも先に、胸の奥が熱くなった。
「一つ、聞いていいですか?」
「なんでも」
「今日、なぜ急いだんですか?」
「……婚約を取り交わしたかったからだ」
「それは分かっています。でも、なぜ、今じゃないといけなかったのか?」
アイゼンは、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「もう誰にも奪われたくなかった」
その言葉に、部屋の空気が、静かに変わった。
「だが、それだけじゃない。半年間、渡せるかどうか分からないまま持ち続けていた。それを、付けてくれた」
アイゼンは、私を見た。
「私の愚かな行為を知っても、お前がブレスレットを付けていると知った瞬間、愛おしさに我慢ができなかったんだ」
アイゼンが私の手を握った。
私は反対側の手を伸ばし、アイゼンの頬へ触れた。
その温もりを確かめるように、アイゼンは、その手を包み込むように握り返し、その手に静かに口づけを落とした。
視線が重なった。
「……本当に、いいのか?」
「はい」
熱を帯びたその瞳から逃れるように、私はゆっくりと目を閉じた。
唇が触れる。
初めて交わした口づけは、驚くほど優しかった。
名残惜しそうに離れ、もう一度アイゼンを見つめた。
そこにいたのは、いつもの知的で穏やかな王太子ではない。
長い間、理性の奥底へ押し込めてきた想いを、もう隠そうとしない一人の男だった。
「一秒でも早く、お前を私のものにしたい」
アイゼンは一度だけ目を伏せ、小さく息をついた。
「嫌だったら殴ってもいい。……突き飛ばしてくれ」
最後の選択は、私に委ねられていた。
私は首を横に振った。
「……嫌じゃ、ありません」
その小さな答えを聞いたアイゼンは、安堵したように微笑んだ。
ランプの灯が静かに揺れる。
二人の息づかいとブレスレットに繋がれたチェーンの音だけが部屋に響く。
窓の外では、夜風が木々を優しく鳴らしていた。
二人だけの長い夜が、静かに続いていた。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
101話にして、ようやくアイゼンとエリカの距離が大きく縮まりました。(ここまで長かった……!)
フォレスト国へ戻った二人を、これからも温かく見守っていただけると嬉しいです!
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