第85話 夕焼けの約束
フォレスト国の視察も、残り二日となった朝のことだった。
私は、思わず箱を見つめた。
ギフトボックスの中には小さな木箱が入っていた。簡素だが、丁寧に磨かれている。
添えられた手紙を手に取る。
私は、しばらく、その封筒を手の中で持ったまま、動けなかった。
(アイゼン王太子から……手紙)
私は、静かに封を切った。
手紙の文字は、几帳面で、整っていた。
フォレスト国の王太子らしい、美しい文字だった。
『エリカへ。
突然の訪問で、驚かせてすまない。
東棟まで押しかけたことも、応接室での件も、お前を追い詰めるつもりではなかった。
だが、結果として、そうなったのは申し訳なかったと思っている。
同封したものは、フォレスト国を発つ前に、用意していたものだ。
半年間、どこにいるか分からないまま、ただ持ち続けていた。
渡せるかどうかも、分からなかった。
受け取ってもらえるとは思っていない。
それでも、会えたなら渡そうと、ずっと思っていた。
今でも君を愛している。
アイゼン・フォレスト』
華やかな言葉も、言い訳も、何もなかった。
私は、手紙を膝の上に置いたまま、しばらく、動けなかった。
(半年間、アイゼン王太子はずっと探し続けていた)
目の奥が、じわりと熱くなった。
(今でも、愛しているって……)
私は、木箱を開けた。
中に入っていたのは、二つのブレスレットだった。
細い金の鎖に、小さな石が一つずつ嵌め込まれている。
片方は、シトリン。
もう片方は、アメジスト。
(以前もお互いの色をモチーフにした衣装を二人で着たことがあった……あの人こういう定番が好きね)
「くすっ」
昔を思い出して、少しおかしくなった。
ペアのブレスレット。
フォレスト国の職人が作ったものだと、一目で分かる丁寧な作り。
(一つは、私のために。もう一つは……)
手の中に、二つのブレスレットを載せたまま、私は、自分の気持ちを整理しようとした。
(アイゼン王太子は、半年間、これを持ち続けていたのね)
◇
その日の午後、私はアレクシス殿下に申し出た。
「アイゼン王太子殿下と、二人で話したいんです」
殿下は、少し目を見開いた。
「……大丈夫なのか?」
「正直、不安です」
私は、手の中の箱を、殿下に見せた。
「でも、向き合わないと、いけない気がします」
殿下は、箱を一瞥してから、静かに頷いた。
「……場所は、王宮の南庭を使え。人払いはしてやる」
「ありがとうございます」
「……無理をするな。何かあれば、すぐに声をかけろ。護衛は、庭の外に立てておく」
殿下は、真剣な顔で言った。
「はい」
その一言が、素直に、胸に染みた。
◇
南庭に、アイゼン王太子が現れたのは、夕刻近くだった。
私の姿を見て、一瞬、足を止める。
「……来てくれるとは、思っていなかった」
「……私自身も思ってもみませんでした」
私が持っている木箱を見ると、アイゼン王太子は、少し目を細めた。
「手紙を、読んでくれたのか?」
「はい」
「……そうか」
二人で、庭のベンチに腰を下ろした。
しばらく、南国の夕風だけが流れていた。
「アイゼン王太子殿下」
「以前のように、アイゼンでいい」
「……アイゼン」
「なんだ?」
「一つだけ、聞かせてください」
「ああ」
私は、手の中の箱を、少し強く握ってから、言った。
「あの夜、私がフォレスト国を出ると決めた時――あなたは、引き止めなかったのは、なぜですか?」
アイゼン王太子は、少し黙ってから答えた。
「引き止める権利が、私にはなかったからだ」
「……」
「私は宰相を説得するためとはいえ、心にもないことを言ってお前を傷つけた。だが、私が愚かだったせいで、すぐに誤解が解けると甘くみていた」
「それは……」
(私が物語の強制力に傷ついたから……)
「あの時に戻れるなら、何としてでも引き止めるべきだった」
アイゼンは、静かに、しかしはっきりと言った。
「お前を縛る権利は、私にはない。だから、許してくれとは言わない」
その言葉を、私は、ゆっくりと受け取った。
「それでも、エリカに会いたかった」
アイゼン王太子の碧色の瞳が揺れる。
「引き止める権利はないのに、探したんですか?」
「……矛盾しているな」
アイゼンは、苦く笑った。
「自分でも分かっている。理屈では、お前が自由に生きることを、尊重すべきだと分かっている」
「……」
「それでも、どうしても止められなかった」
しばらく、二人の間に、沈黙が流れた。
穏やかな、南国の夕暮れの中の沈黙だった。
「ゴシップ新聞の記事、見ましたか?」
私は、唐突に切り出した。
「アレクシス殿下と私が、成婚間近だという記事です」
「……見た」
アイゼン王太子の顔が険しくなる。
「信じましたか?」
アイゼンは、少し間を置いてから答えた。
「……信じたかった、かもしれない」
「え?」
「信じた方が、楽だったかもしれない。お前がここで幸せに暮らしているなら、諦めがつく、と思った」
「……」
「それでも、諦められなかった」
アイゼンは、私を見た。
「アルベール嬢と話して、二人の関係が、友人だと分かった。アレクシス王太子が、お前を守るために動いていることも、何となく察した」
「……」
「あの記事のように、お前の意思なら尊重する。違うなら、もう一度……」
私は、手の中の箱を開けた。
二つのブレスレットを、掌の上に乗せる。
「これ……半年間、持っていてくれたんですね」
「……ああ」
「フォレスト国を出る前に、用意していたんですか?」
「……いや。お前がいなくなって、すぐに作らせた」
アイゼンは、少し視線を逸らした。
「指輪でもないのに、どうして、ペアなんですか?」
「片方だけでは意味がない」
「もう一つは……」
「私が持つ。お前が嫌でなければ……」
私は、二つのブレスレットを、しばらく、静かに見つめた。
(アイゼン王太子への気持ちも、これからのことも。まだ、全部、整理できていない)
「……一つだけ、約束してもらえますか?」
「なんだ?」
「もう一人で決めないでください」
アイゼンは、少し間を置いてから、頷いた。
「もちろんだ、約束する」
その言葉は、静かだった。
けれど、確かだった。
私は、夕焼け色に染まるシトリンのブレスレットを、そっと手首に通した。
(本当にアイゼンの髪みたい)
アイゼンは、鈍く輝くアメジストのブレスレットを、無言で手首に通した。
二人で並んで、夕焼けの空を見上げた。
手を繋ぐと、ブレスレット同士が小さく触れ合い、澄んだ音を立てた。
リップル王国の夕暮れは、フォレスト国のものとは違う色をしている。
深くて、鮮やかで、どこまでも広い橙色だった。
「エリカ」
「はい」
「エリカ」
「なんですか?」
「返事してくれるだけで夢みたいだ」
その一言に、私は、小さく笑った。
二人でしばらく、並んで空を見ていた。
これから、どうなるかも、分からない。
それでも、ずっと重くのしかかっていたものが、少しだけ、軽くなった気がした。
あとがき
半年間のすれ違いを経て、ようやくアイゼンとエリカが本当の気持ちを言葉にできました。
まだすべてが解決したわけではありませんが、「もう一人で決めない」という約束は、二人にとって大きな一歩だったと思います。
次回は、アイゼンからの贈り物に隠されたとんでもない秘密が明らかになります。
面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、評価やリアクション、感想で応援していただけると励みになります。




