Ⅱ.中村杏梨
悲鳴を上げたのは反射のようなものだ。
誰だって、すぐ頭上で大きな音がすればビックリする。
しかもここは、かつて殺人事件のあった廃ペンション。ちょっとした物音にも過敏に反応してしまうのに、サイレンなんて耐えられるはずがない。
中村杏梨は頭を抱えてしゃがみ込む。
サイレンが鳴ったのは、ほんの十秒ほどだろうか。
顔を上げると、弟が呆れた目を杏梨に向けていた。
「まだカメラを回してもないのに、声を枯らされたら困るよ」
「そんなこと言ったって……」
杏梨は正直、この仕事が苦手だ。怖いのも嫌だけど、元モデルという肩書きを捨てたリアクションをしなければならないのが一番辛い。
弟が配信していたオカルトチャンネルに拾われた格好だから、文句は言えないけど。
せめての矜恃と会員制を提案したら、予想外に会員が集まって、逆に引くに引けなくなった。弟は弟で、より過激なものをと、姉をあちこち引きずり回す。
……そして、今日の廃ペンションのロケは、視聴者リクエスト。
見てる方は無責任に際どいリクエストを投げるけど、実際に現場に行く身にもなってほしい。
ここは、全国心霊スポットランキングでSSSランクに入っている物件。
あまりにもヤバいから、周辺の山一帯が立ち入り禁止になったという曰く付きの場所だ——そこで一泊して生中継とか、頭がイカれてる。
ようやく気持ちを落ち着けた杏梨は、カビで黒ずんだ天井を見上げた。
「上から、だったよね、サイレンの音」
「そうみたいだね」
弟——中村尊は、機材のセッティングをしながら素っ気なく答えた。
「三階に時計塔みたいなとこがあったから、そこで鳴ったんじゃない」
「なんでペンションにサイレンがあるの?」
そこでようやく、尊は作業の手を止めた。
「サイレンって、何のために設置されるか知ってる?」
「何のためって……火事とか、地震とか、ミサイルとか……」
「ダムの放水というのもある」
尊は姉と正反対の根暗な性格だが、その分、姉よりも色々なことを知っている。
スマホで地図を調べ、彼は杏梨に示した。
「けれど、この近くにダムはない。川からもだいぶ離れてる。山火事や地震速報、ミサイルのニュースもない」
「は? だから?」
「そもそも、サイレンというのは誰かに何かを知らせるもの。半径十キロ圏内に民家のひとつもないこのペンションにサイレンを設置して、誰に知らせる目的があるのか不明すぎる」
杏梨はゾクッと肩をすくめた。
「なんでそんなに落ち着いてるのよ? 何か危険があるからサイレンが鳴ったんじゃないの?」
「そうとも限らない。時報の可能性もあるし。これは違うみたいだけど」
尊はスマホの時計を示す。午後五時四十三分……どう考えても半端な時間だ。
そこで尊は、割れた窓に目を向けた。
「あれ? 車が増えてる」
再びギクッと、杏梨は身を起こす。
「やめてよ、そういうの……」
「誰かが降りてくるみたいだ……これは、ちょっとまずいかも」
尊はスマホのカメラを窓に向けた。
「二人……黒パンクの女の子と……どう見てもカタギじゃない人」
杏梨も、廃墟の危険性は知っている。古くなった建物が物理的に危険な他、人の寄り付かない場所だからこそ、犯罪行為に利用されることもあると。
その場合、顔を合わせただけでアウトだ。
杏梨は焦った。
「どうすんのよ!」
「シッ! ……とりあえず、荷物をまとめて隠れよう」
「でも、私らがいるの、バレてるでしょ。車が置いてあるんだし」
「そう、あのワンボックスと、僕らの車と、もう一台——黒いセダンがある」
それは杏梨も気づいていた。彼女たちが来た時にはもうあったから。
けれども、簡単に調べても車の主が見当たらなかった。ならば、予定を変更するまでもないだろうとペンションに入ったのだが……。
こうなってみると、怪しい組織の取引なんじゃないか……とも思えてくる。先着の黒いセダンが、あのワンボックスを待っていたとか……。
「やっぱりヤバいよ! 早く逃げなきゃ!」
「落ち着いてよ、姉さん。最悪、このまま生配信を始めてしまおう。何かあれば、視聴者が通報してくれる。僕があいつらを見てるから、姉さんは荷物をまとめて」
尊はスマホを操作する。杏梨は『マニアック新世界』のロゴシールが貼られたトランクに、手当たり次第に機材を詰める。二階にあるこの部屋から、どう退避すべきか考えながら。
——だから、三階から足音が近づいてくるのに気づくのが遅れてしまった。
ミシッ、と床が鳴る音に顔を上げたのと、杏梨たちがいる部屋の扉が開くのは同時だった。




