第8話 橋の向こう側
シキは対岸の獣から目を離さず、橋の手前まで進んだ。イノシシ型のモンスターは川辺に四つ足を踏ん張り、白く濁った眼で三人を見ている。だが近づいてはこない。ふご、ふご、と鼻を鳴らすばかりだった。
川を隔てた睨み合いが続く。橋を渡ってくる様子はないが、いつ気が変わるとも分からない。シキは右手を軽く開いたまま、獣の動きを待った。
一分、二分ほど経っただろうか。やがてイノシシは鼻先を巡らせ、のそのそと奥の草地へ戻っていった。剛毛の背中が丈の高い茂みに隠れ、草を揺らす音も遠ざかっていく。
「……ふぅ。ひとまず大丈夫そうだ」
シキはいつでも剣を呼び出せるようにしていた右手を下ろした。
「そうね」
サラは獣の消えた方角を見据えたまま続けた。
「橋を渡って、さらに少し先が圏外という話だったから――ちょうどあのイノシシが引き返したあたりが境界のようね。こちら側には入ってこられない。あるいは、入りたくないか」
「加護ってやつ、ほんとに効いてんだな……」
ヒスイがほっと息を吐き、シキへ笑いかけた。
「で、どうするよシキ。橋、渡るか? なんならこっから俺の銃で撃ってみるのもアリだぜ」
右手を開きかけたヒスイを、サラが制した。
「待って。今のはこちらが攻撃の意思を見せなかったから、向こうが引いただけかもしれないわ。撃てば反撃される可能性はある」
「げ。……確かにそうだな。手負いで暴れられて、あっちの農園まで連れてっちまったらシャレにならねぇ」
ヒスイはばつが悪そうに手を下ろした。シキも背後の畑へ目を向ける。加護があるからといって、攻撃した相手まで追ってこないとは限らない。こちらへ引き込めば、農作業をしている住民を巻き込むかもしれなかった。
「もしやるなら――この橋を渡ってからか」
口にしたシキは、石橋の先を見た。自分から川の向こうへ渡り、あの濁った眼の獣に近づく。草原では戦うしかなかったが、今なら引き返すこともできる。
それでも、ここで戻れば武器の性能も、外で稼げるかどうかも分からないままだ。シキの逡巡は短かった。
「――考えても仕方ない。行ってくる」
「おい!? 一人で行く気かよ!」
「行くなら三人で行くべきね。フォローし合えた方がいいわ」
即座に返ってきた二つの声に、シキは二人を見た。
「……怖気付いたと思ってたわ」
サラの眉が上がり、ヒスイもむっと口を曲げた。
「言ってくれるじゃない。慎重になってただけよ」
「俺もビビってねぇし。やってやんよ」
「はは、悪い悪い」
シキは笑ってから、改めて対岸へ目を向けた。三人で行くなら、見えているものだけでも確認しておきたい。
「ひとまず、ここから見えた敵性のモンスターはさっきのイノシシ一体だけだ。他は分からない、と」
「……ねぇ。気のせいじゃないと思うのだけど――向こうの方、少し霞んで見えないかしら」
サラが対岸の奥を指した。目を凝らすと、橋の向こうの景色は遠ざかるほど薄い靄にぼやけている。空は晴れているのに、草地の先がはっきり見えなかった。
「俺もそれ思ったぜ。目の錯覚かと思ったけどよ」
ヒスイの言葉に、シキは顔をしかめた。
「……圏外だと遠方の視界が悪くなるってことか? おいおい、それ結構きついぞ」
あの奥にもモンスターがいるかもしれない。近づくまで分からないなら、早めに見つけて避けることさえ難しくなる。
ヒスイが「あ」と声を上げた。
「言い損ねてた。あのイノシシだけどよ――あれ、俺がこっちに来る前の草原で戦ったモンスターだぜ」
「私は大きいトカゲみたいなやつだったわ……」
サラが嫌そうに顔をしかめた。
「俺は狼だ。……三人とも違うモンスターと戦ってたのか」
草原で襲ってきた相手までばらばらだったらしい。ただ、ヒスイの話が当てになるなら、あのイノシシはまったく未知の相手ではない。
「あのイノシシは一度は倒せてる相手ってことになるな。――ヒスイ、その銃で何発で倒せたんだ?」
「……最初に戦った時は八発全部撃ったんだ。まともに当たったのは三、四発だな。真っ直ぐ突っ込んできたのに対して、夢中で乱射したんだよ。牙に当たって弾かれたのもあったと思う」
「なるほどな」
シキは獣の消えた草地を見ながら考えた。正面には弾を弾く牙があり、突進してくる。ヒスイ一人でも倒せたのなら、三人で動けば、もっと有利な位置を取れるかもしれない。
「横に素早く動ける感じじゃないなら、突っ込ませて、躱して、側面とか後ろから攻撃するのがセオリーってことになんのかな」
突進を外して横へ回る。狼を相手にした時も、最初の一撃で勢いを逸らせた。今度は、その隙に銃で援護してもらえる。
「まずは俺がやる。サラは周辺の警戒を。ヒスイは援護頼むぜ」
「射撃角度に注意なさい。フレンドリーファイアはシャレじゃ済まないわよ」
「……マジでシャレになってねぇよ。なぁ、先にどっかで試射しちゃダメか? 一回も撃たずに本番はさすがに怖ぇぞ」
草原では無我夢中で撃ったと言っていた。銃の感覚を落ち着いて確かめる機会は、まだなかったのだろう。
「向こうに行って、周辺に敵影がなければやろう」
「マジかよ。……了解。イノシシとシキを、俺で三角に捉える、だな」
「オーケー。――行こうか」
シキは右手を前へ翳し、武器の名を呼んだ。
「ストレイター」
掌に集まった光の粒子が、片刃の長剣へ形を変えた。反りのない刀身が陽光を弾く。戻ってきた重さは、やはり妙に手に馴染んだ。
「ルーラー」
サラの手には、装飾を削ぎ落とした薙刀が現れた。両手で構え直し、石突きでとんと地を突く。その扱いは自然で、長物の重さに振り回される様子もない。
「エイトカウント」
ヒスイの右手に現れたのは、黒く無骨な大型の拳銃だった。太い銃身を見て、シキは頷いた。
「銃か。……頼もしいよ」
「オートマチックタイプかしら。ずいぶん現代風ね」
「だろ。――両手じゃないと反動がけっこうあんだよな」
ヒスイが左手を添えて構えてみせた。これで三人の武器は揃ったが、防具は支給された革鎧だけだ。回復薬も予備の武器もない。
「無理はしないこと。最悪、橋まで走って逃げるわよ」
「「了解」」
いざという時の退路を目で確かめ、シキは剣を手に橋へ踏み出した。
石橋は古いが頑丈だった。欄干の装飾は風化し、何を象ったものかも分からない。中ほどで川面へ目をやると、澄んだ水の下を見慣れない魚影が走った。前へ視線を戻し、三人は慎重に橋を渡りきった。
対岸から数歩進んだところで、シキは空気の変化を感じた。
肌にまとわりつくような重さがある。湿度や温度が変わったわけではないのに、息を潜めたくなるような圧が身体に触れていた。振り返れば、渡ってきた橋はすぐそこだ。たぶんここが、加護の外なのだろう。
「……ぱっと見は、モンスターはいないな」
「さっきのやつも奥に行ったっぽいな」
ヒスイも声を潜めて応じた。シキは近くの草地から奥へ、順に目を配る。
膝丈の草の先に木々が点在し、家ほどもある大岩が行く手を遮っていた。さらに遠くには、靄を透かして屋根の崩れた建物の影が見える。あのあたりも、かつて人が暮らしていた場所なのだろうか。
木の陰も岩の向こうも、ここからでは見えない。橋の手前で眺めていたより、ずっと死角が多かった。
「試射は後回しだ。銃声がどこまで響くか分からない。撃つのは敵を見つけてからにしよう」
「うっ……ぶっつけ本番かよ……。了解だ」
「縦列でいこう。サラは一番後ろに。ヒスイは真ん中だ」
ヒスイを中央に置けば、前にも後ろにも援護へ動ける。踏み込むと決めたシキが先頭に立ち、サラが背後へ目を配った。
「行くぞ」
互いに離れすぎないよう、三人は草地へ進んだ。
◇
数分歩いたところで、イノシシ型のモンスターが見つかった。少し開けた草地に一体。鼻先で地面を掘り返しながら、のそのそと歩いている。
三人は手近な大岩の陰へ身を寄せた。シキは岩の縁から顔を出し、獣だけでなく周りの草地も確かめる。近くに動く影はない。ここなら、少なくとも獣のそばへ何かが近づいてきた時には気づけそうだった。
子牛ほどもある身体に、盛り上がった肩。口元の牙は異様に発達し、不揃いに捻じれている。橋越しに見ていた時より、その太さがよく分かった。
あれを倒す。そう思うと肩に力が入り、柄を握る手が汗ばんだ。横ではヒスイも銃を握りしめ、喉を鳴らしている。
シキはもう一度イノシシを見て、声を潜めた。
「なぁ。ヒスイが食った肉串ってあれだったりすんのかな」
「……は? 俺が食った……?」
ヒスイは顔を引きつらせて獣を見直した。さっきはあれだけうまそうに頬張っていたのに、今は口の中の味まで確かめるように唇を動かしている。
「いや、いやいやいや。俺が食ったのは鶏肉だったぜ? イノシシじゃねぇよ」
「わからないわよ」
サラは真顔で続けた。
「こっちで提供される食材の味が私たちの知っているものと一致するかは――まだ何も、検証していないわ」
ヒスイが再びイノシシへ目を向けた。
「……まじ?」
シキはしれっと言った。
「今夜食べるのが楽しみだ」
「ポジティブねー」
サラがくすりと笑い、ヒスイは「お前ら鬼かよ……」と呻いた。シキも笑い、握り込んでいた柄を持ち直す。力みすぎていた肩が緩んだ。怖さは残っているが、獣の動きを見る余裕は戻っていた。
「ヒスイ。俺は基本イノシシの右側に位置取る努力をする。お前は左側から狙ってくれ」
「よっしゃ。任せろ」
「サラは周囲の警戒を頼むよ。……警戒って、めっちゃ大事だな。ここに来て分かったわ」
「ふふ、今さら?」
サラは苦笑しながら頷き、岩の反対側へ目を向けた。目の前の一体に集中している間に、別の獣が来るかもしれない。二人が戦っている間、彼女にはそちらを見てもらう必要があった。
シキは二人の顔を確かめ、深く息を吸って吐いた。バスケの試合前やフリースローの前にも、そうして呼吸を整えていた。速かった鼓動が、少し落ち着いてくる。
草原で狼と向き合った時は、何もかも無我夢中だった。今は作戦があり、役割も決めてある。ヒスイが援護し、サラが周囲を見てくれる。
あの時よりずっといい。
「行くぞ」
シキは岩陰から踏み出した。ヒスイも間を置いて岩を離れ、獣の左側を狙える位置へ動く。シキは剣を構え、イノシシの正面へ進んだ。
濁った眼がこちらを捉えた。鼻先が持ち上がり、ふご、と空気を嗅ぐ音がする。前脚が土を掻き、盛り上がった肩が低く沈んだ。
「ギュオオォッ!」
獣とも鳥ともつかない声を上げ、イノシシが突っ込んできた。蹄が地面を叩き、土塊が跳ねる。捻じれた牙がまっすぐシキへ迫った。
速い。だが――。
(直線なら見える!)
シキも前へ踏み込んだ。勢いがつききる前に距離を詰め、獣の進む線から身体を外す。
牙が目前に迫った瞬間、半身になって長剣を横薙ぎに振り抜いた。剣の腹が横っ面を叩き、がんっ、と重い音がする。そのまま打ち合わせどおり、獣の右側へ回り込んだ。
突進の軌道が流れ、イノシシが脇を駆け抜ける。シキを追おうと四肢を踏ん張り、向きを変えかけた。反対側にいるヒスイへ、獣の側面がさらされた。
パン、パン、パンッ!
乾いた銃声が三度響いた。うち一発が胴体へ食い込み、獣の身体が跳ねる。
「ギィッ!?」
踏ん張っていた脚が崩れた。その隙へシキは踏み込み、首筋を狙って長剣を振り下ろした。恐ろしいほどの速さで振り抜かれた刃が剛毛を裂き、深く食い込む。
両手へ硬い手応えが返った。骨に当たったのか、引こうとしても剣が抜けない。シキは革靴の底で獣の頭を蹴り、押し離す勢いで柄を引いた。
抜けた刀身から黒ずんだ血が散った。イノシシは二、三歩よろめき、横倒しに崩れ落ちる。シキは剣を構え直し、その動きを見守った。
四肢が数度痙攣し、白く濁った眼から光が消えた。草原の狼と同じだった。もう動かないことを確かめ、それでも剣は下ろさずに声を上げる。
「……サラ! 周りは!?」
「クリアよ! 動く影はないわ!」
「……っしゃあ!」
背後でヒスイが抑えた歓声を上げた。シキはようやく、長く息を吐いた。握り続けた柄が汗で滑り、心臓は全力疾走のあとみたいに暴れている。
それでも、三人とも立っていた。援護の銃声も、周囲を確かめる返答も、ちゃんと届いた。
勝った。三人での初戦闘、初勝利だった。




