第60話 一週間の終わりに
陽が傾き、街が橙に染まりはじめていた。
三日月亭の窓からは、大通りへ抜ける細い路地が見えている。日暮れ前のこの時間、街の人々は一日の仕事を終えて足早に家路をたどっていた。荷車を引く男が石畳を鳴らして通り過ぎ、その後ろを小さな買い物籠を抱えた女が追い越していく。向かいの建物の白い壁が西日を照り返し、路地の奥まで淡い光を届けていた。
やがて、どこかの家の窓に明かりが灯る。魔石の照明らしい青白い光が、橙に染まる街並みの中でぽつりと浮かび上がった。
三日月亭の一階は、宿泊棟へ続く階段を奥に抱えた料理屋になっている。梁の低い天井から吊り下げられた三つのランプが、磨き込まれた木のテーブルを照らしていた。壁際には香辛料の瓶と乾物の袋が並び、その下の棚には木皿と陶製の器が高さを揃えて伏せられている。
厨房からは、これから始まる夕食時に向けて仕込みの音が聞こえてきていた。包丁が俎板を叩く音、鍋の蓋が鳴る音、そこへ女将が誰かへ短く指示を飛ばす声が混ざる。煮込まれた香草の匂いが、店の隅々まで満ちていた。
客の姿はまだない。夕食にはいくらか早い時間だった。
その店内の、窓際の大きなテーブルを八人で囲んでいる。
ハルシオンロードの七人と、アドベントのアヤネ。それぞれの手元には、少し赤みを帯びた茶が置かれていた。シキが街で買ってきたものを、女将が淹れてくれたのだ。
アヤネは革の胸当てを外し、街着に着替えている。目立った怪我はない。三日月亭で数時間眠ったことで、体力もいくらか戻っていた。それでも、湯気の立つ器を両手で包んだまま口をつけようとしない様子には、疲労とは別種の重さが滲んでいる。
ヒカリの隣に座らされた彼女へ、シキが正面から話を切り出した。
「というわけでアヤネ、今話した屋台を手伝って欲しいんだ。さすがにサクヤ一人に任せるのは荷が重いしな。お前も明日からどうするかなんて決めてないだろ?」
「……なによそれ。同情? 命令?」
アヤネが睨むように顔を上げる。険を含んだ声色だった。
シキは大して気にも留めずに返した。
「命令してるつもりはないけど、同情はしてるぜ。やりたくないなら仕方ないとも思ってる。サクヤが大変になるだけだ」
「ちょっと!?」
サクヤが涙目で反応する。今しがた聞いたシキの計画は、どう考えても一人でやりきれるとは思えなかった。
慌てるサクヤに対し、シキは平然と言い放つ。
「業務用のコンロが二十万フロー。リングストレージでの持ち運び処理に五万。その他、屋台を始めるにあたって雑費五万。その初期費用を調べてきたのはサクヤだろ? 日銭稼ぎとしても見込みはあるし、肉の買取と卸で街も屋台連盟も、開拓者まで含めてWin-Winだと思うけどな」
「そん中にうち入ってるんか?」
サクヤがすかさず突っ込んだ。
確かに、ハルシオンロードへ加わった時から屋台の話は出ていた。実際に市場を回り、店主たちに話を聞き、必要な物と金を書き出してきたのも自分だ。しかし調べれば調べるほど、自分たちで屋台を始めるのは難しいだろうとも思っていた。
そもそも業務用のコンロが二十万。この金を用意すること自体が難しい。しかも、あれだけ大きなものをリングストレージで持ち運べるようにするには、別途費用がかかることも判明した。加えてテーブルや調味料といった細々したものを揃えれば、五万は見込む必要がある。
しめて三十万フロー。それが、この街で本格的な屋台を始めるために必要な資金だった。
サクヤの心中を察したのか、ヒスイが指を折りながら笑った。
「金はあるからなー。緊急依頼二つの達成報酬三十万! 素材売却十一万! そんでもって情報売却で四万! しめて四十五万だ! 屋台やっても十五万残るし、そもそも今までクランとして残してあったのが二十万はあっただろ。リターン考えたらやる一択だよな?」
サクヤががくりと肩を落とす。確かに、高い確率で収入を得られる手段があるのなら、やらない手はなかった。
そして、シキがアヤネへ向き直る。
「というわけで、助けてもらえると助かるんだよ。実質、屋台だけじゃなくて保存食作りとか、街での情報収集なんかも頼みたいしな。もし俺らが考えてる通りになるなら、南の四クラン全体の後方支援みたいなこともお願いすることになりそうだ」
「……大変すぎるでしょ。それを私たち二人にやれって言ってるの?」
シキがじっとアヤネを見る。その視線の強さに、アヤネは俯くように目を逸らした。サクヤのほうは、その仕事量を想像して顔を青くしている。
シキは態度を変えずに告げた。
「昨日あんなことがあったからな、冷静に考えられなくても仕方ないか。ちゃんと説明するからよく聞けよ」
テーブルの空気が変わる。アヤネとサクヤだけでなく、他のメンバーも真剣に聞く姿勢を取った。
「もし俺らが屋台なんてやり始めたら、真似る連中や、自分もやらせてくれっていうのが絶対に殺到してくる。外に出て戦うよりは気楽に感じるだろうからな」
誰も口を挟まない。厨房の物音だけが、遠く聞こえている。
「俺らは明日、紅蓮やウォーカーらと会議をする予定だ。今回のアドベントの件を反省して、もう少しきちんと連携が取れる体制を作るべきって話になったみたいだからな」
これは、南門の外でサラやナイクたちが決めてきたことだった。明日以降の動きも、互いにある程度共有すべきだろうという話になったのだ。
「俺もその話には賛成する。つっても、実際にどうやって共有の場を作るんだって話だろ。この世界で生きていくために金を稼ぐ必要があるのに、事務員みたいなのを常駐させるようなやり方ができるわけない」
アヤネが訝しむように眉を寄せた。話の結論が見えなかったからだ。
「つまり、どういうこと?」
シキが頷く。
「屋台は後方支援を担当する開拓者のための道具になる。怪我で外に出れない人間の日銭稼ぎとかな。そして屋台がそこにあって、クランメンバーが集まっていれば、自然とそこが情報共有の場になるだろ。かなり重要なポジションってことだ。つまり、お前らがやらないなら別の誰かがやる。その最初の声かけを、今、やってるんだよ」
前提条件の共有は終わり、選択肢が提示された。
アヤネの手の中で、茶がすっかり冷めはじめている。
「俺たちハルシオンロードは、今後も先に進むために圏外に出続ける。サクヤは出られないから街に残るわけだけど、ただ飯食いさせられるような余裕は無いんだ。正直、今回の屋台の件だって、その金を全部使って装備更新すべきじゃないかって話は俺らの間でも出た。それでも屋台をやろうとしてるのは、継続的な収入を含めてメリットも大きいからだ」
シキが視線を逸さずにアヤネへ言葉を告げる。
「ここで断って、明日リスタートしたって構わないぜ。アドベントのサブリーダーだったんだろ? それなら、それなりに戦えるはずだ。街に残る選択を避けたい気持ちもわかるしな。だから強制も命令もしない。自分で考えて選んでくれ」
アヤネは黙り込んだ。
たしかにシキの言っていることには筋が通っていると感じた。この世界にいきなり転移させられ、誰も彼もが手探りの中で考えて行動している。その決断の後始末は、自分でやるしかないのだ。
その決断も行動も、大失敗に終わったのが昨日だった。だが、自分は生き残った。他の誰かが生き残っていれば、ここに座っているのは自分ではなかっただろう。そうであるなら、この話は自分だから声をかけられたわけではない。
たまたまの結果、成り行きでここにいるだけだ。
そしてだからこそ、自分は今、この選択肢をもらえたのだ。
窓の外の光が、また一段だけ濃くなった。テーブルへ落ちるランプの影が、少しずつ輪郭を強めていく。
アヤネは膝の上で手に力を入れ、真っ直ぐに見つめてくるシキを見返した。今度は視線を逸らさなかった。
「わかった。やってもいい。……あと、質問したいんだけど」
「ああ、いいぜ」
「私は今、アドベントの所属になってると思うんだけど、それはどうなるの?」
シキが少し考えた。
「クランの移籍の要件はわからないな。ただ、この話を受けてもらえるなら、ハルシオンロードの一員として迎えるぜ。仲間としてやっていこう」
誤魔化さない、真っ直ぐな言葉だった。
そのシキの態度に裏はないと感じたアヤネは、小さく息を吐いた。
「じゃあ、改めてよろしく。……私はもう、逃げたくないから」
昨日は仲間が死んでいくのをずっと隠れて見ているしかなかった。
今日の昼、この街に着いた時にはリーダーのリクが逃げ出した。なんの責任も取らずに。
ここでこの話を断れば、そんな人間と同じになる。それだけは嫌だった。
シキが手を差し出す。
「そうか。改めてよろしく。ハルシオンロード八人目のメンバーだな」
「うん。よろしく」
差し出された手を、アヤネが握り返した。
その様子を見ていたヒカリが、隣で嬉しそうに両手を打ち合わせる。厨房から顔を覗かせた女将が、何事かと目を丸くしていた。
◇
八人で早めの夕食を摂り終えるころには、窓の外は暗くなりはじめていた。
入れ替わるように、料理屋へ客が入りはじめている。仕事を終えた街の住民が二組、三組と扉をくぐり、そのたびに女将の優しい声が出迎えた。厨房から流れてくる熱気も匂いも、先ほどまでとは比べものにならない。三日月亭の一階が、一日のうちで最も賑わう時間だった。
その喧騒の中で、サラが椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあ私は彼女たちと明日の会議に向けた事業計画書を作ってくるわね。明日以降の方針決めは任せるわ」
サクヤとアヤネを促し、三人が客室のある階へ向かおうとする。
残った五人がそれを見送ろうとしたところで、シキが何か言いかけて口を閉じた。しばらく手元の器へ視線を落としてから、小さく息を吐き、慌てたように後を追う。
その背中を、ヒスイとヒカリが不思議そうに見送った。
◇
料理屋のフロアから客室へ続く廊下は、扉一枚を隔てただけで空気が変わる。
壁に据えられた小さなランプが三つ、等間隔に灯っているだけの薄暗い通路だった。厨房の物音も客の話し声も、ここまで来ると壁越しの遠い響きになる。板張りの床が、踏むたびに小さく軋んだ。
「サラ、悪い。ちょっとだけいいか?」
階段へ足をかけようとしていたサラが振り返る。わざわざこのタイミングで呼び止められた理由が分からず、首を傾げた。
「どうしたの? 他に決めておくべきことがあったかしら?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな……」
珍しく歯切れの悪い返答に、サラの訝しむ色が濃くなる。
シキは、少し先の段で待っているサクヤとアヤネへちらりと目を向けた。
「悪い。ちょっと二人で話したいんだ。先に部屋に向かってもらえると助かる」
その言葉に、サクヤがにんまりと笑みを浮かべる。
「なんやなんや、意味深やね。なんの話やったかはまた聞かせてな」
アヤネのほうは小さく嘆息した。
「プライベートくらいあってもいいでしょ。先に行ってるわね」
サクヤの腕を引いて、二人は階段を登っていく。足音が遠ざかり、上の階の扉が閉まる音を最後に、廊下は静けさへ戻った。
それを見送ってから、シキがリングストレージの荷物リストを開く。
半透明のディスプレイに指を滑らせ、その中の一つを取り出した。光の粒子が形を結び、掌の上へ小さな包みが収まる。
「これ、この世界のクッキーみたいなおやつだ。女将さんに頼んでさっきのお茶も持っていってもらうから、みんなで食べてくれ」
差し出された小袋をサラは首を傾げながら受け取った。指先に伝わる重みは思っていたよりもある。
「あ、ありがとう。わざわざ買ってきてくれたの? お茶も買ってくれたのに」
シキが少しバツの悪そうな顔で頭をかいた。
「お茶はお礼だな。サラが全員で楽しめるものが良いって言ってくれたから、俺の無茶に付き合ってくれた全員への礼だよ」
そこで言葉が途切れた。
シキが次を続けない。廊下のランプが、その横顔へ淡い影を落としている。口ごもるところなど、サラはこの一週間でほとんど見た記憶がなかった。
「らしくないわね。言いにくいこと?」
促されて、シキがおそるおそる目を合わせる。
「……昨日、気絶した俺をテントで看病してくれてただろ。リアと一緒に寝かされてた」
「ええ、それで?」
「…………それで、夜に目が覚めて起き上がろうとした時にさ……その、触っちゃってな。悪いことしたと思って、その、ごめん」
深く頭が下げられた。
サラは、その姿勢のまま止まった。
受け取ったばかりの小袋を両手で抱えたまま、指がわずかに強張る。言葉が出てこない。頭の中で今の一言を二度、三度と反芻して、ようやくその意味が像を結んだ。
しばらく反応がないことに耐えかねたのか、シキがおそるおそる顔を上げる。
そこにいたのは、耳まで赤く染め上げたサラだった。
その顔を見て、シキは自分の判断が誤っていたことを悟った。
「あ、悪かった! 恥ずかしがらせたかったわけじゃないんだ! 悪気は無かったということを伝えたくて……その、ごめん」
再び下げられた頭に、サラのほうも我に返る。声が上擦らないようにするのに、相当な努力を要した。
「べ、別に気にしてないわよ。そもそもあんな狭いテントで三人でいたのよ? ちょっと体が触れるくらいのことが嫌なら私だって寝落ちなんてしなかったわよ。……こんなふうに謝ってもらえると、さすがに戸惑うわ」
「そ、そうか。気にしないって言って貰えるなら、明日からはまた普通に接するよ。大袈裟にして悪かった」
「律儀ね。そんなに深く考えるものかしら?」
言いながら、サラは内心で首を傾げていた。
サラの見立てでは、シキは男子高校生だ。狭いテントの中で体が触れた程度のことを、わざわざ人払いまでして謝罪するとは思わなかった。触れた場所が悪かったということなのだろうか。
そこまで考えて、はたと気づく。
そうであるなら、それはつまり、彼が自分のことをはっきりと女性として意識しているということに他ならない。頬の熱が引かない理由は、たった今、そちらへ移り変わっていた。
シキはといえば、小さく息を吐いていくらか顔色を戻していた。
「こんな世界だからな。てきとうなことしたくなかったんだよ。……そんな相手を信じられないだろ?」
「ふふ、シキらしいわね」
サラの脳裏を、同年代の男の子をからかってやろうかという意地の悪い考えが掠めた。
だが、即座に思い直す。
(ここまでしてくれた相手に、それはさすがに野暮ね)
そうすべきと考え、努めて気にしていないことを態度で示す。抱えていた小袋を片手へ持ち替えた。
「悪気がなかったのはよくわかったわ。いろいろ配慮してくれたこともね。でも、もし今後似たようなことがあっても気にしないでちょうだい。それこそ、やりにくくなるわ」
その返答に、シキは心底ほっとした様子を見せた。これ以上大袈裟にしないという意思を、そのまま態度で返す。
「わかった。じゃあ屋台の方の計画は頼むな。こっちは任せてくれ」
「ええ、任せておきなさい。そっちもしっかりお願いね」
軽く手を振り合って、二人は別れた。
◇
階段を一段ずつ登りながら、サラはそっと胸に手を添えた。
(やっぱり、あの時のは気のせいじゃなかったのね)
昨日の夜。倒れた二人を看病している横で、どうしても眠気を抑えられなかった。自分では意識を手放したつもりなどなかったが、実際には眠ってしまっていたのだろう。
その最中に、確かな重みで触れられた感覚があった。遠い意識の向こう側で、それだけをぼんやりと拾っていた。
朧げな記憶を手繰りながら、受け取ったばかりの小袋へ目を落とす。
「謝罪のお菓子、か……まったく、謝罪の言葉はもう貰っていたのに、本当に律儀ね」
小さな呟きが、人気のない宿屋の廊下へ吸い込まれていった。




