第53話 戦いを越えて
シキとリアの決死の一撃を受け、燃え盛る巨躯が大きく傾いた。
ドオォ、と地を揺らす音を立て、巨大なヒノシシが倒れ伏す。全身を包んでいた炎は急速に勢いを失い、最後には燃えさしのように細くなって消えた。
「はぁ……はぁ……食いでが……ありそう……だぜ」
シキが膝をつき、死体となった巨躯を見上げる。その横へ駆け寄ったヒスイも膝をついた。
「シキ! お前……なんだよ今のは!?」
シキは震える腕を持ち上げ、リアを指さした。
「はぁ……さぁな。それより……リアと、サラを……頼む」
少し離れた場所で、ヒカリが小さな悲鳴を上げる。その視線の先では、リアが糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちていた。
「リアちゃん!?」
ダンも傷ついた体を引きずり、石壁の際に倒れたままのサラへ身を寄せた。首筋へ手を当てて呼吸を確かめ、瞼を持ち上げて反応を見てから短く息を吐く。
「……サラは大丈夫だ。出血もひどくはない。気を失ってるだけだ」
その報告を聞き、ヒスイは詰めていた息を吐き出した。
「リロード。……よし、俺はリアを連れてくる。お前らなんとか、シキとサラを守ってくれ」
ヒスイがそう言い終えたところで、シキも地面へ倒れ込んだ。ヒカリの顔から血の気が引く。
「う、うそ!? シキ! 大丈夫なの!?」
ダンが警告を飛ばした。
「ぐ、まずいぞ……。まだ終わっていない!」
周囲にはまだ数体のヒノシシが残っている。親玉を倒されたことで距離を取ろうとしているようにも見えたが、いつ飛びかかってきてもおかしくない間合いだ。
さらに一戦か――ヒスイが身構えたその時、複数の足音が近づいてきた。
駆けつけたのはシュリとナイク、その仲間たち。そして、ベルカだった。
先頭のベルカが、担いでいた大ぶりな両手剣を横薙ぎに振り抜く。刃が届く距離ではなかったが、分厚い刀身が唸りを上げて空を裂いた瞬間、ヒノシシたちは弾かれたように後ずさった。
その一瞬を、シュリとナイクが突く。
右からナイクが盾ごと体をぶつけて一体の姿勢を崩し、左からシュリの紅蓮が滑り込んだ。居合じみた一閃が首を深々と裂き、返す太刀が二体目の胴を深々と薙ぐ。
残る個体へも、駆けつけた面々が二人一組で群がっていった。最後の一体が地に沈むまで、いくらも時間はかからなかった。
その間にダンは石壁の際へ戻り、サラを抱え上げてシキたちのもとへ運んだ。地面へ下ろすなり、駆け寄ってきたヒカリがすぐさま手当てをはじめる。
掃討を見届けるなり、シュリが駆け寄ってきた。
「大丈夫か!? お前たち、よくぞこんなデカブツを倒したな!」
驚嘆と呆れを等分に含んだ声だった。ナイクもシキの容体を確かめるように、慌ててその場へ膝をつく。
「おい! シキ! 息はあるな!? さっきのマジでなんだったんだ!? 人間やめたのか!?」
こちらは驚きと興奮がほとんどを占めていた。
あの一瞬を目にしたのは、ハルシオンロードの面々と、三時方向まで駆け戻ってきたナイク、シュリ、ベルカ。そして、その仲間の幾人かだけだ。
彼らの目に焼きついたのは薄銀色の輝きだった。だが、名前を持たないものは語りようがない。見た者は揃って、あれは何だったのかとぎ疑問を口にするしかできなかったのだ。
危機が去ったことに、ヒスイは深い安堵の息を吐いた。危うく尻餅をつきかけたが、リアが一人取り残されていることを思い出し、腹へ力を入れて駆け出す。
その背中を見送り、ベルカが口を開いた。
「……すまない。このデカブツを止められず、事態を複雑にした」
ナイクが首を横に振った。
「いや、今回たまたまコイツが現れたのがタスクフォースの持ち場だったってだけだろ。止められねぇよ。……ハルシオンロード以外にはな」
シュリも同意を示したが、気を失った人間が三人おり、盾役のダンにも傷が多い。深々と息を吐いたシュリが、そこで言葉を継いだ。
「とはいえ、無事でもない。ここからどうするかだぞ。ひとまず他にも怪我人が多数。重傷者もいる。それに……」
陽が落ちようとしていた。圏外の靄は橙から鈍い灰へ沈みはじめ、崩れた建物の影も足元まで長く伸びきっている。さほど時間を置かず、完全な夜が来る。この状況で街へ戻るのは自殺行為だった。
サラの傍らへ膝をついていたダンが、顔を上げる。
「プルア村はどうだ? 街に戻るよりは近い。街の兵士やそちらのクランメンバーも大勢残っているだろう」
シュリが腕を組んで思案する。
「一理あるが、怪我人が多過ぎる。動けない者をひとまとめにして、せめて一晩ここで休むべきかとも思うが……」
ナイクが暗くなりつつある周囲へ目を向けたまま、苦々しく口にした。
「もしもう一度このデカブツが来たら、一巻の終わりだぞ」
サラの手当てを続けていたヒカリが、顔を上げる。
「戻ってる時に襲われても一緒だよ! 絶対ヤバイって!」
ベルカも重々しく頷いた。
「そうだな。仮にプルア村に戻っても、このような怪物に襲われたらひとたまりもない。頼みの綱の三人がこれでは……」
そこへ、リアを背負ったヒスイが戻ってきた。
リアの顔からは完全に血の気が引いている。それでも背中越しに伝わる呼吸は、浅いながらも規則正しかった。
ヒスイは慎重にリアを下ろし、その顔を覗き込んでから一同へ向き直る。
「リアと……多分シキも、魔法力枯渇症だ。この前リアが倒れた時と同じ状況だろ。それなら、一眠りすれば動けるくらいにはなるはず……だと思う」
ダンも頷いた。
「そうだな。断定はできないが、似た容体に見える。……もはや、そう願う他ないが」
状況を把握するための報告と、この先の行動を決めるための意見が次々と飛び交う。しかし、話し合いはそこで行き詰まった。
誰の案にも一理があり、同じだけの穴がある。留まれば圏外で夜を越えねばならず、動けば道中で襲われる。天秤の皿は右へ左へ揺れ続け、どちらへも傾ききらなかった。
こういう時に決定を下すのは、いつだってシキで、次いでサラだった。
選択肢を並べ、賭ける場所を決め、責任ごと引き受けて号令を出す。四クランがこの町まで辿り着けたのも、突き詰めれば二人がその役目を果たしてきたからだ。その二人が今、地面に倒れて目を開けない。
役割の抜けた穴は、当人がいなくなって初めて輪郭を現す。
ヒスイはシキの顔を見た。汗と土に汚れた寝顔は、完全に意識を手放しているのが一目でわかる状態だった。
(どうすりゃいいんだよ……。この判断一つで、生還か全滅かが決まっちまうぞ)
胸ぐらを掴んで一喝したのも、迷った背中を蹴飛ばして走らせたのも自分だ。だが、それはいつも、決めた男を前へ押し出すための役目だった。決める側に立ったことは一度もない。
ヒスイは自分自身に落ち着けと言い聞かせた。
決められないのなら、決めるための材料を集めればいい。判断の前に情報――それも、あの男が散々見せてきたやり方だった。
「……状況を整理しようぜ。完全に陽が落ちるまではまだ時間があるだろ。素材の回収と、動ける人数の確認だ」
その提案に、場の全員が頷いた。
方針ではなく手順であれば、誰も反対する理由がない。止まっていた空気が、それだけで再び動きはじめた。
ヒカリが立ち上がる。
「ヒスイ、ダン。二人ともここで三人を見てて。それで、この後のこと決めてほしい。あたしが素材回収してくるよ。……どう動くことになっても、あたしは絶対最後まで頑張るから」
ヒスイがヒカリを見上げた。
髪は乱れ、服の裾は裂け、頬には乾いた血の跡がある。それでも、こちらを見下ろす目に揺らぎはなかった。
「わかったぜ。回収頼むわ」
「うん! まずはコイツからだよね」
その言葉に、一同は改めて巨大な死骸を見上げた。
ヒカリがリングストレージをかざす。
山のような体躯が光の粒子へ変わり、夕闇へ溶けるように消えていった。あれほどの質量が通常のヒノシシ一体と何ら変わらぬ手つきで処理されていく。その無機質さに、誰かが小さく息を呑んだ。
立ち上がった半透明のディスプレイに、素材の一覧が並ぶ。
火の魔晶石三個。火の魔石五個。ヒノシシの肉十個。ヒノシシの骨四個。ヒノシシの巨大な牙二個。ヒノシシの毛皮三個。
「ヒノシシ・変異体だって……。あと、火の魔晶石。話に聞いてた魔石の上位版だね」
ヒカリが表示された内容を順に読み上げる。
変異体という三文字が、たった今まで「デカブツ」としか呼びようのなかったものへ正式な名前を与えた。名がついた瞬間、それは偶然現れた化け物から、この世界の体系に属する存在へと変わる。
つまり、二度目があるということだ。誰も口には出さなかったが、その事実は全員の背筋を冷たく撫でていった。
「じゃあ、他のも取ってくるね! 数はざっくり仕分けになるけど!」
声の調子だけは落とさず、ヒカリが駆け出していく。集まってきた他クランの面々にも次々と声をかけ、各クランの持ち場ごとに回収を進める段取りを取り決めていった。
「揉め事はなしだよ!」
元気に念を押して回る声が、静まり返った町へ響いていく。
その様子を見送り、ヒスイは改めて考えた。戻るべきか、留まるべきか。
◇
ナイクたちのもとにも、人員状況の報告が次々と上がってきていた。ヒスイはまず、身内の状態から確かめることにした。
「ダン、サラをおぶっていけるか? お前も怪我ひどいだろ」
ダンは力強く頷いた。
「大丈夫だ。痛みも引いてきている。……バトルは避けたいところだがな」
そう言い切るものの、脇腹の革鎧は牙に裂かれ、巻きつけた応急の布もすでに赤く染まっていた。
「だよな。そちらさんはどうよ?」
ヒスイが他の三クランのリーダーへ問いかけると、まずシュリが答えた。
「二十人中、一人で歩けないのは二人だ。他は動けなくはない。三人、死んだがな……」
声は凛としていたが、最後の一言だけは明らかに温度が違った。
続いて、ナイクが俯いたまま答える。
「一人死んだ……。重傷は三人いる。とてもじゃないが、動かせる状況じゃねぇな」
いつもの軽さは、影も形もなかった。
最後にベルカが口を開く。
「うちは五人死んだ……。重症者が三人。他は、なんとか動ける状態だ」
努めて冷静でいようとしているのか、その声は震えていた。最初に変異体の突撃を受けた持ち場なのだから、被害がもっとも大きいのも当然だった。
ヒスイは口の中で、九人、とその数を転がした。
プルア村では誰一人失わなかった。四十体以上を相手にして、かすり傷程度で終わらせた。それが正しく積み上げてきた結果なのだと、昼にはあれほど胸を張っていた。
それから半日と経たず、九人が光となって消えた。
ふいに思い出したヒスイが尋ねた。
「俺らに救援依頼をしてきた連中は? 五人いたよな?」
シュリが苦々しく答えた。
「途中で逃げ出したようだ。うちの者が目撃している」
ヒスイは吐き捨てた。
「あいつら、ふざけやがって!」
それでも、冷静に数えれば戦力はまだ残っている。死者は出たが、大半は自分の足で歩ける。今すぐ出立すれば街道を辿り、夜のうちにプルア村へ届くだろう。周囲のヒノシシがこの戦闘へ引き寄せられたのなら、道中で新たな大群と遭遇する可能性も低い。
しかし、再び乱戦に陥る可能性はゼロではない。その一点だけが、どうしても天秤から降りてくれなかった。
一同が逡巡していたところへ、近づいてくる足音があった。
リクだった。
「よ、よう。お前ら、マジ倒したんだな……」
全員が顔を上げる。
アドベントのリク。そもそも、このリクが先導した八十人を救出しようという話から始まった緊急依頼だったことを、その場の全員が思い出した。
ナイクが乾いた笑いを浮かべる。
「本気で忘れてたぜ……。お前、無事だったんだな。何人生き残ってるんだ?」
リクは答える代わりに、まず全員の顔を見渡した。
意識を失った三人。脇腹を裂かれたダン。腕を吊った者、頭に布を巻いた者、肩を貸されてようやく立っている者。無傷の人間は、この場に一人もいなかった。
やがてリクは顔を伏せ、諦めたようにへらりと笑った。
「……俺含めて、三人っす。一人は重傷で動かせない。治療のあては……あるわけないっすね」
その態度に、ヒスイはキレそうになるのをぎりぎりで押し留めた。
リクはすでに、クランの仲間を大勢死なせている。金と仕事の約束で広く集めた人間も、何十人と死なせた。三十人と五十人。合わせて八十人いたはずの集団で、残ったのはわずか三人。
殴ったところで何一つ戻らない。すでに、あまりにも重い十字架を背負っていた。
「……ん……んぅ」
その時、地面に寝かされていたサラから、くぐもった声が漏れた。
「サラ!? おい! 無理に起きるなよ!」
サラがゆっくりと目を開ける。しばらく焦点の定まらなかった瞳に、少しずつ光が戻ってきた。
「……なにが……あのヒノシシは!?」
状況を把握しきれないまま、サラは勢いよく体を起こそうとした。途端に強い頭痛と全身の痛みに襲われ、小さな悲鳴が漏れた。
言わんこっちゃないと、ヒスイは水筒を取り出し、サラへ差し出した。
「あのデカブツなら倒したぜ。シキとリアがな。とはいえ、細かい話はあとだ。ここに留まって野営するか、急いで街に戻るか決めなきゃならねぇ」
サラは受け取った水筒に口をつけ、乾いた喉を潤した。それから周囲へ視線を巡らせる。
崩れた廃屋。動かないシキとリア。座り込む負傷者と、その間を回るヒカリ。そして、背の高い木々と大岩に囲まれた閉ざされた広場。
そこへヒスイが、死者の数と動ける人数を手短に伝えた。サラは短く目を閉じる。それだけで、判断の材料は揃った。
「留まるべきだわ。明日、夜明けとともに出発しましょう。できれば、まだ動ける数人でプルア村に行って、ここの奪還に成功したことを報告したいところね」
その頭の回転の速さに、シュリが目を見張った。
「起きて早々にこれか……。根拠を聞かせてもらえるか?」
いまだ目を覚ます気配のないシキへ目をやり、サラは苦笑を浮かべる。それから痛む背を伸ばして一同へ向き直り、自分たちを囲む地形へ顎をしゃくった。
「シキが動けるなら、すぐ街へ戻る選択をしたところだけれどね。まず、夜になればヒノシシは眠るわ。このあたりに夜行性のモンスターがいないとも限らないけれど、もしそんなものがいるなら、なおのこと動くべきじゃないでしょう。ここに留まって、体力を戻しながら守りに徹するべきよ」
サラは自分の体の状態を確かめるように、手を握りしめた。
「幸か不幸か、事前の間引きも合わせて周囲のヒノシシはほとんど一掃したはず。一晩程度なら持たせられると判断するわ。陣はここに敷きましょう。大岩と木々を背にして、開いているのは正面だけ。町の外からは完全な死角よ。……リクたちが半日籠城できた場所だもの。これ以上の条件は、この町のどこにもないわ」
誰も反論しなかった。
ここの下調べをした時にシキが「入ってみるまで分からねぇな」と警戒した死角が、そのまま今夜の砦になる。
サラは、続けて報せを出す理由へ話を移した。
「プルア村までなら、まっすぐ行って一時間もかからないわ。動ける数人を今から出しましょう。暗くなっても街道沿いなら道も見失わないはずよ。……夜明けを待ってから報せていたら、ハルバート支部長がここへ確認に来るのはさらに遅れるわ。そのぶん、街へ戻るのも遅くなる。負傷者を一刻でも早く運びたいなら、報せだけは今夜のうちに走らせるべきよ」
シュリが得心したように頷いた。
報せ、確認、帰還。その三つは一本の鎖で繋がっている。最初の一つを夜明けまで遅らせれば、確認隊の到着も、負傷者を街へ運び込める時間も同じだけ後ろへずれ込む。
サラはさらに付け加えた。
「それに、ここの奪還には依頼料として五十万フローが出るわ。犠牲者もゼロじゃないでしょう? その弔いのためにも、私たちはこの先に進まなければならない。であれば資金が必要よ。ここに留まって、緊急依頼の達成を確定させるべきね」
ヒスイが強く頷いた。
「だな。これで今日俺らが帰ったあとに、またヒノシシどもに居座られちゃたまったもんじゃないぜ」
サラはリクを見上げた。それも一瞬のことで、視線はすぐに、まだ眠り続けているシキとリアへ戻る。
「やり直しは勘弁してほしいところね。それと……色々と聞かなければならないわ。でも、それより先に彼らを休ませましょう。テントは二つしかないから、重傷者優先で。うちの二人は私が看病するわ。……正直言って、私もまだ少しつらいのよ」
方針が決まってしまえば、あとは早かった。
伝令として選ばれた四人がプルア村へ続く街道を駆け出し、残った者は広場の正面へ瓦礫を積み上げて簡易の防柵を作りはじめる。大人数を収容できるだけの野営装備などなく、二張りのテントへ重傷者を寝かせれば、ほとんどの人間が地面へ直に横になるしかない。それでも、食料と調味料と水はあった。魔石コンロもある。
やがて広場のあちこちに小さな熱源が灯り、焼けた肉の匂いが立ちのぼりはじめた。
昼にプルア村で嗅いだものと同じ匂いだった。違いといえば、誰の顔にも疲労の色が濃く、笑い声が無かったことだ。
その中を、サラは痛む体を引きずって歩く。負傷者の数を確かめ、動ける人員を割り振り、見張りの順番を組み、他クランのリーダーと言葉を交わしながら、今すぐ座り込みたい衝動を一歩ごとに踏み潰していく。
シキが立てないなら、今度は自分が立つ。
「……看病に戻るのは、もう少しあとね」




