第24話 次から次へと
炎を纏った成体が、岩を蹴った。
(来る!)
シキは一瞬で覚悟を決める。
火球ではなく、火そのもの。あれに取りつかれたらどうなるか。噛まれるだけでも危ういのに、その牙も体も丸ごと燃えている。一度取りつかれれば、革鎧ごと焼かれ、火だるまにされ、引き剥がすことすらままならないだろう。耐火の指輪はあるが、しょせんはお守り程度の装備だ。ほんの少し熱を和らげるくらいでは、あの炎を防ぎきれない。取りつかれればそれで終わりだ。
だが、結論も同時に出ていた。
炎を纏おうがヒグアナはヒグアナ。本質は幼体と変わらない。速くて、不規則で、けれど最後は必ず飛びかかってくる。ならば――。
(先手だ!)
シキは自分から踏み込んだ。
「シキ! てめぇ、また一人で――!」
ヒスイが怒鳴りかける。だが、すぐに口をつぐんだ。
これは独断とは言えなかった。周囲の警戒をシキは仲間に預けている。背後も、上空も、五人が見てくれている。その信頼の上で、シキはただ、自分の役割を取りに行っただけだ。置き去りにしてなどいない。
「後ろ任せたぞ!」
「ちっ!……やっちまえ!」
赤茶まだらのヒグアナが跳ぶ。
まだ跳躍に十分な速度が乗りきる前。その出端を、シキは正面から潰しにいった。低く沈み込み、炎の塊が伸びてくる、その喉元めがけて。
ストレイターが炎を裂いて突き入る。
「ギシャアアッ!」
刃が、燃える胴を深々と貫いた。
完全に先手を取ったが、シキも無傷では済まなかった。
「っ――熱!?」
柄を握る右手に、炎が舐めるように襲いかかる。耐えきれずにシキは思わず剣を取り落とした。指の皮がじりっと焼ける。耐火の指輪があってなお、これだ。直に触れればただでは済まない。その危険を身をもって思い知らされた。
剣を突き立てられたまま、赤茶まだらのヒグアナは炎を撒き散らして地面をのたうち回る。
シキはすかさず後ろへ跳んで距離を取った。焼けた右手を振り、痛みを散らす。そして、相手がもがき苦しんでいるうちに、口の中で「リターン」と唱えた。
刺さったままのストレイターが光の粒子へほどけ、リングストレージへ還る。それと前後して、成体の動きがぴたりと止まった。纏っていた炎が、ふっと萎んでいく。白く濁った目から最後の熱も消えた。
「……ったく。とんでもないトカゲだな」
リングストレージを翳す。ドロップは、火の魔石が四個、ヒグアナの肉が三個、それに、ヒグアナの皮が二枚。
◇
ベータが、複雑な顔でシキを見ていた。
やったことだけを見れば、ただ近づいて、刺した。それだけだ。手順は呆れるほど簡単に見える。
けれど。やれそうに見えることと、それを本当にやりきることの間には、決して埋まらない断絶がある。あの炎の塊へ、迷いなく踏み込めるか。躊躇なく剣を突き込めるか。ベータはそれを言葉にできないまま、無意識的に理解していた。
「お前、もう街へ戻れ」
シキが短く告げる。
その時だった。
岩場の奥から、複数の悲鳴が風に乗って届いた。
誰かが襲われている。
危険なのは分かっている。だが、危険を確かめないことのほうがもっと危険だ。シキの判断は速かった。
「今度は奥かよ! 行くぞ!」
駆け出しながら、シキはもう一度、ベータへ叫んだ。
「おいベータ! お前はもう本当に街へ戻れ! 次は助けてやれねぇぞ!」
その言葉にサラ達も駆け出した。
「またかよチクショウ!」
ヒスイが吐き捨てるように叫び、エイトカウントを握り直した。
「この世界どんだけ大変なのー!?」
ヒカリも半ば悲鳴のように声を上げながら、それでも両手のツインズを下ろさない。いつもの明るさは残っている。だが、その目はもう笑っていなかった。それでも全員がシキの後に迷いなく続いた。
ベータが一人、その場に取り残される。
危険を顧みず、結果で示し、仲間を率いて駆けていく。その背中に、ベータは自分がなりたかったはずの何かを見てしまった気がした。
◇
悲鳴の方へと、シキたちは岩を回り込んだ。
そして、目に飛び込んできたのは最悪の光景だった。
地面に倒れていた開拓者が――倒したモンスターとまったく同じように、光の粒子となって崩れていく。その瞬間の情景が飛び込んできた。
足元から、指先から、さらさらと。人のかたちが、ほどけて宙へ消えていった。後には何も残らない。剣も、防具も、血の跡さえも。周囲にはすでに同じように消えたらしい痕跡が、二つ、三つ。空気だけがわずかに揺らいでいた。
本当に死んだのか。どこかで生き返っているのか。誰にも分からない。
ただ、確かなことが一つだけある。目の前で光になった人間は、少なくともこの場からは完全に消えた。
モンスターと同じ消え方。まるでこの世界が人間も獣も区別なく同じものとして扱っているかのような――背筋の凍る無機質さだった。
そしてもう一人。
発火した成体ヒグアナ。二体に取りつかれた男が岩肌の上を転げ回っていた。炎に巻かれ、絶叫し、振り払おうともがき、けれど、振り払えない。
その悲鳴が、やがて細くなる。
動きが止まる。
男の体が光になってほどけていった。
この世界で死んだ人間が、最後にどうなるのか。シキたちは初めてその一部始終を目の当たりにしたのだ。
誰も、声を出すこともできなかった。
◇
立ち尽くしている暇は与えられなかった。
岩場にはまだ生きている者がいる。
一人の少女が大岩を背に、幼体のヒグアナ二体に追い詰められていた。すでに戦う気力を失い、手に持った剣も構えられず、泣きながら、ただ震えている。
そして一際大きな岩の上に、コカリスの成体が一体。羽を休めるでもなくこちらを見下ろしている。いつでも風の魔法を撃ち下ろせる位置だ。
さらに背後――シキたちが来た方からも、ヒグアナの幼体が三体、じりじりと距離を詰めてきていた。退路を塞ぐように。
ここに来る前、ヒノシシの群れとコカリスに襲われた、あの乱戦。それと同じ修羅場が、今ここに広がっている。おそらくは先にこの岩場へ踏み込んでいた開拓者たちが暴れ、その音と血が次から次へと獣を呼び寄せたのだ。消えていった者たちがその代償だった。
シキはほんの一瞬で盤面を読み切った。
少女を助けに行けば、男に取りついていた成体二体へ背を向けることになる。幼体二体は秒殺できるかもしれない。だが、その隙に成体二体が仲間へ向かえば――壊滅する。背後の幼体三体は、サラとダンが受けるしかない。岩上のコカリスには、ヒスイとヒカリなら対処できるだろう。リアは魔法力も残り少ない状態で、守るべき対象だった。
手が足りない。
少女を助けたい。
だが助けに行けば、仲間が死ぬかもしれない。
時間にすれば、まばたきほどの逡巡。その間に、シキは――最も苦い答えを選んだ。
男の死骸の上で燃えている成体二体を殺し切る。その決断をした。
◇
少女はまだ完全には諦めていなかった。
震える両手で、短剣のような契約武器を握り直す。刃先は小刻みに揺れ、構えと呼ぶにはあまりにも頼りない。それでも、近づいてくる一体目のヒグアナへ向けて、必死に切っ先を突き出していた。
「こ、来ないで……来ないでよ……!」
声は泣き声に近かった。
ヒグアナの一体が、じり、と横へ回る。もう一体は正面から距離を詰める。逃げ場を塞ぐような動きだった。少女の背中が、大岩にぶつかる。これ以上下がれない。
「シキ!」
ヒカリの悲鳴のような声が上がった。
シキの足が半歩だけそちらへ向きかける。
その瞬間、成体ヒグアナ二体が光となって消えた男の死骸から顔を上げた。燃える体を揺らしてこちらの仲間たちへ向かおうとしている。
行けば間に合うかもしれない。
だが行けば、背後の仲間が危ない。
歯が軋むほど奥歯を噛んだ。
「……くそ!」
シキは少女ではなく、成体二体へ向き直った。
一体目。炎の出端を潰し、喉元を貫く。崩れ落ちるのを見届ける間もなく、二体目へ。
その視界の端だった。
大岩を背にした少女へ、幼体のヒグアナが飛びかかる。
助けに行けない。行けば盤面が崩れる。成体を放置すれば、もっと多くが死ぬ。分かっている。分かっているのにーー。
少女の短剣が、一体目の牙をかろうじて受けた。甲高い音が鳴り、細い腕が衝撃に跳ね上げられる。
「いや……!」
そこへ、二体目が横から飛びかかった。
ヒグアナの凶悪な牙が、少女の肩へ食い込む。引き倒され、岩肌へ叩きつけられる。鮮血が散り、悲鳴がこだまする。
シキにはそれが見えてしまっていた。だが、その一歩を踏めば、いま自分が抑えるべき成体が仲間へ流れる。サラが、ヒスイが、ダンが、ヒカリが、リアが、死ぬかもしれない。
だから、行けなかった。
歯を食いしばり、シキは二体目の成体へ刃を地面を這わせるように走らせて、力いっぱい振り抜いた。直撃を受け、炎の塊が転がる。態勢を戻される前に、今度は大上段からの振り下ろしで頭蓋を叩き割った。
その瞬間、ようやくシキは少女を襲うヒグアナの幼体に向き直った。その二体ともが少女の体に凶悪な牙を突き立てている。
シキは地を蹴った。少女に食らいついていた幼体二体へ、一息に踏み込む。一体を袈裟に斬り伏せ、返す刃でもう一体を払いのけ、もんどりうったヒグアナの首に蹴りを叩き込む。骨を砕いた感触が伝わる。それを一顧だにせず、少女へと駆け寄る。
「おい! 生きてるか!?」
少女は、大岩の根元に崩れ落ちていた。肩から血を流し、ぐったりとして動かない。けれど、その体はまだ光にほどけてはいなかった。浅く、速く、胸が上下している。かろうじて生きている。
あと一歩、自分の判断が遅ければ。あるいは、成体に手間取っていれば。この子も、さっきの男や、消えていった者たちと同じように——。
背筋を冷たいものが伝った。
◇
戦線は、それぞれに動いていた。
「ヒカリ、右の翼を狙え!」
「りょーかい! そっちは左ね!」
ヒスイのエイトカウントが、岩上のコカリスへ火を噴いた。続けざまに、ヒカリのツインズが左右から弾を重ねる。狙いは胴ではない。羽だ。バランスさえ崩せれば、後は手数で押し切れる。
コカリスが緑の魔法力を練ろうと翼を広げた。
「「今!」」
二人の銃声が重なる。両翼を撃ち抜かれたコカリスが、甲高い鳴き声を上げて体勢を崩した。
背後では、サラが低く叫ぶ。
「ダン、右を止めて!」
「任せろ!」
ダンの槍が迫る一体の鼻先を叩く。盾を使えない分、踏ん張りは浅い。それでも巨体で道を塞ぎ、一瞬だけ足を止めるには十分だった。
「一瞬あれば十分よ」
サラの薙刀が、横から入った。
刃が首筋を裂く。返す刃で二体目へ刃を走らせる。さらに踏み込んでニ撃目。崩れたところへ、ダンの槍が突き込まれる。
「サラっち! 後ろ!」
ヒカリの声に、サラが振り向く。三体目が、低く跳ねるように迫っていた。
「終わりよ!」
円を描くように、刃が下から振り抜かれる。その一刃で致命所。そして、ニ刃、三刃と目にも止まらぬ高速の斬撃が、ヒグアナの命を切り裂いた。
リアは自分の役目を果たしていた。周囲を警戒し、誰かが深手を負えば、すぐに治癒へ回れるよう身構える。とはいえ、風の魔石は残り一つで、魔法力ももう底に近い。軽々しくは使えないとわかってはいたが、この場ではそれが役割だった。
やがて岩に囲まれた一帯に静寂が戻る。
残されたのは、獣の死骸と――死体ですらない、消えていった光の、その残り香だけだった。
◇
ひと息つけたと思った、まさにその瞬間だった。
遠くから誰かが走ってくる。
ベータだった。
街へ戻れとあれほど言ったのに、戻ってなどいなかった。ずっとシキたちの後を追ってきていたのだ。
「あの馬鹿……!」
誰かが呻く。
そして、ヒスイが見た。
ベータのすぐ脇。岩陰から一体のヒグアナ成体が、炎を纏って這い出してくるのを。
「ベータ! 右だ! 逃げろ!!」
ヒスイが声を限りに叫ぶ。
ベータの反応は致命的に遅れた。振り向きざまに足をもつれさせて無様に転倒する。尻餅をついたまま、腰が抜けたように動けない。
距離がありすぎた。
ヒスイとヒカリの銃は有効射程の外。仮に当たってもあの成体は止まらない。シキも間に合わない。サラも、ダンも、届かない。
赤茶まだらのヒグアナが、炎の塊となって襲いかかる。
その、刹那。
リアが決断した。
「我が手に集い、束ねて一条――」
大ぶりな杖、スプライトを両手で構える。先端へ、ありったけの魔法力が、集まっていく。
動く相手には、当てられなかった。何度も、何度も、外してきた。けれど今日一日、シキに護られながら、狙う練習を続けてきた。ロアなら、当てられるようになった。
けれどこれは——ロア・スピア。威力は高いが、その代わり、重く、狙いはずっと難しく、消耗も桁違いに大きい。
それでも。
撃つしかなかった。
「撃ち貫け! ロア・スピア!」
死力を尽くして束ね上げた魔法力が、一か八かで放たれる。
朝の試し撃ちから積み重ねた練習の成果か。それとも、ただ運が良かっただけか。あるいは――ここで外せないというその一念が、震える魔法力の線をまっすぐに通したのか。
光の槍が、飛びかかる成体の、その胴を穿ち、貫いた。
ヒグアナが空中で弾けるように軌道を崩し、岩肌へと叩きつけられる。纏っていた炎が、ぱっと四散し――燃え盛る体が、二度と動かなくなった。
ベータは驚愕に目を見開いていた。
そして、誰よりも驚いていたのはリア自身だ。
杖を握る指が震えている。放った魔法の軌道を、まだ目で追っている。
「……当たっ、た……?」
その呟きが終わる前に、体から力が抜けた。
そして、リアは。
糸が切れたように、その場へ崩れ落ち、静かに気を失った。




