第2話 混乱の広場
光が晴れた時、蒼真の視界に飛び込んできたのは――人、人、人だった。
石畳の敷かれた、円形の巨大な広場。
そこに人がごった返していた。数千人か、あるいはそれ以上か。ざっと見渡しただけではとても数え切れない。
性別も年齢もばらばらだ。だが、ぱっと見たところ小さな子供の姿はない。中高生くらいの少年少女からくたびれた中年男性まで。働き盛りと学生がほとんど、といった印象だった。
そして全員が見覚えのある格好をしていた。
くすんだ革鎧。粗末な布の服。――今の蒼真とまったく同じ。ファンタジーゲームの初期装備のような装いの人間ばかりが視界を埋め尽くしている。
「……集団異世界転移ってやつ?」
軽口を零してみたが笑える空気ではなかった。
広場を満たしているのは、混乱と、恐怖と、張り詰めた緊張。すすり泣く声。誰かを呼ぶ怒鳴り声。自分の身体や見知らぬ装備を何度も確かめる者。地面にへたり込んだまま動かない者。
空気が肌に貼りつくように重かった。
「おいあんた。今来たとこだよな?」
ふいに、後ろから声がかかった。
振り向くと少し年上に見える男が立っていた。二十代半ばだろうか。作業着が似合いそうな、気のよさそうな顔。だがその目には隠しきれない焦りが滲んでいる。
「……そうだけど」
何を答えるべきで、何を答えるべきでないのか。咄嗟に判断がつかず、蒼真の言葉数は自然と減った。
「どっから来た? 草原か?」
「――草原、だった。あんたも?」
「ああ、やっぱりか。俺も同じだよ」
短いやり取りの後、沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは男の方だった。焦燥を抑えきれず、吐き出すように。
「訳がわからねぇ。仕事してたと思ったら、いきなり草原で狼に襲われたんだぞ。なんとか倒したと思ったら、今度はこんなとこだ。……なあ、俺は夢でも見てんのか?」
「夢ならいいんだけどな」
「夢じゃねえなら何だってんだよ」
「さあ? ……ゲームの世界に取り込まれた、とか?」
男は心底嫌そうに顔をしかめた。
「はぁ……アニメかよ」
「これがアニメならすごく嫌な展開だな」
ほとんど無意識に蒼真はそう返していた。
「は? なんでだよ」
「よくあるアニメなら、異世界に呼ばれる主人公は一人で、チートスキル付きが定番だろ」
「……詳しくねえが、そうかもな」
「で、こうやって人が大勢呼ばれるパターンの作品だと――大抵、集団パニックものなんだよ」
「おい止めろよ。こえーこと言うなって」
「……悪い。俺も自分で言ってて怖くなってきた」
軽口の応酬で、ほんの少しだけ空気が緩む。
そこで蒼真は、ふと気づいた。
「あれ? ――そういえば、剣はどこいった?」
右手を見る。何もない。腰にも背中にもない。
あの草原で握りしめていた反りのない片刃の長剣。ここに来る瞬間まで、確かに手の中にあったはずなのに。
男は神妙な顔で頷いた。
「武器か? 俺もだよ。草原で急に手に握らされてた斧があったんだが、ここに来た時にゃ消えてたぜ」
「そうか……」
もっとじっくり眺めておけばよかった――そんな場違いな感傷が、ちらりと胸をよぎった。光とともに現れた、あの剣。手に馴染む重さまで妙に鮮明に思い出せる。
男が深いため息を吐いた。
「ったく、何から何まで訳がわからねぇぜ。……ああそうだ、一つ忠告しといてやる。大人しくしとけよ」
「……大人しく?」
「俺はここに来て三十分ってとこだがな、その間に暴れた連中が何人もいたんだよ。そいつら全員、この街の兵士みたいな奴らに取り押さえられてどっかに連れて行かれた」
「……だから皆この場に留まってるのか」
言われてみれば、これだけの人数がいながら誰も広場から出ようとしていない。
そして、視線を巡らせたその時だった。
遠く、人垣の切れた何もない空間に、ぶわりと光の粒子が溢れ出した。
粒子が収束し、人の形を結ぶ。現れたのは、蒼真と同じ年頃に見える制服姿ならぬ初期装備姿の少女だった。少女は呆然と立ち尽くし、周囲を見渡している。
「……俺もあんな感じでここに来たわけね」
「そういうこったな。あっちこっちで、ひっきりなしに『到着』してるぜ」
「まるでゲームのテレポートだな」
「……ゲーム、か」男が低く呟いた。「お前が最初に言ったこと、実は当たりだったりしてな」
「ファンタジー世界を観光できるだけなら面白いんだけど」
その言葉を広場の異様な空気が無言で否定していた。
観光客を迎える街はこんな空気をしていない。
男がぐるりと周囲を見回した。
「……俺はもう行くぜ。いきなり話しかけて悪かったな」
「こっちこそ。いろいろ教えてくれてありがとう」
分かったことはほとんど何もない。それでも最初に言葉を交わした相手がこの男だったおかげで、パニックにならずに済んだ。それは確かだった。
「良いってことよ。じゃあな」
「ああ。――また」
男は片手を上げて背を向け、人混みの中へ歩いていった。視線の先にはたった今光とともに現れたらしい、呆然と立ち尽くす中年の男。どうやら、ああして「新入り」に声をかけて回っているらしい。
(……そういえば名前を聞きそびれたな)
いや――聞かれなくて助かったのかもしれない。
この訳の分からない場所で、本名を軽々しく明かしていいものか。九条蒼真という名を名乗るかどうかは、もう少し状況が見えてからでいい。
(名乗るなら……そうだな。考えておくか)
頭の隅にそう留めて、蒼真は改めて周囲を観察し始めた。
「……改めて、マジで何なんだろうな、ここ」
足元は隙間なく敷き詰められた石畳。広場をぐるりと囲むのは、レンガ造りらしき建物群。三階建て、四階建ての建物が肩を寄せ合うように連なり、その隙間から四方へと幅の広い大きな道路が伸びている。
「中世風ファンタジーの街っぽいよな」
ごった返す人の波を、ぶつからないよう縫いながら、蒼真は一番近い道路を目指して歩き出した。
広場はかなりの広さがあった。少し歩いてようやく辿り着いた道路の入口には、既に多くの人が詰めかけていた。
「出られない! なんでだよ!」
「押すな! 押しても無駄だって!」
「誰か! 誰か説明しろよ!」
怒号と悲鳴が飛び交っている。
「……マジでゲームか? 物語が進行しないうちは不可侵エリア、みたいな」
皮肉なもので、周囲の人間がパニック気味なおかげで逆に蒼真は冷静でいられた。半狂乱になりかけている人々の間を慎重に縫って前へ出る。
すると――とん、と。
何もない空間に掌が阻まれた。
見えない壁。押しても、叩いても、びくともしない。ガラスとも違う不思議な感触の「境界」が道路の入口を完全に塞いでいた。
周囲の叫び声がうるさい。それでも蒼真は努めて冷静に、透明な壁の向こう――道路の先へ目を凝らした。
とても綺麗な街並みだった。
広い石畳の道。左右に連なる、商店らしき建物。色とりどりの看板。道はまっすぐ伸びた先でT字路になっていて、街の外の様子までは窺えない。
(……人が、いないな)
これだけ立派な道で、商店も多い。なのに壁の向こうには人っ子ひとり見当たらなかった。営業中の気配もない。まるで舞台のセットだけが置かれているような。
(一度、離れよう)
壁に詰めかけてくる人の波を掻き分け、蒼真は広場を囲う建物に沿って外周部をゆっくりと歩いた。
建物には扉がある。だが、どれも開かない。鍵がかかっているのか、これも「壁」なのか、押しても引いてもまるで動かない。
「扉はあるけど入れない、と。……閉じ込められてるのか」
口に出して確かめた瞬間、足元から這い上がってくるような小さな恐怖を自覚した。
数千人を一箇所に集めて閉じ込める。
その意図を考え始めた――まさに、その時だった。
『ようこそ! 開拓者諸君!』
拡声器を通したような大音声が、広場を貫いた。
その一瞬で――数千人、あるいはそれ以上の人間で埋め尽くされた広場から、音が消えた。
怒号も、悲鳴も、すすり泣きも。何もかもが断ち切られたように止み、皆が一様に、声のした方向――蒼真の立つ場所から見て広場の反対側へと顔を向けた。
「……説明が始まるってわけね」
蒼真は呟き、傾聴の姿勢を取った。
もしもこれが本当にゲームじみた何かなら、これから語られるのは極めて重要な「チュートリアル」になるはずだ。一言も聞き逃すわけにはいかない。
再び大音声が広場を貫いた。
『私はこの街――央都・ランティスの代表、サーティス・ラド・グレンディである!』
央都・ランティス。
それが、この街の名前らしい。
声の主の姿は、人垣に阻まれてここからは見えない。だが、その名乗りからして、少なくとも日本人ではなさそうだった。なのに言葉だけは、不思議なほど明瞭に日本語として耳に届く。
サーティスと名乗った声が、さらに続ける。
『よくぞ我らの呼びかけに応じてくれた! 道中で命を落とした者も多いようだが――この街に辿り着いてくれた貴君らには必ずや報いよう!』
ザワッ、と。
広場が揺れた。
(命を落とした……? 死んだってことか?)
道中。つまり、この広場に来る前――あの草原で?
脳裏に蘇る。濁った眼。歪んだ骨格。あの異形の狼の剥き出しの敵意。
もしあの場で、あの剣が現れなかったら。一瞬でも判断が遅れていたら。
考えがまとまるより早く演説の声が響いた。
『我らの呼びかけに応えてくれた十万人に敬意を! しかし道半ばで倒れてしまった五万人の開拓者には哀悼の意を捧げる! ――しかし! 繰り返すが、この場に辿り着いた貴君らには手厚い支援を約束しよう!!』
「……五万人だって?」
事実かどうかは確かめようがない。
だが、もしそれが本当なら。
十万人があの草原に立たされ――五万人が死に、五万人がここに辿り着いた。
今、この広場にひしめいている数と同じだけの命が消えた。
二人に一人。コインの裏表。自分が「表」だったのは、ただの――。
その意味を咀嚼しかけて、蒼真は強く首を振った。考えるのは後だ。今は一つでも多く情報を拾う方が先だ。
遠くで「嘘だ!」という叫びが上がる。「ふざけるな!」「帰せよ!」と、あちこちで怒号が続く。
だが、それらを丸ごと無視するようにサーティスの演説は続いた。
『貴君らの左腕に腕輪があるだろう! これは〈リングストレージ〉と言って、この街で生活するための必需品である! 右手で触れて、「オープン」と唱えよ! 所持金や装備、荷物のリストが見えるはずだ!』
言われて、蒼真は自分の左腕を見た。
――ある。
いつからそこにあったのか、装飾のない銀色の腕輪が、左の手首に嵌まっていた。革鎧に気を取られて、今の今まで気づきもしなかった。
ほとんど無意識のうちに、右手でその腕輪に触れ、呟く。
「……オープン」
ふわり、と。
目の前の空中に、半透明のディスプレイのようなものが浮かび上がった。
「……マジでゲームかよ」
思わず声が漏れた。
だが――もしこれがゲームだとしたら、あり得ないほどのリアルさだ。
頬を撫でる風。石畳を踏む足の裏の固さ。ひしめく群衆の体温と喧噪。五感に触れるものすべてが、現実と何ひとつ変わらない。
ただ、目の前に浮かぶこの半透明の板だけが、決定的に異様だった。
『貴君らのリングストレージに、五万フロー――つまり、当面の活動資金を送らせてもらった! この街で必要なものを揃えてほしい!』
視線を落とすと、確かにリストの一番上に表示があった。
――所持金:50,000フロー。
フロー。それがこの世界の通貨単位らしい。五万フローがどれほどの価値なのかはまだ分からない。
そして、声は続けた。
『もう一つ、貴君らに配らせてもらった武装がある! 〈契約武器〉と呼ばれるものだ! 手に武器を持つイメージで、武器の名前を読み上げよ! さすれば、貴君らの武器が現れる!』
契約武器。
ディスプレイのリストには、装備の欄にただ一行、こう記されていた。
――契約武器:ストレイター。
蒼真は草原で振るったあの剣を思い出した。
反りのない、真っ直ぐな片刃の長剣。初めて握ったはずなのに、妙に手に馴染むあの重さを。
右手を軽く開き、掌に柄を握るイメージを浮かべて――名を読み上げる。
「……ストレイター」
右手の内側に光が灯った、次の瞬間。
収束した粒子が形を結び、見覚えのある片刃の長剣が、確かな重みとともに掌の中に現れた。
「これが契約武器……か」
鈍色の刀身を眺めながら、蒼真は呟く。
顔を上げれば、広場のあちこちで同じように光が瞬いていた。
剣、槍、斧、弓、杖――多種多様な武器が、次々と姿を現しては五万人の手に収まっていく。
その光景は壮観で、どこか、ぞっとするほど不穏だった。
武器を配られた。
それはつまり――この街の外には、武器が必要な「何か」がいるということなのだから。




