第1話 始まりの草原
風の音がした。
車のエンジン音でも、踏切の警報でも、コンビニの自動ドアの電子音でもない。ただ、草を撫でる風の音だけがした。
「――は?」
九条蒼真は、足を止めて立ち尽くした。
ついさっきまで見慣れた通学路を歩いていたはずだった。部活帰り、夕暮れのアスファルト。自販機でスポーツドリンクを買おうか迷っていた、その次の一歩で。
世界がすり替わっていた。
地平の果てまで草原が広がっている。
「…………え?」
遮るものは何ひとつない。電柱も、家も、人も。膝の高さまである草が、波のようにうねりながら地平線まで続いている。空はやけに青く、雲の輪郭は絵の具で描いたように濃かった。
「……どこだよ、ここ」
声に出してみても、答える者はいない。
ふと自分の身体を見下ろして、蒼真はもう一度固まった。
制服じゃない。
着ていたはずのブレザーは消え、代わりに身を包んでいるのは、くすんだ色の革鎧と、ざらついた布の服。腰には使い込まれたベルト。まるで――ファンタジーゲームを始めた直後の、初期装備そのものだった。
「夢……にしては、風が冷たすぎるな」
頬を撫でる風には、草の匂いと土の匂いが混じっている。五感の全部が「これは現実だ」と訴えてくる。
蒼真は深呼吸をひとつして歩き出した。立ち止まっていても何も始まらない。とにかく、何か手がかりを――道でも、建物でも、人でも。
その判断の早さは彼の生来のものだった。身長百八十センチを越える体格に、バスケ部で鍛えた脚。整った顔立ちには、状況に呑まれた怯えよりも思考を回し続ける冷静さが浮かんでいた。
だが、数分も歩かないうちに。
蒼真の足がぴたりと止まった。
――いる。
草の波の向こう。十数メートル先に大型犬ほどの影がうずくまっていた。
狼に見えた。
だが違う。
灰色の毛並みは脂じみて束になり、覗く両の眼は白く濁っている。何より骨格がおかしかった。背骨が不自然に隆起し、前足の関節はあらぬ方向に膨らんで、立ち姿そのものが「生き物として間違っている」と本能に警告してくる。
そして、その異形は――敵意を隠そうともしていなかった。
濁った眼が、まっすぐ蒼真を捉えている。
「……っ」
背筋が粟立ち、足が半歩、勝手に退がった。
逃げろ。脳の原始的な部分がそう叫ぶ。
だが、その瞬間に視界の端をよぎったのは、さっき自分で確かめたばかりの光景だった。
――遮るものなど、何ひとつない草原。
(逃げ込む場所がない。木の一本もない。あの足と追いかけっこして、勝てるか?)
勝てない。直感がそう告げた。
四つ足から背を向けて走るのは「獲物」になりに行くのと同じだ。
蒼真はほとんど無意識のうちに、退がりかけた足を踏みとどめ、異形の狼を正面から注視した。
逃げない。
その意思は、向こうにも伝わったらしい。
狼が、ぐ、と姿勢を低くした。喉の奥から、地鳴りのような唸りが漏れ始める。距離はまだある。だが、あの体勢は――
(来る)
直感だった。
「……逃げても、意味ない」
呟きが、自分自身への号令になる。
「体格はこっちが上だ。噛みつかれる前に蹴り飛ばせれば……」
独り言で思考を整理しながら蒼真は半身に構えた。右足を引き、重心を落とす。バスケのディフェンスの構えにどこか似ていた。
その構えを取った、まさにその瞬間。
異形の狼が弾かれたように突進してきた。
草を蹴散らし、一直線に。
「真っ直ぐかよ! バッティングセンターの百二十キロのほうが速いぜ!」
叫ぶ余裕が蒼真にはまだあった。
生来の度胸。部活で鍛え抜いた身体能力。そして何より――迷わない決断力。
わけのわからない状況だ。だが、この場でやるべきことはたったひとつしかない。
――迎え撃つ!!
腹の底でそう決断を下した、刹那。
右手に光が宿った。
まばゆい粒子が一瞬で収束し、掌の中に確かな重みが生まれる。
反りのない、真っ直ぐな片刃の長剣。鈍く光る刀身が、夕陽に似た草原の光を撥ね返した。
「ぶっ飛ばしてやるよ、この剣で――剣!?」
驚いている暇はなかった。狼は既にあと数歩で間合いに入る。
蒼真は咄嗟に両手で柄を握り込み、大きく振りかぶった。
(まずは――この突進の勢いを逸らす!)
半身の構えから、腰の回転で剣を走らせる。それはほとんど、野球のバッティングフォームだった。フルスイングの軌道で、長剣が横薙ぎに唸る。
最後の一歩で跳びかかってきた狼の、前足の付け根。
そこに、長剣の腹が勢いよく叩き込まれた。
「ギャウッ!?」
短い悲鳴。狼の巨体が軌道を逸らされ、蒼真の横を転がり抜けていく。
「立たせるかよ!」
一拍も置かなかった。
蒼真は転がった狼へ自分から踏み込み、体勢を立て直そうと突っ張られた前足を、下から掬い上げるように剣を振り抜いた。
肉を裂く感触。黒ずんだ血のようなものが、草の上に飛び散る。
狼が絶叫し、再び崩れ落ちた。
刹那。
蒼真は高く振り上げた長剣を、一瞬の躊躇もなく振り下ろした。
視線は逸らさない。
狼の頭部へ、全体重を乗せて叩きつけるように。
その横顔に恐怖はなかった。
あったのは生き延びるための必死さと――自らの決断を信じ抜く強さだけだった。
鈍い重い音がした。
長剣の重量を頭蓋で受け止めた異形の狼は、びくりと一度痙攣し、濁った眼から最後の光を失って動かなくなった。
「……、……はあっ」
蒼真はそれを見届けてから、数歩後ずさり、止めていた息を大きく吐き出した。
剣を握る手が、今さらのように震えている。
(……殺しちまった)
胸の奥がざわつく。だがその感情を蒼真は数秒で塗り潰した。仕方なかった。あれは確かに自分を殺しに来ていたのだから。
「やらなきゃ、やられてた。……俺と出会っちまったことを恨んでくれ」
死骸に向けてそう言い捨て――言ってから、ハッと周囲を見渡す。
二匹目がいたら洒落にならない。
見渡す限りの草原に動く影はなかった。風に揺れる草の波だけが何事もなかったかのように続いている。ひとまず、第二戦はなさそうだった。
「……マジで、ここどこだよ」
緊張を解ききれないまま、蒼真はもう一度狼の死骸へ目を向けた。
そして。
「は!? どこ行った!?」
死骸が消えていた。
確かに転がっていたはずの場所には、押し潰された草と、黒い血痕だけが残っている。影も形もない。
「まさか生きてた!? ……どこだ、どこにいる!」
蒼真は剣を構え直し、油断なく視線を巡らせた。心臓が嫌な速さで鼓動を打つ。
――その時だった。
ごう、と。
蒼真を中心に、突風が渦を巻いた。
「っ!? 今度はなんだ!?」
吹き荒れる風に髪と視界を奪われながら、それでも目を凝らす。
見えたのは、信じがたい光景だった。
渦巻く風の外側で――さっきまで地平線まで続いていたはずの草原が、端から光の粒子となって、ほどけるように消えていく。
空も、草も、世界そのものが、まばゆい光に還っていく。
「……夢か、異世界か、それとも――ゲームか」
ラノベで読んだような異世界召喚なら、それはそれで面白い。
そんな軽口を頭の隅に浮かべながらも、蒼真の身体は先ほどの死闘の感触をまだ生々しく覚えていた。剣の重さ。肉を断つ衝撃。濁った眼から光が消える瞬間。
全部が嘘みたいに鮮明だった。
崩れゆく世界の中心で、九条蒼真の顔に浮かんでいたのは――恐怖ではなく。
抑えきれない、高揚だった。




