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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第2章 婚約破棄と清算

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1、要点案の朝

朝は、昨夜より容赦がなかった。


目を覚ました瞬間、胸の奥に残っていた鈍い痛みが、夢ではなかったことを思い出させる。けれど寝台脇の机に置かれた紙束は、それより先に今日を始めさせた。


王女殿下の婚姻条件について――最低限守るべき条項案


昨夜、自分の手で書いた題字だった。墨はもう乾いている。だが並んだ文面は、朝の光の下で読むといっそう容赦がなかった。帰還条件、書簡の扱い、帯同人数、解除条項。どれも、夜の勢いで大げさに見えたわけではない。むしろ一晩置いたぶんだけ、危うさが輪郭を得ている。


リディアは目元を軽く押さえ、最初の頁をもう一度読み返した。


言い過ぎではない。

遠慮が足りないわけでもない。

不足しているのは、やはり条件のほうだ。


そのとき、控えめなノックがした。


「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか」


「ええ」


侍女が朝の支度を整え、最後に小さな盆を机へ置く。銀の盆の上には湯気の立つ茶器と、封の切られていない一通の書状があった。


「法務局から、夜明けとほとんど変わらぬ刻に」


侍女はそれだけ言って下がった。


リディアは一瞬だけ書状を見つめた。封蝋には簡素な法務局の印がある。昨夜のうちに渡した要点案が、もう誰かの机に乗り、目を通され、そのうえでこの時間に返答が来たのだと思うと、さすがに早すぎた。


小さく息をつき、封を切る。


中に入っていたのは短い一枚きりだった。


――昨夜のご助言、拝受しました。

――内容は想定以上に明確であり、先方との再調整前に確認すべき論点として重要視されています。

――差し支えなければ、帰還条件および書簡条項について補足をお願いしたい。

――詳細は追って。

――セオドア・ヴァレント


たったそれだけの文面だった。


感謝も、労いも、余計な社交辞令もない。けれど、その簡潔さがかえって今のリディアにはありがたかった。昨夜書いたものが、慰めではなく本当に「使うべき判断」として受け取られたのだとわかる。


リディアは紙を置き、短く息をついた。


止まらない。

王女案件は、もう止まらない。


そう認識したところへ、今度は別の束が机へ運ばれてくる。宝飾商、仕立屋、伯爵家夫人、商会の会計係。朝の時点で四通。朝食の前にはさらに二通増えた。


一通目はカルヴァン伯爵家からだった。来週の顔合わせで、再婚相手の前妻の子をどの位置で紹介すべきか、以前の助言をもう一度確認したいという。


二通目は東方商会とアストル子爵家の間で婚資の支払い順に食い違いが出た件。


三通目は婚約披露で使う花嫁用宝飾の受け渡し先について。


四通目は婚約解消の噂が流れたことを受けて、依頼済みの婚礼衣装をいったん止めるべきかという問い合わせだった。


どれも、今すぐ王都がひっくり返るような大事ではない。


だが、放っておけば確実に揉める。

そして揉めたあとには、たいてい立場の弱い側から先に疲弊する。


リディアは一通ずつ目を通し、机の上へ並べていった。


宝飾の受け渡し先。

婚礼衣装の停止時期。

顔合わせの席順。

婚約披露の通達文面。

婚資の支払い順。


紙の上に並ぶのはどれも些細な項目ばかりだ。だが、こういう些細さを軽く扱った結果として、婚約はこじれ、縁談は壊れ、離縁は泥沼になる。


昨夜の婚約破棄だって、そうだった。


「お嬢様」


今度は執事が入ってきた。


「旦那様が、お時間のある際に書斎へと」


「すぐに伺います」


「それから、今朝の問い合わせはこのほかに三件。返答を急がぬものは別に分けてあります」


執事は机の端に新しい紙束を置いた。その動作があまりに自然で、リディアは苦くも笑えなかった。屋敷の中ではもう、自分がこうした紙束を整理することが半ば前提になっている。


執事は机上の法務局の書状へ視線を落としたが、何も訊かなかった。


「……増えていますね」


「ええ」


「昨夜の件だけでは済まぬようです」


「そのようですね」


短いやり取りだけで十分だった。


父の書斎へ向かう途中、廊下の窓から朝の庭が見えた。陽は明るい。昨日と変わらない庭師が、昨日と変わらない手つきで枝を整えている。世界は何事もなく続いていくように見える。


けれど、見えないところではもうずれている。


書斎に入ると、父は机の上の書面から顔を上げた。


「起きたか」


「はい」


「法務局から早いな」


やはり既に聞いているらしい。


「昨夜の要点案が、先方で確認されたようです」


「そうか」


父はそれ以上深入りせず、代わりに手元の二通を軽く持ち上げた。


「こちらは顔合わせの席順、こちらは婚資の支払い順。朝からだ」


リディアは苦笑する代わりに小さく頷いた。


「昨日までなら、表へ出る前に拾えていたのでしょう」


「おそらくはな」


父は机へ書面を戻した。


「王都の連中は、拾われていたことに気づいていなかったらしい」


その言葉に、リディアは返事をしなかった。


気づいていなかった。

たしかにそうなのだろう。誰も、自分が何か大きな役職に就いていたわけではない。ただ、見えてしまったから整えていただけだ。見えている者が黙っていられないまま拾い続けた結果、いつしかそれが「自然にそうなること」へ変わっていた。


「お前は今日は、全部に返すつもりか」


父の問いに、リディアは少しだけ考えた。


「……いいえ。急を要するものと、放っておくと立場の弱い側から傷むものだけを先に」


言いながら、自分の中で何かが少し変わったとわかった。昨日までなら、全部を拾っていただろう。拾えると思ってしまっただろう。だが今は、それでは足りないのだと知っている。


「それでいい」


父は短く言った。


書斎を辞し、自室へ戻るころには、問い合わせはさらに増えていた。婚約披露の文面、婚礼衣装の納品先、持参金目録の照合時期。どれも「誰かが整えてくれる」前提で進んでいたものばかりだ。


リディアは机の上へ紙を並べ、王女案件の要点案を中央へ置いた。


左には王女の婚姻条件。

右には王都の小さな相談の束。


大きさも、家格も、関わる金額もまるで違う。


それでも見比べてみれば、奇妙なほど似ていた。後で困る側の視点が抜けていること。今は大丈夫そうに見えること。そして、整える人間がいなくなった途端に崩れ始めること。


小さな案件も、王女の婚姻も、本質は同じだった。


誰も、後で困る側から見ていない。


リディアは椅子へ座り直し、ゆっくりと目を閉じた。


昨夜の痛みはまだ消えていない。

けれど、それとは別のところで、思考だけがもう前へ進んでいる。


そう思いながら新しい紙を引き寄せる。


まずは帰還条件。

その次に書簡条項。


王女殿下のための補足案を書き足し、そのあとでカルヴァン伯爵家の席順に返答する。


順番まで、もう頭の中では決まっていた。


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