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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第1章 婚約破棄と清算

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8、次の依頼

人質の引き渡しです。


そう言い切ったあと、応接間には短い沈黙が落ちた。


セオドアは驚かなかった。


驚かないということは、少なくともその可能性を見越していたのだろう。だが彼は先にその言葉を口にしなかった。リディア自身に資料を読ませ、自分の判断として言わせた。


その慎重さは、いかにも彼らしいと思えた。


「……やはり、そうご覧になりますか」


低く、落ち着いた声が返る。


リディアは手元の紙へもう一度目を落とした。


どの条項も、一つずつなら言い逃れはできるだろう。王家の干渉を減らしたい。相手家の独立性を尊重したい。婚姻後の生活を円滑にしたい。どれも耳障りだけは悪くない。


だが並べて見れば、意味は変わる。


居住地の選定権は実質的に相手家が握る。

帰還条件は曖昧。

私的書簡の扱いは広く制限できる。

随行できる侍女や医師の人数は少なすぎる。

そして、婚姻後に重大な不利益が生じた場合の解除条件が、ほとんど存在しない。


形だけ見れば婚姻契約。

だが中身は、逃げ道の少ない拘束だ。


「ご覧になりますか、ではありません」


リディアは紙を卓上へ置いた。


「誰が見ても、守るべき条件が足りません。これでは王女殿下ご自身の安全も、婚姻後の交渉権も、ほぼ相手家任せです」


「相手方は、王家の不干渉を強く求めています」


「求めるでしょうね」


即答だった。


「北方大公家ほどの家格なら、婚姻後に王家から細かく干渉されることを嫌うのは自然です。ですが、不干渉と無保護は違います」


セオドアがごく浅く頷く。


頷くだけで、口を挟まない。

その沈黙が、妙に話しやすい。


「この条項を最初にまとめたのは、王家側ですか。それとも先方ですか」


「原案は先方です。王家側で一部手を入れた形ですが、深く踏み込めていない」


「踏み込めていないのではなく、踏み込まなかったのでしょう」


リディアは淡々と言う。


「王女殿下の婚姻を“国家間の安定”として扱うことに意識が寄りすぎています。婚姻後、王女殿下がどういう立場で、何を失い、何を守れるのかという視点が薄い」


言葉にしてから、少しだけ息をつく。


これはよくない兆候だ。


頭がもう、仕事の熱を取り戻し始めている。


つい先ほどまで、自分は婚約を失った女としてここに座っていたはずなのに、条項の穴を見た途端、思考の中心がそちらへ動いてしまう。そういうところだ、と昨夜言われたばかりなのに。


「失礼ですが」


セオドアが言った。


「すでに何点か見えておいでのようですね」


「見えるところが多すぎるだけです」


リディアは紙の一角を指先で押さえる。


「まず、帰還条件を明文化する必要があります。病気、服喪、王家主催の式典。いずれも先方の許可制にすべきではありません。それから侍女と侍医の帯同人数。最低限でも現状の倍は必要です」


「倍、ですか」


「王女殿下は平民の娘が嫁ぐのとは違います。王家の外へ出る以上、身の回りを固める人間の数は、そのまま発言力になります」


セオドアは否定も同意もせず、続きを促すように視線を向ける。


その視線が、妙に落ち着く。

急かさない。だが、ちゃんと聞いている。


「それに私的書簡の検閲」


リディアは続けた。


「この文言は広すぎます。家の安寧を損なうおそれのある内容では、いくらでも恣意的に止められる。対象と判断権限を限定しなければ、王女殿下は王都との繋がりを絶たれます」


「解除条件については」


「不足しています」


そこは迷いようがなかった。


「不義、暴力、重大な背信、長期の別居、継承問題の発生時。少なくともそこまでは想定しなければいけません。婚姻は始まる前より、始まってからのほうが人を傷つけます。解除条件が曖昧な契約は、弱い側を沈めるだけです」


言い終えてから、自分の声が少し冷えすぎていることに気づく。


冷たいのではない。

ただ、見えてしまった以上、曖昧にできないだけだ。


セオドアはしばらく無言だった。


何かを考えているというより、こちらの言葉をきちんと並べ替えているような沈黙だった。


「なるほど」


ようやく、それだけ言う。


「法務局内でも懸念は上がっていました。ただ、そこまで体系立てては出ていない」


「懸念は責任を引き受けません」


思わず出た言葉に、セオドアの口元がごくわずかに動いた。笑ったのか、息を整えただけなのか、それくらいの変化だった。


「耳が痛い話です」


「でしたら、痛いうちに直すべきです」


言ってから、少し言葉が強すぎたかと思う。


だがセオドアは気を悪くした様子もなく、むしろ静かに受け止めた。


「おっしゃる通りです」


その返答に、リディアのほうが逆に間を失った。


たいていの男は、ここで少しは自尊心を挟む。

法務局の人間ならなおさらだ。

だが彼は違うらしい。


「それで」


リディアは封筒へ紙を戻しながら言った。


「私にどこまで求めておいでですか」


「まずは判断です」


セオドアは端的に答える。


「この案件が、あなたの目から見てどの程度危ういか」


「かなり危ういです」


「では次に、どこを最低限守るべきか。そこまでご助言いただければ」


そこまで言って、彼は一拍置いた。


「もちろん、今すぐとは申しません」


リディアは彼を見る。


「ですが、急ぎではあるのですね」


「はい」


その一文字に、無駄がなかった。


「先方との再調整が入る前に、王家側で論点を整えたい。でなければ、現状のなんとなく不安だが決めきれないまま押し流されます」


なんとなく不安だが決めきれない。


いかにもありそうな停滞だった。

そして、そういう停滞の末に人はたいていまあ大丈夫だろうのほうへ転ぶ。後で取り返しのつかないことになるのは、そのあとだ。


「正式な依頼ではない、とおっしゃいましたね」


「ええ」


「では、誰がこの資料を私へ渡すことを決めたのですか」


セオドアは少しだけ目を細めた。


答えるかどうかではなく、どこまで答えるべきかを測っている顔だった。


「王家側にも、条件の薄さを懸念する方はいます」


「その“方”は、昨夜の私をご覧になっていた?」


問いかけると、彼は即答しなかった。


その沈黙で十分だった。


ヘレナ王女。

昨夜、王族席からこちらを見ていた静かな眼差し。

哀れみでも面白がりでもない、切実な何かを含んだ視線。


「……そうですか」


リディアはそれ以上追わなかった。


誰の意向かを明かさせることに意味はない。重要なのは、昨夜の婚約破棄がただの醜聞では終わらず、自分のやり方を必要なものとして見た人間がいたということだ。


それは、少しだけ不思議な感覚だった。


「ただ」


セオドアが静かに言う。


「無理に引き受けていただく必要はありません」


「先ほどもそうおっしゃいましたね」


「ええ」


彼は頷く。


「あなたは昨夜、ご自身の婚約を失ったばかりだ。その翌日に、他人の婚姻を守るための助言を求めるのは、普通に考えれば無遠慮です」


普通に考えれば。


たしかにその通りだ。

けれど、リディアはその言葉で不快にはならなかった。


むしろ、ちゃんと“普通”として数えられたことに、奇妙な安堵を覚える。


便利な相談役ではなく、まず昨夜傷ついた女としても見られている。

そのうえで、それでも判断を借りたいと言われている。


「……少し、考えます」


リディアは慎重に答えた。


「今この場で、全面的に関わるとは申し上げられません。ただ、この条件の危うさについて意見を書くことはできます」


「それで十分です」


セオドアは即座に言った。


「むしろ、それがほしかった」


その言い方に、ようやく少しだけ力が抜ける。


全部を背負えと求められているわけではない。

まずは、自分にしか見えない穴を言語化すること。

それならできる。


「今夜までに、要点を三つか四つに絞ってお渡しします」


「助かります」


またもや短い言葉だった。


だが、その短さがこの男の礼なのだろう。


リディアは封筒の上へ手を置く。


薄い紙なのに、不思議と重い。


婚約を失った翌日に、自分は何をしているのだろうと一瞬思った。

けれど答えは簡単だった。見えてしまった穴を、見なかったことにできないだけだ。


そういう性分で、そういう生き方をしてきた。

今さらそこだけ都合よく変われるわけがない。


「一つだけ」


セオドアが立ち上がる前に言った。


「昨夜のあなたの確認は、正しかった」


リディアは顔を上げる。


彼はいつものように静かな表情のままだ。


慰めとして言っているのではない。おそらく、自分の中で確認が済んだから口にしただけだ。


「誰が何を言おうと、です」


その一言は、驚くほどまっすぐだった。


可愛げがない。

冷たい。

息が詰まる。


昨夜浴びた言葉が、一瞬だけ遠のく。


完全に消えたわけではない。そんな都合のいいことはない。

けれど少なくとも、それらとは別の見え方が、この世に一つはあるのだと知るには十分だった。


「……ありがとうございます」


リディアは小さく言った。


セオドアはそれに頷くだけで、余計なことは言わない。

それが、妙にちょうどよかった。


彼が去ったあと、応接間には静けさだけが残る。


卓上には問い合わせの書状の束。

その横に、王家筋の婚姻条件の抜粋。

そして胸の奥には、まだ消えきらない昨夜の痛みと、それとは別の種類の緊張。


リディアは封筒をもう一度開き、紙を広げた。


これは婚姻ではない。

人質の引き渡しだ。


ならば、どこを変えれば婚姻になるのか。

何を足せば、誰か一人が一方的に沈まない契約になるのか。


思考が、もうその作業へ向かっていた。


窓の外では日が少し傾きかけている。

婚約を失った女の一日としては、あまりにも慌ただしい。


それでもリディアは、新しい紙を引き寄せた。


見えてしまった以上、整えずにはいられない。

そういう女なのだと、もう誰かの言葉ではなく、自分自身が一番よく知っていた。


筆先を紙へ落とす。


最初に書いたのは、迷いのない一文だった。


王女殿下の婚姻条件について――最低限守るべき条項案

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