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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第3章 王女の不安に名前をつける

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4、守られる側の沈黙

それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね。


ヘレナのその言葉は、許しを乞うようでいて、同時に、自分の立つ場所を確かめる響きでもあった。


リディアは頷いた。


「はい。申し上げるべきです」


王女はしばらくこちらを見ていたが、やがて静かに息を吐いた。張りつめていたものが、少しだけほどける。けれど、それで何もかも軽くなったわけではない。言葉になったぶんだけ、今度はそれを外へ出したときの重みが現実になる。


机の端に控えていたセオドアが、低く言った。


「本日ここで伺った内容は、まず要点だけを整えます。すぐに正式な文書へ落とすのではなく、殿下のお考えとして何を先に守るべきかを――」


扉の向こうで、控えめなノックがした。


三人とも、そこで言葉を止める。


「ヘレナ殿下」


年を重ねた女の声だった。落ち着きがあり、しかし遠慮は薄い。


王女は表情をほとんど変えないまま、返事をした。


「どうぞ」


入ってきたのは、濃紺の衣に身を包んだ女官だった。背筋がまっすぐで、髪にはひとつの乱れもない。年の頃は四十をいくらか過ぎているだろうか。王家に長く仕える者特有の、静かな隙のなさがあった。


彼女はまずヘレナへ礼を取り、それからリディアとセオドアへも視線を向ける。


「失礼いたします。お時間が少し延びておりましたので、確認に参りました」


口調は柔らかい。だが、確認というより牽制に近いことはすぐにわかった。


「マルグリット」


ヘレナが名を呼ぶ。


やはり王女付きの上位の女官らしい。声に苛立ちはないが、歓迎しているわけでもない。


「もう少しだけ結構です」


「承知しております」


マルグリットはそう答えながら、机の上へ視線を落とした。広げられた記録、リディアが書きつけた紙、帰還や書簡に印をつけた抜き書き。その内容を一瞬で見て取ったらしく、まばたき一つの間を置いて言った。


「婚姻前には、どうしてもご不安が募るものですわね」


誰に向けた言葉ともつかない、やわらかな言い方だった。


「ですが、あまり細部に心を奪われますと、お気持ちが疲れてしまいます。殿下はまず、王家のご意向と先方の誠意をお信じになるのがよろしいかと」


ヘレナは返事をしなかった。


代わりに、セオドアが一歩だけ前へ出る。


「本日は、殿下ご本人のご懸念を整理する場としてお時間を頂いております」


「ええ、うかがっております」


マルグリットは穏やかに微笑んだ。


「ですからこそ申し上げておりますの。婚姻というものは、始まる前から疑ってかかれば、どのようなご縁であっても息苦しいものになります。殿下はまだ先方にお会いになってもいないのですから」


その言い方には悪意がない。

だからこそ厄介だった。


疑ってかかるな。

信じるべきだ。

立場ある婚姻とはそういうものだ。


そうして並べられる正しさは、表面だけ見ればもっともらしい。王女を傷つけようとしているのではなく、むしろ穏やかに送り出そうとしているように聞こえる。だが実際には、その言葉のほうが先に当人の口を閉ざしてしまう。


ヘレナの指先が、机の上でかすかに止まったのを、リディアは見逃さなかった。


先ほどまで、自分の恐れをやっと言葉にしようとしていた手だ。

それが今、もう一度、引き戻されかけている。


マルグリットは続けた。


「帰還や書簡のことまで、あまりに細かく最初から定めようとすれば、先方のお心証にも関わります。王家の姫君に対して、そこまで申されるのかと受け取られれば、かえって」


「かえって、何でしょう」


リディアは口を開いていた。


女官の目が、穏やかなままこちらへ向く。


「何か問題でも?」


「いえ。ただ、曖昧にされたまま困るのは、誰かと思いまして」


一瞬、書庫の空気が変わった。


セオドアは何も言わない。止める必要がないと判断したのだろう。ヘレナもまた、目を伏せたままだが、耳を澄ませているのがわかる。


マルグリットは微笑を崩さなかった。


「エーヴェル令嬢。殿下のご心配を思ってくださるのはありがたいことです。ですが、王家の婚姻には、長年の慣例というものがございます」


「存じております」


「でしたら、あまりに個人のお気持ちを前へ出しすぎることが、かえって殿下のご負担になる場合もおわかりでしょう」


個人のお気持ち。


その言い換えの巧みさに、リディアは内心で舌打ちしたくなった。

帰れないことも、届かないことも、帯同者を削られることも、ただの感情に置き換えられてしまう。そうなれば、守るべき条件ではなく、なだめるべき不安になる。


「個人のお気持ちではありません」


リディアは静かに言った。


「今ここで話しているのは、起こり得る不利益についてです」


「起こり得る、と申されましても」


「過去の記録にも出ております」


机上の抜き書きを示すと、マルグリットの視線が一瞬だけ動いた。だが、彼女はすぐに落ち着いた声で返す。


「過去の例をそのまま当てはめることはできません。時代も違いますし、お相手も違いますわ」


「では、時代が違うから起こらないと?」


「そこまでは申しません。ただ、婚姻の前から最悪の形ばかりを数えては、殿下のお心が持ちません」


その言い方に、リディアはようやくはっきり理解した。


この人は、ヘレナを軽んじているわけではない。

むしろ守っているつもりなのだ。

ただしそれは、王女本人が不安を数えなくて済むようにする守り方であって、不安の中身を言葉にして支える守り方ではない。


だから彼女の前では、王女は“守られる側”でいるほうが都合がいい。

怖いと認め、自分の条件を口にする当事者になるよりも、周囲に整えられる側のほうが、ずっと扱いやすいのだ。


ヘレナが、そこで静かに言った。


「マルグリット」


女官はすぐに向き直る。


「はい、殿下」


「私は、疲れてはいません」


「ですが」


「今は、聞いております」


声を荒げたわけではない。王女らしく、音量も抑えられている。けれど、その一言で書庫の空気が止まった。


マルグリットは、ほんのわずかに目を伏せた。


「……差し出がましいことを申し上げました」


「いいえ。気づかってくれているのはわかっています」


ヘレナはそう言った。やわらかい。だが、そのやわらかさの中に、ここから先は自分が決めるという線が見えた。


それでもマルグリットは退かなかった。


「殿下がお心を決められるのはもちろん大切なことです。ただ、あまり強い言葉をそのまま外へお出しになると、殿下ご自身が頑なに見えてしまいます。王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではございません」


それは忠告だった。

現実的で、しかも半分は正しい。


だからこそ、ヘレナは即答できなかった。


王女の婚姻とは、個の意思だけで進めるものではない。

そんなことは、当の本人が一番よく知っているだろう。国の娘として育ち、選択の多くを最初から私事として扱われてこなかったのだから。


ヘレナは目を伏せた。

先ほどまで自分の恐れを言葉にしていた人が、今はまた、沈黙の中へ半歩戻っている。


リディアはその変化を見て、胸の奥が冷えた。


これだ、と思った。


誰かが怒鳴るわけではない。

命じるわけでもない。

ただ、もっともな言葉で、穏やかに、王女の恐れを“言いすぎ”へ変えていく。


そうして当人の口から出るはずだった言葉は、気遣いと慣例の名の下に薄められる。

守られているはずの立場の者ほど、その沈黙を美徳として求められるのだ。


セオドアが低く言った。


「個の意思だけで進めるものでないからこそ、殿下ご本人の線を先に確かめる必要があります」


マルグリットが彼へ視線を向ける。


「法務局は、何でも紙にしておけば安心だとお考えになるのですね」


「安心ではありません」


セオドアの声は変わらない。


「責任の所在が見えるようになるだけです」


「婚姻に責任ばかりを持ち込めば、信が痩せますわ」


「信だけに預ければ、弱い側の退路が痩せます」


その応酬は短かったが、十分だった。


リディアはふと、昨夜自分が紙に書いた一文を思い出す。

守る条件がない婚姻は、愛の名を借りた拘束に変わりやすい。


目の前で起きているのは、まさにその入口だった。

誰も悪人ではない。

だが、悪意がなくても人は追い詰められる。


ヘレナはしばらく黙っていた。


やがて、机の上に置かれたリディアの紙へ視線を落とし、そっと言った。


「マルグリット。あなたの申すことはわかっています」


「殿下……」


「私は王女です。私の婚姻が私だけのものではないことも、承知しています」


その声音は静かで、先ほどより低かった。


「ですが、それでも、私が何を恐れているのかを、私自身が申し上げずに済ませてよいとは思えません」


書庫の中で、誰も動かなかった。


マルグリットの表情は乱れていない。だが目元だけがわずかに強張る。思っていたよりも、王女がはっきりと線を引いたのだろう。


「……かしこまりました」


しばしの後、女官はそう言った。


「ただ、殿下。お言葉の選び方については、どうか慎重に」


その一言を最後に、彼女は丁寧に一礼し、扉の外へ下がっていった。


扉が閉じると、書庫はふたたび静かになった。

だが最初の静けさとは違う。今の数分で、この場の輪郭がはっきり変わっていた。


ヘレナはすぐには顔を上げなかった。


自分の手元を見つめたまま、長く息を吐く。


「……今のが、特別きついわけではないのです」


ぽつりと言った。


「むしろ、ずいぶん穏やかなほうでしょう。怒られたことも、黙るよう命じられたこともありません。ただ、いつも、あのように言われます」


リディアは黙って聞いた。


「殿下のお気持ちはわかります。でも。まだ先方を知らないのですから。王女の婚姻とはそういうものですから。あまりに細かく申せば、頑なに見えますよ、と」


ヘレナはそこでようやく顔を上げた。


「そう言われるたびに、自分の怖さが、少しずつ幼いもののように思えてくるのです」


その言葉には、先ほどまでよりも深い疲れがあった。

怒りではない。諦めに近い疲れだ。


リディアは机の上の紙を引き寄せた。


そして、余白に短く書いた。


沈黙の強要。


ペン先が紙を擦る音を、ヘレナが見ている。


「それは、守るための言葉ではありません」


リディアは言った。


「少なくとも、殿下ご本人を守るためのものでは」


ヘレナの睫毛が、わずかに揺れる。


「周囲は、私を守ろうとしているつもりなのだと思います」


「でしょうね」


「それでも、守られている気がしないときがあります」


その一言は、小さかった。

けれどこの場で、いちばん重い言葉だったかもしれない。


守ると言いながら、口を閉ざさせる。

気づかうと言いながら、判断の外へ置く。

その形を、ヘレナはずっと受けてきたのだ。


リディアは静かに頷いた。


「殿下が守られていないからです」


王女は息を止めたように見えた。


「……そこまで、言い切られますか」


「はい。少なくとも、殿下の言葉が削られる形での保護は、保護ではありません」


セオドアもまた、低く続けた。


「殿下ご本人の不安が、殿下のいないところで丸められていく。それが続けば、条項も同じように削られます」


ヘレナは黙り込んだ。

けれど、その沈黙は先ほどまでのものとは違う。押し戻された沈黙ではなく、何かを自分の中で組み替えている沈黙だった。


しばらくして、王女はゆっくりとリディアの紙へ目を向けた。


帰還条件。

書簡の独立。

帯同者の維持。

子の扱い。

孤立の防止。


そして、その下に増えた新しい一行。


沈黙の強要。


ヘレナはその文字を見つめたまま、小さく言った。


「私、今まで、自分が黙っているのは慎みだと思っておりました」


リディアは何も挟まない。


「王女として、余計なことを言わぬのが務めなのだと。周囲に恥をかかせず、不安を騒ぎにせず、穏やかに受け入えるのが正しいのだと」


王女はそこで目を上げた。


「けれど違うのですね」


それは問いかけの形をしていたが、半分はもう答えに届いていた。


リディアは静かに言う。


「黙ることで守られる場面もあります。ですが今の殿下の沈黙は、殿下を守るためではなく、周囲が扱いやすくするための沈黙です」


ヘレナは、まっすぐにその言葉を受けた。


傷ついたようには見えない。

ただ、長く曖昧だったものが、またひとつ形を持った顔をしていた。


やがて王女は、自分の手を見下ろし、そっと指先を解いた。


「……少しだけ」


声が落ちる。


「少しだけ、楽になりました」


その言葉に、書庫の空気がほんのわずかにほどけた。


楽になったからといって、事が簡単になったわけではない。むしろ逆だ。ここから先は、王家の内側にも、先方にも、はっきりと線を引く話になる。だが、自分が何に押し黙らされてきたのかを知るだけで、人は呼吸の仕方をひとつ取り戻せるのかもしれなかった。


ヘレナは視線をリディアへ向けた。


「先ほどの方は、私に害をなそうとしていたわけではありません」


「ええ」


「それでも、私はあの方の前では、怖いと申してはいけない気がしていました」


リディアは短く頷く。


「それが、空気というものです」


王女はその言葉を聞いて、わずかに目を細めた。


「人ではなく」


「はい。人をひとり退けても、また別の口から同じことを言われるでしょう」


そこへ、セオドアが低く補う。


「ですから、個人を責めるだけでは足りません。殿下が怖いとおっしゃったとき、それを未熟さへ置き換えられないよう、先に言葉を整えておく必要があります」


ヘレナはゆっくりと頷いた。


そして机の上の紙へ、今度は自分から手を伸ばした。


「では」


声はまだ静かだが、最初にこの書庫へいたときより、はっきりしている。


「次は、私が何を望んでいるのかを申したほうがよいのですね」


その言葉に、リディアは目を上げた。


不安を言えるようになることと、望みを言えるようになることは、似ていて少し違う。

だが確かに、今の王女はそこへ進もうとしている。


「はい」


リディアは答えた。


「怖いと認めるだけでは、守りは半分です。殿下がどういう形なら受け入れられるのか、そこまで言葉にできて初めて、条件になります」


ヘレナは紙の端を指で押さえ、静かに頷いた。


その仕草には、もう先ほどのためらいだけではない意志が混じっていた。

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