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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第3章 王女の不安に名前をつける

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3、言葉になる恐れ

私は、切り離されるのが怖いのです。


ヘレナのその言葉は、弱々しくはなかった。

むしろ、ようやく曖昧な形を持ったぶんだけ、静かに重かった。


書庫の中では、誰もすぐには口を開かなかった。先ほどまで机の上に散っていた記録や抜き書きが、今は別の意味を持って見える。帰還の曖昧さも、書簡の細り方も、帯同者の減少も、子が生まれたあとの拘束も、みな同じ方向へ繋がっていた。


少しずつ切り離され、助けを求める声がどこにも届かなくなる。

それが、この婚姻のもっとも危ういところなのだ。


リディアは、自分が書きつけた紙を見下ろした。


孤立の防止。


短い一行なのに、そこに含まれるものは重い。だが、重いからこそ言葉にしなければならないのだと、はっきり思えた。


「殿下」


呼びかけると、ヘレナは顔を上げた。


「今おっしゃったことは、感情の話に見えて、実際には構造の話です」


王女がかすかに眉を寄せる。


「構造……ですか」


「はい。誰か一人が意地悪をするかどうかではありません。帰れない、届かない、周囲を選べない。その状態が続けば、当人は少しずつ判断の外へ押し出されます。殿下がおそれておられるのは、その形です」


リディアは、机上の記録に指先を置いた。


「だから、怖いと感じること自体を抑える必要はありません。抑えるべきなのは、その怖さが現実になる余地のほうです」


ヘレナは言葉を返さなかった。ただ、こちらを見る目から、先ほどより迷いがひとつ減っているのがわかった。


代わりに口を開いたのは、これまで黙っていたセオドアだった。


「法務局でも、婚姻条項は財や所領の扱いばかりが先に整えられます」


声音は淡々としていたが、軽くはない。


「残すものを数えることには熱心でも、失われるものを防ぐ文言は後回しにされやすい。帰還や書簡や帯同者の維持は、信義に委ねる、と一行で済まされることも珍しくありません」


「その一行では足りないのですね」


ヘレナが問うと、セオドアははっきり頷いた。


「足りません。揉めなければ、それでも回ります。ですが、揉めたときに弱い側が何も持たない」


その言葉は、わざと強くしたものではなかった。

ただ事実として置かれたからこそ、書庫の空気にまっすぐ沈んだ。


ヘレナは机上の記録を見つめたまま、小さく言った。


「皆、揉めないことを前提にお話しになります」


「そのほうが美しいからでしょう」


リディアは答えた。


「婚姻が穏やかに結ばれ、両家の信頼で続く。そう聞こえれば見映えはよろしい。ですが、守りは、穏やかな間ではなく崩れたときに必要になるものです」


ヘレナは、その一文を反芻するように目を伏せた。


昨夜、エミリアに告げたことと似ている、とリディアは思う。

愛があるなら条件はいらない、と言われるほど、条件は疑いの印のように扱われる。だが本当は逆だ。壊れたときに片方だけが沈まないためにこそ、先に言葉が要る。


「殿下がおそれておられることを、条項の言葉へ移してまいりましょう」


そう言うと、ヘレナはわずかに息を呑んだ。


「できますか」


「できます。少なくとも、曖昧なままよりはずっとましになります」


リディアは自分の紙を引き寄せた。昨夜、屋敷で整理してきた要点に、新しい順番が生まれている。


「まず、帰還です」


筆先で一行を示す。


「病、近親者の危篤や喪、重大な待遇変更、そして向こう側が婚姻時の取り決めに明らかに反した場合。このあたりは、帰還請求の条件として先に立てられます」


ヘレナの視線が、紙へ落ちた。


「請求、という形にするのですね」


「願い出では弱いです」


リディアはすぐに言った。


「許しを乞う形にすると、向こうの好意に預けることになります。条件を満たした場合に王家側が正式に帰還を求められる形にしておかなければ、後で言葉が崩れます」


ヘレナは目を上げた。

驚きではなく、確かめるような表情だった。


「そんな書き方が、通るのでしょうか」


「そのまま通るとは限りません」


リディアは率直に答えた。


「ですが、最初から弱めた言葉を出す理由もありません。削られるにしても、どこを削ったのかが見える形でなければ、交渉になりませんので」


机の端で、セオドアが短く補った。


「最初の文言が基準になります。最初から曖昧なら、その後も曖昧なままです」


ヘレナは小さく頷いた。


それから、少し迷うようにして問う。


「書簡についても、条項にできますか」


「できます。ただ、形式が要ります」


リディアは次の一行に視線を移した。


「殿下個人の書簡を、相手家の私的裁量で留め置けないこと。王家との定期連絡の頻度。急を要する報せは使節便を優先すること。少なくともそのあたりは文面にできます」


「……個人の書簡も」


ヘレナの声はかすかに低くなった。


「そこまで求めるのは、難しいのではありませんか」


「難しいでしょうね」


「それでも、入れるべきだと」


「入れるべきです。王家の娘としての連絡だけが残っても、殿下ご本人の声が消えるなら意味がありません」


それを聞いたとき、ヘレナの指先が、机の上でそっと力を帯びた。


王族として扱われることと、一人の人間として言葉を持てることは違う。

その違いを、この王女はずっと曖昧にされたままここまで来たのだろう。


「帯同者については、人数だけでは足りません」


リディアは続けた。


「最初に何名連れて行けるかだけでなく、補充の権限、交代の承認、向こう側が一方的に解くことのできない役目を決めておく必要があります」


「役目を」


「ええ。侍女、会計、文書補佐、医師。名前まで固定しなくても、どういう役の者が殿下の側に必要かを明記しておけば、単に人数合わせで別の者へ置き換えることはしづらくなります」


ヘレナは、そこで初めて少し考え込む顔をした。


「……医師も、ですか」


「土地に慣れないうちは、なおさらです」


リディアは言った。


「病の診立てが向こう側の判断だけになると、外へ訴える言葉すら奪われます」


王女は静かに息を吐いた。

その息は、安堵というより納得に近かった。漠然とした不安が、少しずつ紙の上で形になっていく。その過程そのものが、彼女を落ち着かせ始めているのかもしれない。


けれど、まだひとつ残っていると、リディアは感じていた。


帰還。

書簡。

帯同者。


どれも切り離されることを防ぐためのものだ。だがもうひとつ、切り離されたあとに決定的な重さを持つものがある。


「お子のことも、後回しにはできません」


その一言に、ヘレナの睫毛がわずかに震えた。


「……やはり、そこも」


「はい。婚姻後しばらくは王家の姫として扱われても、子が生まれれば事情は変わります。向こう側は、殿下個人ではなく家の母として扱おうとするでしょう。そうなったあとでは、帰還も書簡も帯同者も、すべて子を理由に縛られやすくなります」


書庫はしんと静まり返っていた。

王女は目を伏せたまま、自分の手元を見ている。


触れたくない話なのだろう。だが、触れないままではもっと危うい。


「今、無理に決める必要はありません」


リディアは少しだけ声を和らげた。


「ただ、何も書かずに先へ進めば、もっとも重いところを先方の慣習に委ねることになります」


ヘレナはしばらく黙っていた。


やがて、静かに尋ねた。


「そこまで書けば、皆、私が婚姻を疑っていると思うでしょうか」


リディアは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。


「思う方はおられるでしょう」


慰めで濁すつもりはなかった。


「ですが、それは仕方のないことです。疑っているのではなく、壊れたときの道を閉ざさないようにしているだけだと、わかる方にはわかります」


「わからない方には」


「不都合なのでしょう」


その答えに、ヘレナは小さく目を見開いたあと、ふっと息を零した。笑ったわけではない。けれど、苦さと納得が同時に混じったような表情だった。


「私、ずっと」


そこで言葉が切れる。


リディアもセオドアも急かさない。

王女は少しの間、自分の中を探るように黙っていた。


「ずっと、自分が怯えすぎているのだと思っていました。皆が当然のように受け入れていることを、私は受け入えられないのだと。だから、立場に見合わぬ弱さなのだと」


リディアは、机の上の紙をそっと王女のほうへ向けた。


そこには簡潔な字で、先ほどまでの話が並び始めている。


帰還条件。

書簡の独立。

帯同者の維持。

子の扱い。

孤立の防止。


「弱さではありません」


言い切ると、ヘレナはゆっくりと紙を見た。


「殿下は、ご自分に何が起こり得るかを正しく見ておられます。それを言葉にしようとしておられるだけです」


「言葉に……」


「はい。怖さを、怖いまま胸の内に置いておけば、曖昧な感情として片づけられます。ですが、こうして言葉にすれば、誰が何を守らなかったのかが見えるようになる」


ヘレナの視線が、一行ずつ紙の上を辿っていく。


その目に浮かんでいるのは、安堵ばかりではない。これを本当に出すのかという緊張もある。出せば反発される。面倒な女だと思われる。王女の婚姻にそこまで求めるのかと、きっと誰かは言うだろう。


それでも、もう、最初の曖昧さには戻れない。


王女は指先で紙の端に触れた。


「これらは、すべて入れるべきものですか」


「最低限です」


セオドアが答えた。


短く、迷いなく。


ヘレナは彼を見た。セオドアは視線を逸らさず、ただ事実を述べる顔をしていた。


「最低限、なのですね」


「はい」


彼は言った。


「通すのは容易ではありません。削らせまいとするにも骨が折れるでしょう。ですが、最初からこれを最低限と思えないなら、殿下は最初から守られる側に入っていません」


その言葉は厳しくも聞こえたが、甘くないぶんだけ誠実だった。


ヘレナは再び紙へ目を落とした。

そして今度は、先ほどまでとは違う静けさでそれを見つめていた。怯えている人の顔ではなく、恐れを数え、それでも外へ出すかを決めようとしている人の顔だった。


やがて王女は、ゆっくりと息を吸った。


「それなら」


その声に、二人とも顔を上げる。


ヘレナは紙から目を離し、まっすぐにリディアを見た。


「それなら、私は怖いのだと申し上げてもよいのですね」

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