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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第3章 王女の不安に名前をつける

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1、書庫の王女

翌日の午後、王家の離れは思っていた以上に静かだった。


正門からではなく、脇の通用口に近い石畳の道を案内され、リディアは外套の裾をわずかに押さえた。春先の空気はまだ冷えている。城の本棟から離れているせいか、人の気配も薄く、足音だけが乾いて響いた。


先を歩く侍従は必要なことしか話さなかった。資料確認のための立ち入りであること、滞在は長く取りすぎないこと、途中で他の来訪者と顔を合わせることはないよう配慮されていること。そのどれもが表向きの穏当さを整える言葉で、その裏にある慎重さは隠れていない。


小さな回廊を抜けた先で、侍従が足を止めた。


「こちらでございます」


扉の前には、セオドアがいた。


法務局の制服は今日も端正に整っている。だが堅苦しく見えすぎないのは、彼自身の身の置き方のせいかもしれなかった。誰かを急かすでもなく、馴れた口調で慰めるでもなく、ただそこにいるべき者として立っている。


「お時間どおりで安心しました」


「遅れる理由もありませんので」


そう返すと、セオドアはかすかに口元を和らげた。


「それで十分です」


雑な気遣いではない。気負わせるつもりもない。その言い方に、昨夜の一文を思い出す。


いつも通りで結構です。


結局、いつも通りが何なのかはまだよくわからない。けれど少なくとも、取り繕う必要はないのだと感じられるだけでも、いくらか息がしやすかった。


「殿下は先にお入りです」


セオドアが扉へ手をかける前に、ひとつだけ言い添えた。


「本日は正式な場ではありません。記録も最小限に留めます。ただ」


そこで彼はわずかに声を落とした。


「曖昧なまま持ち帰らせるつもりもありません」


リディアは彼を見た。


その一言だけで十分だった。この男は、今日の面会をただの顔合わせで終えるつもりではない。


「結構です」


そう答えると、扉が静かに開かれた。


書庫は想像していたより広かった。


高い天井まで届く書架が幾列も並び、壁際には王家の紋章入りの文箱が整然と収められている。窓は大きくないが、午後の光がやわらかく差し込み、埃っぽさよりも乾いた紙の匂いが強かった。人を迎える部屋というより、長い時間を積み上げてきた場所の静けさがある。


その奥、窓際に置かれた長机のそばに、ヘレナ王女はいた。


昨夜の夜会で遠目に見たときよりも、印象は静かだった。派手な装いではない。薄い灰青のドレスに、髪も過度には飾られていない。けれど、控えめに整えられている分だけ、姿勢の良さと眼差しの落ち着きが際立って見えた。


王女は立ち上がり、まっすぐにこちらを見た。


「お越しいただいてありがとうございます、リディア嬢」


呼びかけは丁寧で、温度を抑えたものだった。相手が自分より年若い令嬢であっても、見下ろす気配がない。


リディアは礼を取った。


「お招きいただき、恐れ入ります。ヘレナ王女殿下」


「どうぞお掛けになってください。今日は堅い挨拶をするためにお呼びしたのではありませんから」


その言葉どおり、机の上には茶器と、数冊の本、それに何枚かの書類が広げられていた。形式を整えた応接ではなく、何かを確かめるための場なのだとわかる。


セオドアは机の端に控えたが、席にはつかなかった。立会人であり、必要なら補足する立場。出しゃばるつもりはないらしい。


リディアが腰を下ろすと、王女も向かいに座った。


近くで見ると、その顔には華やかさよりも聡明さがあった。表情の動きは控えめだが、何も感じていないのではなく、感じたものをすぐには外へ出さない人の顔だ。


「昨夜のことを見ておられたのですね」


前置きを長くせず、リディアはそう言った。


ヘレナは一拍置いて頷いた。


「ええ。あの場にいて、見ないふりをするのは無理でした」


「……そうでしょうね」


「ですが、面白がって見ていたわけではありません」


王女は静かに続けた。


「あなたがその場で何を確かめ、何を切り分けようとしていたのか、私にはわかる気がしたのです」


気がした、という慎重な言い方だった。断定ではない。相手の事情へ踏み込みすぎない配慮がある。


リディアは短く息をついた。


「それは光栄と申し上げるべきか、判断に迷います」


するとヘレナの口元が、ごくわずかに和らいだ。


「迷われるのももっともです。ただ、私は昨夜あなたを見ていて、冷たいとは思いませんでした」


その言葉は、意外なほど素直に胸へ入った。


冷たい。可愛げがない。厳しすぎる。

ここ数日で何度も浴びた輪郭だ。もういちいち痛んでいないつもりでいても、まったく痕がないわけではない。


だからこそ、否定の仕方が大仰でないことがありがたかった。


ヘレナは机上の書類へ視線を落とした。


「私は婚姻の話が進んでから、いくつか記録を読ませてもらっていました」


そう言って、王女は手元の本の一冊に触れた。古い革装丁の記録集だった。王家の婚姻に関する前例か、あるいは外交上の取り決めをまとめたものかもしれない。


「最初は、知っておくべきことを知るために。そう思っていたのです。でも、読み進めるうちに、わからなくなりました」


「何が、でしょう」


「どこまでが当然で、どこからが、見ないふりをされてきたことなのかが」


その答えに、リディアは王女の顔を改めて見た。


無知だから不安なのではない。

知ろうとしてしまったからこそ、曖昧なままでは済まなくなっている。


「何をご覧になったのですか」


尋ねると、ヘレナは手元の紙を一枚、こちらへ滑らせた。


そこには王家の姫君が他国へ嫁いだ際の帯同者一覧と、婚姻成立後の送付記録の抜粋が記されていた。出立時には十数名いたはずの侍女や補佐役が、一年も経たないうちに半数以下へ減っている。書簡の往復も、最初の数か月を過ぎると急に少なくなる。


記録だけを見れば、それぞれに理由はつけられるだろう。体調、土地への適応、向こう側の配慮、費用の整理。だが数字の並び方には、あまりに似通った癖があった。


リディアは紙を伏せた。


「……よくお読みになっています」


「読まなければと思ったのです。けれど、読むほどに、自分が何を恐れているのか、はっきりしたようで、かえって口にしづらくなりました」


「なぜです」


「王女の婚姻とは、そういうものだと言われるからです」


それは誰か特定の一人の声ではないのだろう。もっと柔らかく、もっと当然の顔をして、これまで何度も差し出されてきた言葉のはずだった。


国のため。

立場に伴う務め。

不安はあって当然だが、受け入えるべきもの。


そうして整えられた正しさの中では、恐れはすぐに未熟さへ置き換えられる。


ヘレナはまっすぐに言った。


「私が考えすぎているだけかもしれないとも思いました。遠方へ嫁ぐことが怖いのは、幼いからではないかと」


「そうは思いません」


リディアは即答していた。


王女の目が、わずかに見開かれる。


「まだ何も伺っておりませんが、それでもです」


「……早いのですね」


「早くありません。今のお言葉だけで十分です」


リディアは机の上の記録を指先で押さえた。


「ご自分で前例を調べ、何が削られてきたかを見ておられる。それで不安を覚えるのは、臆病だからではありません。守りが薄いとわかるからです」


書庫は静かだった。


外の鳥の声も届かない。紙をめくる音すら、今は誰も立てない。


その静けさの中で、ヘレナはしばらく何も言わなかった。表情が大きく変わるわけではない。ただ、目の奥の緊張だけが、少しずつ形を変えていくのが見えた。


やがて王女は、視線を手元へ落とした。


「私が恐れていることを、紙の言葉にしてしまうのは、わがままでしょうか」


その問いに、セオドアがわずかに顔を上げた。だが口は挟まない。答えるべきは自分ではないと知っているからだろう。


リディアは一度だけ考え、言葉を選んだ。


「わがままかどうかを問う前に、確かめるべきことがあります」


「何を、ですか」


「殿下がおそれておられるものが、気分の揺れではなく、実際に起こり得る不利益かどうかです」


「それは」


ヘレナは机上の記録へ目を落とした。


「起こり得ると、私は思っています」


「でしたら、なおさら紙の外へ置いておくべきではありません」


その瞬間、王女の指先がかすかに止まった。


王族として育った人の所作は整っている。驚いた顔も、困った顔も、よほどのことがなければ人前には出さないのだろう。だが整っているからこそ、わずかな変化が目につく。


ヘレナは、すぐには返事をしなかった。


代わりに、そばに置かれていた別の一冊へ手を伸ばした。開かれた頁には、細かな字で婚姻締結時の付帯条件が並んでいる。財の扱い、所領の継承、祝賀使節の構成。形式は整っているのに、肝心なものが抜けている類の文書だった。


「財や地位のことは書かれているのですね」


ヘレナが言う。


「はい」


「けれど、帰ることや、手紙が届くことや、私のそばにいる人間のことは、曖昧なままです」


「そのほうが都合がよい者が多いからでしょう」


静かに返すと、王女は目を上げた。


「率直なのですね」


「率直でなければ役に立ちませんので」


それにはじめて、ヘレナは少しだけ、はっきりと笑った。


派手な笑みではない。けれど、その一瞬で年相応のやわらかさが覗いた。王女という立場の下に、ずっと息を潜めていたものが見えた気がして、リディアはほんのわずかに驚いた。


「昨夜、あなたをお呼びしたいと申し上げたとき、周囲は難しい顔をしました」


ヘレナはその笑みを消し、元の静けさへ戻った。


「婚約を失った直後の令嬢を、この件へ近づけるのかと。感情的になるのではないかと。社交界の噂と結びつけば厄介だと」


「もっともな懸念です」


「ええ。でも私は、そういう理由であなたを遠ざけるほうが危ういと思いました」


王女はまっすぐに言った。


「婚約を失ったばかりの方だからこそ、見えるものがあるのではないかと」


慰めではない。利用とも違う。その言い方には、少なくとも相手を都合のよい駒として扱う軽さがなかった。


リディアはゆっくりと息を吸った。


「それで、今日の面会は殿下のご意思で」


「半分は。半分は、法務局からの進言です」


その答えに、セオドアが無言のまま視線を伏せる。余計な誇示をする気はないらしい。


「私は昨夜、あなたを見ていて思ったのです」


ヘレナは続けた。


「壊れたあとに何が必要になるかを、最初から数えている方なのだと」


言われた言葉が、そのまま胸の奥へ沈んだ。


ユリウスは、自分がよく見えていると笑った。

周囲は、細かいことに気がつきすぎる女だと言った。

冷たいとも、厳しいとも言われた。


だが、壊れたあとに必要なものを数えている。

そんなふうに言われたことは、なかった。


少しだけ、言葉に詰まる。


それをごまかすためではないが、リディアは机上の記録をもう一度見た。


「では、殿下」


声を整えてから、言った。


「今日ここで伺いたいのは、書面の形式より前のことです」


「前のこと」


「はい。条項に落とすのは後からできます。ですが、その前に、殿下ご自身が何を失うことを最もおそれておられるのか、それを確かめさせてください」


ヘレナは答えなかった。


沈黙が落ちる。

拒まれたのではない。ただ、すぐには口にできないものに触れたときの沈黙だった。


王女は窓の外へ目を向け、すぐに戻した。逃げるためではなく、自分の中で言葉の形を探しているように見える。


その横顔を見ながら、リディアは確信した。


この人は何もわかっていないのではない。

わかっている。だからこそ、軽々しく言えないのだ。


王女という立場にいる限り、恐れは容易に弱さと呼び替えられる。

弱さと見なされれば、判断を委ねられなくなる。

そうして、当人のいないところで話が整えられていく。


その順序を、ヘレナはよく知っているのだろう。


やがて王女は、両手を重ねたまま、静かに言った。


「私は……」


そこまでで一度止まる。


セオドアは動かない。

リディアも急かさなかった。


ヘレナは、今度は自分を押し出すようにではなく、確かめるように言葉を続けた。


「私は、怖いのだと思います」


声は小さくない。だが誰かへ訴える響きでもなかった。

ようやく自分の内側に名前を与えた人の声だった。


その一言だけで、書庫の空気が少し変わる。


王女は視線を伏せたまま、かすかに唇を結んだ。


「けれど、それを申し上げるのが、正しいことなのかがわからなくて」


そこで初めて、彼女はリディアを見た。


まっすぐで、けれどどこか慎重な、責めも飾りもない眼差しだった。


「怖いと申し上げるのは、幼いことでしょうか」


書庫の静けさが、その問いを受け止めた。

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