第一節
次の日の朝、髪を結われた。
いつもの女の人が、朝食のあとに櫛を持ってきて、お召し替えを、と言った。着替えの服は前より重かった。布が幾重にもなっていて、袖の内側にも布がある。首元は詰まっていない。
「あの、ここ」
鎖骨のところに手をやった。
「隠れないんですけど」
「隠す必要がございますか」
聞き返されて、答えられなかった。
櫛が二回、三回と通る。誰かに髪をとかされるのは久しぶりだった。私はいつも束ねるだけで、櫛を最後まで通したことがない。
「どこへ行くんですか」
「王妃陛下が、お会いになります」
櫛が止まらなかったので、私は何も言えなかった。
通されたのは、日当たりのいい部屋だった。
窓が大きくて、床に光の四角が落ちている。その四角の中に、低い机と、丸い椅子がいくつか。子どもの背の高さに合わせた椅子だと、見た瞬間に分かった。
女の人が座っていた。
あの晩、膝をついて、子どもの頬に触れた人だった。
背が高い。座っていても分かる。髪は金で、ユーリさんより濃い。深いところに赤みがある色だった。結い上げて、後ろで一つにまとめてある。飾りは、細い銀のものが一つだけ。
瞳が青かった。目のあたりだけが、ユーリさんに似ていた。
「ナナセ・ミオリ」
立ち上がろうとしたので、慌てて頭を下げた。下げてから、こういうときの正しい作法を知らないことに気づいた。膝を折るのか、床につくのか。誰も教えてくれなかったので、深くお辞儀をするだけになった。
「座って」
子ども用ではないほうの椅子を示された。座った。
「あの子は、二日ほど喉を痛がっていました」
「はい」
「もう治っています。今朝は自分でパンを裂いて食べていました。……嫌いなくせに、裂くのだけは好きなんです」
その言い方で、少し体の力が抜けた。
「よかったです」
「あなたに礼を言うのが、遅くなりました」
「いえ、あの」
「遅くなったのは、こちらの都合です。あなたの都合ではない」
言葉が明快だった。喋り方が、私の知っているどの大人とも違う。園長先生でも主任でもない。誰かを説得することに慣れている人の喋り方だった。
「あの晩、あなたは真っ先に動いた」
「はい」
「あの場に、四十人ほどいました。癒しの者も、剣の者もいた。誰も動けなかった」
言われて、初めてそう思った。
あのとき、私は誰も見ていなかった。子どもの口だけを見ていた。だからみんながどうしていたのかを知らない。知らないまま「勝手に触った」と思って謝った。
「あれは、何ですか」
「え」
「あなたがやったこと。名前があるのですか」
名前はある。けれど、口に出す前に分かった。
あの晩、自分の仕事の名を言ったとき、誰も聞き返さなかった。あれと同じことになる。
「……名前は、たぶん、通じないです」
「そう」
「でも、やり方は教えられます。誰でもできます。力もいらないので」
王妃陛下が、少し目を細めた。
「誰でも」
「はい。あの、背中を叩いて、それでも出なかったら、下から押し上げます。子どもの大きさで変えるんですけど。赤ちゃんだと、また別で」
喋りすぎたと思って、口を閉じた。
何も言わずに、しばらく私を見ていた。それから、部屋の隅にいた人に何か短く言った。その人が出ていった。
「ミオリ」
「はい」
「ティアの世話を、あなたに任せたい」
窓の光が、さっきより少し動いていた。
「……はい?」
「ティアは末の子です。上の兄が二人と、姉が一人。世話係は代々おりますが、あの子はもう五つになる。話し相手を欲しがっています。ですが、あの子と一日を過ごせる者が、この城にはいない」
「あの」
「あなたは、子どもといるときの顔が違う」
言われて、首の後ろが熱くなった。
「見ておられたんですか」
「あの晩、あなたは謝ってばかりいました。けれど、あの子を抱いているあいだ、一度も謝らなかった」
返事ができなかった。
部屋の外で、誰かが小走りに通っていった。さっき出ていった人が戻ってきて、紙を渡した。
「では、決まりです」
「あの、待ってください」
声が出てしまってから、慌てた。黙って待たれた。それが余計に困った。
「私、あの、剣とか、魔法とか、使えなくて」
「知っています」
「補助魔法で、その、少ししか」
「聞きました」
「なので、あの」
言葉が、続かなかった。
言いたいことははっきりしていた。私はここへ、魔獣と戦うために呼ばれた。五人が、そのために何かを失った。それなのに、子どものお守りをしていていいのか。
それを言うと、目の前の人の子どものお守りが、大したことではないと言うことになる。
「……いえ。ありがとうございます」
頭を下げた。
「よかった」
声が、少しやわらかくなった。
「断られたら、どうしようかと思っていました」
断れる話だったのか、と思った。
思ったことが顔に出たのかもしれない。王妃陛下は立ち上がって、窓のほうへ歩いて、それから振り返った。
「ミオリ。この国で、子を育てる者は敬われます」
「はい」
「あなたの国では、違うのですか」
返事が、遅れた。
「……たぶん、大事だとは、みんな言います」
「言うだけですか」
「言うだけ、ではないと思います。でも」
でも、の先を、私は持っていなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。それ以上は聞かれなかった。
部屋を出ると、廊下に人が待っていた。案内の人と、荷物を持った人が二人。私の部屋を移すのだという。王女殿下の居室に近いほうへ。
荷物を持つ人が二人いたけれど、運ぶものは籠ひとつで足りた。紙が二十枚と、ペンが一本。あとは全部、借りたものだった。
「今日からですか」
「はい。殿下がお待ちです」
歩きながら、数えていた。
一年。あと十一か月と少し。それまでのあいだ、私はここで、子どものお守りをする。
剣も魔法も使えないから、そういうことになった。
そういうことになったのだ。




