第二節
「イルゼ、このひと、だれ」
女の人の袖を掴んだまま、その子が言った。
「昨日申し上げました。今日からご一緒くださる方です」
「なまえ」
「ご自分でお聞きなさいませ」
私はそこで初めて、この人の名前を知った。
十日以上、毎朝この人が来ていた。櫛も、着替えも、食事も、全部この人が運んでいた。私は一度も聞かなかった。聞いていいものなのか分からないまま、今日まできた。
「イルゼさん」
言ってみると、その人の眉が少しだけ動いた。
眉が動いたのが分かるくらい、髪をきつく結い上げている人だった。茶色に灰が混ざっている。生え際のところに白いものが何本かあって、それも一緒に引っ張り上げてある。目は灰がかった緑。頬が薄くて、笑うと横に皺が出る。まだ笑ったところは見ていない。
「さん、は結構でございます」
「イルゼさん」
その人は何も言わずに、袖から子どもの手を外して、こちらへ渡そうとした。
来なかった。
その子は手を引っ込めて、イルゼさんの後ろに半分隠れた。隠れながら、こっちを見ている。見て、目が合うと引っ込む。また出てくる。
銀色の髪が、今日は結わずに下ろされていた。
髪は腰のあたりまである。細くて、ふわふわしていて、動くたびに毛先が遅れてついてくる。瞳は青い。母君と同じ青だけれど、こちらのほうが明るい。窓の光が入ると、色が抜けたみたいに見えた。
「殿下」
「やだ」
私はしゃがんだ。
立ったまま話しかけると、五歳から見た大人は天井みたいなものになる。しゃがんで、目の高さを少し下げて、それから、その子ではなく床のあたりを見た。まっすぐ見ない。見られている感じがしないほうが、たいてい早い。
「昨日、パンをちぎったんだって」
返事はなかった。
「ちぎるの、上手だった?」
「……じょうず」
「そっか」
それから黙った。
黙っていると、イルゼさんが何か言おうとしたので、目で止めた。止めたつもりだったけれど、伝わったかどうかは分からない。
黙ったまま、心の中で三十まで数えた。
その子が、隠れていた側から一歩出てきた。
「あなた、あのときの」
「うん」
「せなか、たたいたひと」
「叩いた。痛かったよね」
「いたかった」
言いながら、その子は自分の胸のあたりに手を当てた。当てて、それから、私の顔を見た。
「でも、でられた」
「うん。出せたね」
「わたしが、だしたの」
「そう。ティア様が出したの」
名前を呼んだのは、それが初めてだった。
その子は少し考えるような顔をして、それから、私の袖を掴んだ。掴んだだけで、何も言わなかった。
イルゼさんが、目を伏せた。何か言いたそうにして、結局、下がりますとだけ言って部屋を出ていった。
その日はほとんど、床に座って過ごした。
部屋には物がたくさんあった。木の馬、布でできた人形、色を塗った積み木。どれも作りがよくて、どれもきれいに片付いていた。
きれいに片付きすぎていた。
この子はここで一人で遊んでいるのだと、それだけで分かった。二人以上で遊んだ部屋は、こうはならない。
「ティア様、これ、何」
積み木の箱を指した。
「つみき」
「積める?」
「つめる」
「五つ積める?」
ティアは箱を引き寄せて、積みはじめた。三つ目で崩れて、四つ目で崩れて、五つ目でまた崩れた。崩れるたびに私の顔を見る。私は何も言わずに、崩れた積み木を元の位置に戻した。
六回目で、五つ積んだ。
「できた」
「できたね」
「もっと」
「いいよ」
昼までに、ティアは十三個積んだ。
途中で服の袖が邪魔になって、まくってあげようとしたら、自分でやると言われた。うまくできなくて、二回目でできた。
昼を過ぎたころ、飽きた。
私は紙を一枚もらってきていた。持ってきた二十枚のうちの一枚。ペンで、うさぎを描いた。耳が長くて、顔が丸いやつ。
鋏を借りるのに、少し時間がかかった。持っていないものは、頼まないと出てこない。
切って、指が入るように、下を折って輪にした。人差し指に嵌める。
「こんにちは」
ティアが、口を開けたままこっちを見た。
「こんにちは。おなまえは」
返事がない。
「おなまえ、きいてもいい?」
「……ティア」
「ティアちゃん。よろしくね」
うさぎの耳をつまんで、ぺこりと下げさせた。
うさぎが喋るときだけ、園の呼び方になった。
ティアの顔が崩れた。声を出して笑った。笑ってから、自分の指を見て、それから私の指を見て、手を出した。
「わたしも」
「作る?」
「つくる」
もう一枚使った。今度は形を決めずに描かせた。丸が二つと、線が四本。本人はねこだと言った。ねこの耳は、たぶん、後で足すのを忘れたのだと思う。忘れたまま、ティアはねこを指に嵌めて、私のうさぎと喋らせた。
「うさぎさん、こんにちは」
「こんにちは、ねこさん」
「うさぎさん、なにたべる」
「にんじん」
「にんじん、きらい」
「そうなんだ」
「うさぎさんも、きらい?」
「うさぎさんは好きだって」
「……じゃあ、たべる」
夕方まで、その調子だった。
途中で一度、着替えを嫌がった。
イルゼさんが袖を持ったまま困っていたので、横から言った。
「ティア様、あと三つだけね」
「みっつ」
「うん。ねこさんを箱に入れて、次に袖を通して、そのあと窓のところに行こう。三つ」
ティアは指を三本立てた。立てて、一本ずつ折りながら、順番にやった。窓のところに行くのが最後だと分かっているので、途中で暴れなかった。
イルゼさんが、私を見た。
何か言われるかと思ったけれど、何も言われなかった。袖の端を直して、下がっただけだった。
下がる前に、その人も指を三本立てていた。立てて、一本ずつ折っていた。確かめているみたいだった。
窓のところで、ティアが歌えと言った。
「うた」
「歌?」
「うたって」
手遊び歌にした。ひとさし指を立てて、とんとん、と合わせるやつ。園で毎日やっていたので、体が勝手に動く。
歌いはじめて、途中で気づいた。
言葉が、通じていない。
この子は歌詞を分かっていない。分かっていないのに、私の手だけを見て、真似している。とんとん、のところで一緒に指を合わせて、間違えて、笑って、もう一回やれと言う。
「これ、なんていってるの」
「うーん。ないしょ」
「ないしょ」
「ないしょ」
ティアは納得して、また指を出した。
六回やった。六回目には、私より先に手が動いていた。
日が傾いて、部屋の光が橙になったころ、鐘が鳴った。長く二回。
ティアが、私の袖をまた掴んだ。
「みおり」
「はい」
「みおりは、うたがじょうず」
うまく返事ができなかった。
褒められ慣れていない。園で子どもに言われるのとは、少し違う種類の言われ方だった。
「ありがとう」
「あした、も」
「うん」
「あしたも、うた」
約束すると、ティアは満足して、イルゼさんのほうへ歩いていった。歩きながら、指を立てて、とんとん、とやっていた。




