第三節
その人が来たのは、五日目の午後だった。
扉が開く音がして、ティアが顔を上げて、それから走った。私が止める間もなかった。
「にいさま」
「ティア」
抱き上げようとして、少しよろけた。ティアは五歳にしては重い。持ち上げてから、抱く位置が定まらなくて、二回持ち替えていた。腕が細い。袖の下の腕が、ティアを支えるには足りていない。
私は床から立ち上がって、頭を下げた。
「あの、ユーリ、様」
言い方を間違えた気がして、そこで止まった。
心の中では、ユーリさん、と呼んでいた。声に出すとなると、それでは足りない気がした。
彼のほうも、ティアを抱いたまま止まっていた。目がこっちを向いていない。私の顔の少し横、壁のあたりを見ている。
「……ご機嫌よう」
「はい」
それきり、二人とも黙った。
「にいさま、これ」
ティアが腕の中から手を伸ばして、机の上の指人形を指した。
「これ、なに」
「ねこ。わたしがつくったの」
「そうか」
「にいさまも」
「私は」
「にいさまも、つくる」
私はまだ頭を下げた姿勢のままだったので、慌てて紙を出した。
「あの、どうぞ」
「いえ、そんな」
「にいさま、つくる」
結局、彼は床に膝をついた。
王子が床に座るものなのかは、知らない。イルゼさんが扉のところで少しだけ息を吸った。
彼はペンを持って、しばらく紙を見て、それから、線を引いた。
まっすぐな線だった。四角を描いて、その上に三角を乗せた。
「なに」
「家だ」
「おかお、は」
「顔?」
「おかおが、ないと、しゃべれない」
彼は困った顔をして、四角の中に点を二つ打った。それから横線を一本。
「うわあ」
ティアが笑った。
「へた」
「そうだな」
「みおりのほうが、じょうずだよ」
彼の手が止まった。
「……そうだろうな」
扉のところで、イルゼさんがおやつの支度が整いましたと言った。ティアは指人形を三つとも持って、家も持って、出ていった。
部屋に、二人だけになった。
彼は立ち上がって、膝の埃を払った。払いながら、まだ私を見ていない。
「お加減は」
「あ、はい。元気です」
「そうですか」
「はい」
窓の外で誰かが石畳を洗っている。水の音がする。
「あの」
「はい」
「書のことは」
私が聞いたことに、彼は少し驚いたようだった。
「……申し訳ない。まだです。神殿は、先例がないの一点張りで」
「そうですか」
「神殿を通さずに済む形が、ないわけではありません。ただ、それをやれば神殿は敵に回る。今この国で、神殿と割れるわけにはいかない」
言いかけて、彼は口を閉じた。
「いえ。あなたに聞かせる話ではありません」
「聞いてもいいですけど……」
言ってから、生意気だったかと思った。
彼は初めて、こっちをまっすぐ見た。見て、すぐに逸らした。
「……申し訳ない」
「え」
「この部屋のことです。ティアの世話を、あなたに」
「あ、いえ」
「母は、あなたを敬っています。あれは母なりの、最上級の遇し方です。ですが」
彼は言葉を探していた。探すのに、ずいぶん時間をかけた。
「あなたを呼んだのは私です。呼んで、戦えと言うつもりだった。その私が、あなたを子守りに就かせて、それで済ませている」
「済ませて、ないです」
「済ませています」
言い方が強かった。強かったことに、本人が後から気づいた顔をした。
「すみません」
「いえ」
「……すみません」
二度言った。
私は、床に落ちていたペンを拾った。拾って、机に置いた。置いてから、置く場所ではなかった気がして、少しずらした。
「あの、私も」
「はい」
「すみません」
「なぜ」
「なぜ、というか……」
言葉が出てこなかった。
でも、それを言うと、この人はまた謝る。
「……なんでもないです」
前に一度、同じことを言った。ずっと謝ってますよね、と。
あのときは、それで止まった。今日は止まらなかった。
「そうですか」
水の音が止まって、桶を置く音がした。
「あなたは」
彼が言いかけた。
「はい」
「いえ」
「はい」
「……何でもありません」
彼が扉のほうへ歩いた。歩いて、取っ手に手をかけて、そこで止まった。
「向こうでも、子どもの世話を?」
振り返らずに聞かれた。
「はい」
「そうですか。……何と呼ぶのですか、それは」
「たぶん、言っても通じないです」
「ああ」
彼は、それ以上聞かなかった。
扉が閉まって、廊下を歩いていく音がした。走ってはいなかった。
机の上に、彼の描いた家が残っていた。ティアが持っていったつもりで、一枚だけ落としていったらしい。
四角と三角。点が二つと、横線が一本。
笑っている顔なのか、困っている顔なのかは、判断がつかなかった。線が一本、まっすぐすぎた。
しばらくして、私はそれを拾って、紙の束の一番下に入れた。捨てなかった理由は、自分でもよく分からない。




