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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第2章「王女付きのおねえさん」

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第三節

 その人が来たのは、五日目の午後だった。


 扉が開く音がして、ティアが顔を上げて、それから走った。私が止める間もなかった。

「にいさま」

「ティア」

 抱き上げようとして、少しよろけた。ティアは五歳にしては重い。持ち上げてから、抱く位置が定まらなくて、二回持ち替えていた。腕が細い。袖の下の腕が、ティアを支えるには足りていない。


 私は床から立ち上がって、頭を下げた。

「あの、ユーリ、様」

 言い方を間違えた気がして、そこで止まった。

 心の中では、ユーリさん、と呼んでいた。声に出すとなると、それでは足りない気がした。


 彼のほうも、ティアを抱いたまま止まっていた。目がこっちを向いていない。私の顔の少し横、壁のあたりを見ている。

「……ご機嫌よう」

「はい」

 それきり、二人とも黙った。

「にいさま、これ」

 ティアが腕の中から手を伸ばして、机の上の指人形を指した。

「これ、なに」

「ねこ。わたしがつくったの」

「そうか」

「にいさまも」

「私は」

「にいさまも、つくる」


 私はまだ頭を下げた姿勢のままだったので、慌てて紙を出した。

「あの、どうぞ」

「いえ、そんな」

「にいさま、つくる」


 結局、彼は床に膝をついた。

 王子が床に座るものなのかは、知らない。イルゼさんが扉のところで少しだけ息を吸った。


 彼はペンを持って、しばらく紙を見て、それから、線を引いた。

 まっすぐな線だった。四角を描いて、その上に三角を乗せた。

「なに」

「家だ」

「おかお、は」

「顔?」

「おかおが、ないと、しゃべれない」

 彼は困った顔をして、四角の中に点を二つ打った。それから横線を一本。

「うわあ」

 ティアが笑った。

「へた」

「そうだな」

「みおりのほうが、じょうずだよ」

 彼の手が止まった。

「……そうだろうな」


 扉のところで、イルゼさんがおやつの支度が整いましたと言った。ティアは指人形を三つとも持って、家も持って、出ていった。

 部屋に、二人だけになった。


 彼は立ち上がって、膝の埃を払った。払いながら、まだ私を見ていない。

「お加減は」

「あ、はい。元気です」

「そうですか」

「はい」

 窓の外で誰かが石畳を洗っている。水の音がする。

「あの」

「はい」

「書のことは」

 私が聞いたことに、彼は少し驚いたようだった。


「……申し訳ない。まだです。神殿は、先例がないの一点張りで」

「そうですか」

「神殿を通さずに済む形が、ないわけではありません。ただ、それをやれば神殿は敵に回る。今この国で、神殿と割れるわけにはいかない」

 言いかけて、彼は口を閉じた。

「いえ。あなたに聞かせる話ではありません」

「聞いてもいいですけど……」

 言ってから、生意気だったかと思った。


 彼は初めて、こっちをまっすぐ見た。見て、すぐに逸らした。

「……申し訳ない」

「え」

「この部屋のことです。ティアの世話を、あなたに」

「あ、いえ」

「母は、あなたを敬っています。あれは母なりの、最上級の遇し方です。ですが」


 彼は言葉を探していた。探すのに、ずいぶん時間をかけた。


「あなたを呼んだのは私です。呼んで、戦えと言うつもりだった。その私が、あなたを子守りに就かせて、それで済ませている」

「済ませて、ないです」

「済ませています」

 言い方が強かった。強かったことに、本人が後から気づいた顔をした。


「すみません」

「いえ」

「……すみません」

 二度言った。


 私は、床に落ちていたペンを拾った。拾って、机に置いた。置いてから、置く場所ではなかった気がして、少しずらした。

「あの、私も」

「はい」

「すみません」

「なぜ」

「なぜ、というか……」

 言葉が出てこなかった。

 でも、それを言うと、この人はまた謝る。

「……なんでもないです」

 前に一度、同じことを言った。ずっと謝ってますよね、と。


 あのときは、それで止まった。今日は止まらなかった。

「そうですか」

 水の音が止まって、桶を置く音がした。

「あなたは」

 彼が言いかけた。

「はい」

「いえ」

「はい」

「……何でもありません」


 彼が扉のほうへ歩いた。歩いて、取っ手に手をかけて、そこで止まった。

「向こうでも、子どもの世話を?」

 振り返らずに聞かれた。

「はい」

「そうですか。……何と呼ぶのですか、それは」

「たぶん、言っても通じないです」

「ああ」

 彼は、それ以上聞かなかった。


 扉が閉まって、廊下を歩いていく音がした。走ってはいなかった。

 机の上に、彼の描いた家が残っていた。ティアが持っていったつもりで、一枚だけ落としていったらしい。


 四角と三角。点が二つと、横線が一本。

 笑っている顔なのか、困っている顔なのかは、判断がつかなかった。線が一本、まっすぐすぎた。


 しばらくして、私はそれを拾って、紙の束の一番下に入れた。捨てなかった理由は、自分でもよく分からない。

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