第三節
その夜、私はその子のことを考えていた。
考えるつもりはなかった。目を閉じて、布を巻いて、寝るつもりだった。
寝られなかった。
抱いているのに、離れている。腕は回っているのに、胸が触れていない。
園でも、見たことがあった。
二回ある。一回目は、母親が働きすぎていた。二回目は、下の子が生まれたばかりだった。どちらも、しばらくして戻った。
戻るのを、私は待っただけだった。何もしていない。
でも、待つあいだにやったことはある。
抱き方を、一度だけ教えた。
「こうすると軽いですよ」と言った。子どもの重心を自分の体に寄せる持ち方だ。教えると、腕が楽になる。楽になると、抱いている時間が延びる。
あれは、効いた。
効いたのを、私は覚えている。
起き上がった。
外はまだ暗かった。見張りが二人、火の向こうに立っている。私は寝床を出て、村の広場のほうへ歩いた。
朝が来るまで、そこに座っていた。
朝、その人がいた。
井戸の横で、水を汲んでいた。子どもは背負っていた。背負い方も、少し変だった。紐が高すぎて、子どもの位置が上にある。あれだと肩に来る。
私は、そちらへ歩いていった。
歩いてから、声が出せないことを思い出した。
紙を出した。書こうとして、やめた。この人が読めるかどうか分からない。
絵を描いた。
背負っている紐の絵。それから、紐を下げた絵。矢印を引いた。
その人の前に立って、紙を差し出した。
その人は、私を見た。
見て、紙を見て、それから、また私を見た。
「なんだい」
声が出せない。私は、自分の喉を指した。それから、首を振った。
「喋れないのかい」
頷いた。
それから、もう一度、紙を差し出した。
その人は、紙を受け取った。受け取って、少し見た。
見て、それから、紙を返してきた。
「余計なお世話だよ」
私は、その言葉を受け取った。
受け取って、動けなくなった。
「うちの子は、うちが背負う。城の人に言われることじゃない」
その人は、そう言った。
言って、桶を持ち上げた。持ち上げるときに、背中の子が揺れた。揺れて、子どもが少し声を出した。
「あの」
声が出た。掠れていた。
出たのに、続きが出なかった。
五日目だった。昨日まで、掠れていなかった。
喋らなければ減らない。喋れば減る。それだけのことだった。
その人は、こちらを見なかった。見ずに、歩いていった。
私は、紙を持って、そこに立っていた。
昼前に、隊は出発した。
私は列に戻って、後ろから三番目を歩いた。
歩きながら、ずっと考えていた。
何が悪かったのかを考えた。
言い方だろうか。紙だろうか。絵だろうか。声が出ないのが、失礼に見えたのかもしれない。
考えて、それから、別のことに気づいた。
私は、あの人に聞いていなかった。
困っていますか、と聞いていない。
紐が高いですね、とも言っていない。いきなり、直した絵を渡した。
園では、そうしなかった。
あのとき、私は「こうすると軽いですよ」と言った。言う前に、その人が「腕が痛い」と言ったからだ。
順番があった。
相手が困っていると言って、それから、私が答えた。
今回は、逆だった。
私が見て、私が困って、私が渡した。
二刻ほど歩いて、休憩になった。
水を飲んで、座った。座って、紙を出して、破ろうとした。
破る前に、影が差した。
団長さんだった。
私の横に立って、それから、しゃがんだ。
「見ていた」
私は、顔を上げた。
「朝のことだ」
私は、紙を持ったまま、下を向いた。
「隠すな。──陛下から聞いている。決めたら、あとで言え、と」
私は、頷いた。
頷いて、紙を差し出した。
団長さんは、それを見た。背負い紐の絵。矢印。
「これを渡したのか」
頷いた。
「断られたのだな」
頷いた。
その人は、紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
「ナナセ殿。あの人は、正しい」
私は、顔を上げた。
「あなたのやり方が悪いのではない。だが、あの人は正しい」
その人は、そう言った。
「見ず知らずの者に、育て方を直されたら、私でも断る」
私は、返事ができなかった。
できないまま、その人の顔を見ていた。
「ただし」
その人は、続けた。
「あなたが、あそこで見たものは、間違っていない」
「あ」
「あの人は、疲れている。子を抱く力が残っていない。──それは、私も見た」
私は、口を開けた。
開けたまま、少し掠れた声を出した。
「じゃあ」
「どうすればよかったか、という話をしているのだろう」
頷いた。
「私は知らん」
あっさり言われた。
「私は、育て方を知らん。あなたのほうが知っている。──だが、あなたが知らんことも一つある」
「はい」
「順番だ」
その人は、紙を私に返した。
「あの村では、あなたは客だ。客が先に手を出す形は、ここにはない」
私は、その紙を受け取った。
「教わってから、教えろ」
その人は、そう言って立ち上がった。
「陛下が同じことを言ったはずだ」
言われて、私は思い出した。
教わる順番を、逆にしないでほしい。
そう言われた。四十日以上前だった。
私は、それを聞いて、当番に入った。ハンナさんに教わった。マレンさんに教わった。教わったつもりでいた。
教わったのは、あの広場のやり方だった。
この村のやり方は、教わっていない。
その日の夕方、野営で火を囲んでいるとき、私は紙にもう一枚描いた。
背負い紐の絵ではなかった。
人が二人、向かい合っている絵だった。片方が口を開けていて、もう片方が聞いている。
その下に、矢印を引いた。矢印の先に、同じ二人。今度は逆になっている。
聞く。それから、話す。
その順番の絵だった。
誰に渡すものでもなかった。
自分のために描いて、袋の底に入れた。




