第五節
次の日の朝、ティアに言った。
手習いの前だった。板を出す前に、その子の正面に座った。
「ティア様」
「なに」
「話があります」
その子は、板を持ったまま止まった。
止まって、それから、板を膝に置いた。置き方が、少し丁寧だった。
「わたし、しってる」
「え」
「みおり、いくんでしょ」
私は、口を開けて、閉じた。
「誰から聞いた?」
「きいてない」
「じゃあ」
「かおでわかる」
その子は、そう言った。
言って、少し得意そうな顔をした。得意そうにしたあと、すぐにその顔をやめた。
「いくの?」
「行きたいと思ってる」
「まだ、きまってないの」
「うん。まだ」
その子は、膝の板を見た。
見て、それから、聞いた。
「なんにちいくの」
「行くとしたら、二十日くらい」
「はつか」
その子は、指を出した。
十まで折って、そこで止まった。もう一度、最初から折り直した。
「ふたつぶん」
「うん。指二回ぶん」
「ながい」
「長いです」
私は、そう言った。
言ってから、その子の顔を見た。
泣いていなかった。泣きそうでもなかった。ただ、指を見ていた。
「ティア様」
「なに」
「行っていいですか」
聞いた。
聞いてから、六歳に聞くことではないと思った。思ったけれど、聞いてしまった。
その子は、指を下ろした。
下ろして、私を見た。
「みおりが、きめるんでしょ」
「あの」
「かあさまが、いってた。ひとにきいて、きめてもらうのは、ずるいって」
私は、そこで止まった。
止まったまま、返事ができなかった。
「みおり、ずるい?」
「……ずるいです」
「うん」
その子は、頷いた。
頷いて、それから、板を持ち直した。
「でも、きいてくれたから、いい」
「え」
「イルゼは、きいてくれなかった」
私は、少し驚いた。
「イルゼさんが、何かしたの」
「ううん」
その子は、板に字を書きはじめた。
書きながら、続けた。
「わたしが、ちいさいとき。イルゼ、いっかい、いなくなった」
「いなくなった」
「うん。ずっとまえ。びょうきで、やすんでた」
その子は、そう言った。
「かえってきたけど、いくって、いわれなかった」
私は、その話を初めて聞いた。
イルゼさんが休んだ話も、それを六歳が覚えている話も。
「だから、みおりは、いって」
「え」
「いって、かえってきて」
その子は、板から顔を上げた。
「それで、いい」
私は、その子の顔を見ていた。
しばらく見ていて、それから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「あたま、さげなくていい」
「はい」
「かえってくるって、いって」
私は、そこで詰まった。
去年、同じことを聞かれた。かえってくる、と聞かれて、答えられなかった。
答えられないのは、今も同じだった。
「……分からない」
「わかった」
その子は、あっさり言った。
「わかったの?」
「うん。うそつかれるより、いい」
私は、笑ってしまった。
笑ったら、その子が変な顔をした。
「なんでわらうの」
「……なんででしょう」
「へんなの」
「六つでしょ」
「六つは、おとな」
その子は、そう言い張った。
昼過ぎに、王妃陛下に呼ばれた。
日当たりのいい部屋だった。今度は、二人だけだった。
「ミオリ」
「はい」
「ティアが、あなたのことを話しに来ました」
私は、顔を上げた。
「あの子は、あなたが行くと言いました。私が聞く前に」
「はい」
「泣いていませんでした」
その人は、そう言った。
言って、茶器を持ち上げた。
「三人に止められましたね」
「はい」
「四人目は、私だと思っていますか」
「……思ってます」
「そうでしょう」
その人は、茶器を置いた。
「では、聞きます。あなたは、何をしに行きますか」
私は、紙を出そうとして、やめた。
紙は持っていた。四つ書いたやつだ。でも、この人には紙ではない気がした。
「四つ、あります」
私は、口で言った。
「数えることと、名前を覚えることと、預かることと、応急手当です」
「それで」
「それだけです」
言ってから、少し息を吸った。
「五つ目は、捨てました」
「五つ目」
「団長さんに、捨てろと言われました」
「捨てましたか」
私は、そこで少し黙った。
黙って、それから、正直に言った。
「捨てられてないです」
「そうでしょう」
「でも、五つ目を理由にはしないです」
私は、そう言った。
「持ったまま行きます。理由には、しないです」
王妃陛下は、しばらく私を見ていた。
見て、それから、少しだけ姿勢を変えた。
「ミオリ。行きなさい」
私は、顔を上げた。
「え」
「行ってよろしい。──ただし、条件があります」
「はい」
「一つだけです」
その人は、指を一本立てた。
「一人で決めないこと」
「あの」
「向こうで、何かを決める場面が必ず来ます。子どもをどうするか、誰を先に運ぶか、いつ動くか。──そのとき、あなたは一人で決めようとします」
「はい」
「決めないでください。必ず、誰かに言ってから決めなさい」
「はい」
「返事が早い」
言われて、私は口を閉じた。
「ミオリ。これは守れない条件です」
「え」
「守れないと分かっていて、出しています」
その人は、そう言った。
「人は、切羽詰まると一人で決めます。あなたも決めます。──ですから、こう言い直します」
その人は、指を下ろした。
「一人で決めたら、あとで必ず誰かに言いなさい」
「言う」
「はい。決めたことを、隠さないでください。それだけです」
私は、頷いた。
頷いて、それから、聞いた。
「あの」
「はい」
「団長さんは、なんて」
「まだ言っていません」
「え」
「あなたが自分で言いに行きなさい。──四つだけで来い、と言われたのでしょう」
その人は、そう言った。
「では、四つで行きなさい」




