第三節
「聞きました」
青い上着の人は、扉を後ろ手に閉めて、それから閉めたことを気にするみたいに一度振り返った。
「大神官が、書を出さないと」
「はい」
「出させます」
まっすぐな言い方だった。まっすぐすぎて、私はどう返していいのか分からなかった。
「あの、でも、生まれつきじゃないと駄目だって」
「規定には、後から現れた場合の定めがない。ないなら、決めるのは神殿ではない」
言いながら、彼は部屋の中を見ていた。椅子、机、高い窓。それから机の上のペンで目が止まって、何だろうという顔をして、聞かずに逸らした。
「──失礼、名乗っていませんでした」
背筋が伸びた。急に別の生き物になったみたいだった。
「ユーリ・ヴェルデリア。第二王子です。召喚の儀を発議したのは私です」
「はい」
はい、しか出なかった。
目の下が黒い。袖に何かこぼした跡がある。第二王子という言葉と、うまく繋がらなかった。
「あなたを、あの部屋から連れ出したのも私の責任です。だから」
「あの」
「はい」
「昨日から、ずっと謝ってますよね」
彼が黙った。
「私も、さっきから謝ってばかりで。……変な感じだなと思って」
言ってから、失礼だったかもしれないと思った。相手は王子だ。
彼は少しのあいだ動かなかった。それから、口の端が動いた。それだけだった。
「……はい」
「はい」
続きが出てこない。二人とも黙って、扉の外を誰かが通っていく音を聞いていた。
「明日、また参ります」
彼はそう言って、出ていった。
次の日は来なかった。その次の日も。
朝が来ると鐘が鳴る。城の朝は三回。日が落ちるとき二回。それだけ覚えた。何の鐘なのかは、聞いていない。
食事は部屋に運ばれてくる。多い。半分も食べられなくて、残すのが申し訳なくて、三日目からは最初に半分よけておくようにした。
誰も、何もしなくていいと言った。
言葉ではそう言われない。けれど、そういうことだった。
四日目に、洗濯物の籠を運んでいる人とすれ違った。両手が塞がっていて、扉を肘で押そうとしていた。
扉を開けて、それから、籠の片側に手をかけた。
その人が立ち止まった。籠を持ち上げたまま、私の手を見て、私の顔を見て、それから廊下の先を見た。誰か呼びに行こうとしているのだと思った。
「あ、すみません」
手を離した。
「すみません、大丈夫です。あの、大丈夫なので」
その人は何も言わずに、頭を下げて、行った。籠は自分で運んでいった。扉だけ、開けたままにしておいてくれた。
自分の寝台のシーツは、自分でたたんだ。
朝、部屋を出るまでのあいだにたたんでおけば、来た人は何も言わない。それだけのことが、一日のうちでいちばん落ち着く時間になった。
窓の下に街がある。屋根が重なっていて、細い煙が何本も上がる。昼過ぎになると、どこかから子どもの声がする。何を言っているかは分からない。でも、あの高さの声は、たぶん四つか五つだ。
立って見ていると、時々、壁の上の人と目が合いそうになる。合いはしない。あの人たちは外しか見ていない。
鏡は、朝に一度だけ見ることにした。
線は、濃くなっている気がしたり、していない気がしたりした。
九回目の朝の鐘のあと、扉が叩かれた。
「お待たせしました」
息が上がっていた。前と同じだった。この人はいつも走っている。
「書のことは、まだです。申し訳ない」
「はい」
「ですが、別の話を先にしなければと思って」
彼は椅子を勧められる前に立ったままで、それから座っていいものか迷って、結局机の横に立った。
「あなたを、元の場所へお返しする方法があります」
「え」
「召喚の陣を、逆に起こします。理屈の上ではできる。というより、そのために組まれた陣です。私が急いだので、片道しか使いませんでしたが」
「帰れるんですか」
「帰れます」
膝の力が抜けた。座っていてよかった。
「いつですか」
彼が、一拍だけ遅れた。
「星合の夜に」
言葉は意味を結ぶのに、何を指しているのかが分からない。星と、重なるということ。そこまでは届いて、その先がなかった。
私の顔を見て、彼が言い直した。
「双つの月が、完全に重なる夜のことです。その夜だけ、大地から力を借りられる。……それ以外の日に大きな術を起こすには、人の身から出すしかない」
あの部屋の、灰色の服の人たちを思い出した。
思い出したことが顔に出たのだと思う。彼が目を伏せた。
「次の星合は、来年の春です」
「来年の」
「はい。あと、一年ほど」
一年。
指を折りかけて、やめた。四月に召喚されたのだから、次の四月。担任は一年で替わる。ちょうど一年なら、あの子たちの進級には間に合わないけれど、次の年度には戻れる。
戻れる。
「よかった」
声に出ていた。
「あの、ありがとうございます。よかった。ほんとに」
彼は返事をしなかった。
顔を上げると、こっちを見ていた。見ていて、それから、また視線を落とした。何か言おうとして、言わなかった。
「一年、ご不便をおかけします」
「いえ、そんな」
「必要なものがあれば、何なりと」
「あの、じゃあ」
言ってしまってから、後戻りできなくなった。
「紙を、少しいただけませんか。あと、たたむものがあれば、私、やりますので」
彼が瞬きをした。
「たたむ」
「洗ったあとの。シーツとか。……手が空いてるので」
彼は少し考えて、分かりましたとも、駄目ですとも言わずに、こう言った。
「紙は、今日中に届けさせます」
扉が閉まった。
窓の下で、また子どもの声がした。私は指を折って数え直した。四月から四月まで。十二。




