第二節
「……昨日です」
声が響いた。思ったより大きく響いて、自分でびくりとした。
「昨日、と申されたか」
「はい。あの、朝は、なかったので」
白い衣の人たちが顔を見合わせた。誰かが何か言い、別の誰かが首を振った。若い神官が一歩前に出て、口を開きかけて、そのまま止まった。老人が杖を持ち替えただけだった。それだけで、彼は下がった。
「印は生まれつきのものだ」
老人が言った。教えているのではなく、確認している口調だった。
印。昨日から、この人たちはそれを痣とは呼ばない。
「生まれて三日のうちに、親が神殿へ子を運ぶ。我らはそれを見て、書に記す。位置、形、大きさ。三度、年を置いて改める。そうして初めて、この者はこの特性の持ち主であると証を立てる」
「はい」
「貴殿の場合、記すべき初めがない」
何を言われているのかは分かった。分かったけれど、それがどう困るのかが分からなかった。
「あの、でも、さっき緑に光ったので。補助だって」
「光った」
老人が繰り返した。
「石は、そこに力があれば光る。誰の力であるかは言わぬ」
「……私の、じゃないってことですか」
「そうは言っておらぬ」
杖の先を、床に置き直した。
「言えぬのだ。証明できぬものを、我らは書けぬ」
部屋の隅で、書き取りの人が筆を持ち上げて、また置いた。
「では、それがしからも申し上げます」
白い衣の別の一人が進み出た。声が事務的だった。
「鑑定書がない者は、城門を通れませぬ。市に入るにも、勤めを得るにも、まず書を求められます。宿も貸されませぬ」
「……街に、出られないってことですか」
「城の外では、あなた様が何者かを示すものがございません」
「私、七瀬澪里です」
言ってから、それが答えになっていないことに気づいた。
名前は私が名乗っているだけだ。この人たちが求めているのは、私ではない誰かが私について書いた紙のほうだった。
園でも同じだった。子どものことをいちばん知っているのは私でも、書類に書いてあることが正しいことになる。
そう思ったら、少しだけ落ち着いた。
部屋の隅の人が、また筆を取った。今日のことを書いているのだと思う。私のことを。
落ち着きは、そこで終わった。
読めない。私について書かれるものを、私だけが読めない。
「あの、じゃあ、私はどうすれば」
「城内でお過ごしいただく分には、差し支えございません」
差し支えございません、という言い方で、だいたい分かった。
石の台から手を離した。手のひらの下だけ、石が生ぬるくなっていた。
「大神官様」
若い神官だった。声が少し震えている。
「昨日、王女殿下が」
「聞いておる」
「はっ」
「聞いておる。その上で申しておる」
老人が初めて、声を張った。
張ってから、自分でそれに気づいたみたいに、息を吐いた。杖を持つ手の甲に、筋が浮いていた。
「五名だ」
昨日と同じ言葉だった。昨日より、少しだけ低かった。
「五名が、この方をお呼びするために、己の一部を差し出した。書に記されぬものを我らが認めれば、あの者たちが差し出したものは何になる。何を根拠に、我らは次を止められる」
誰も答えなかった。
私にも、何を言われたのかは半分しか分からなかった。分からないなりに、この人が怒っているのは私にではないのかもしれない、と思った。
思ったところで、どうにもならない。
「では、下がられよ」
老人が背を向けた。
白い衣が動いて、部屋の奥の扉へ流れていく。若い神官だけが残って、私の前で立ち止まった。何か言おうとして、二度失敗して、三度目に言ったのはこれだった。
「……祖母の書は、私が写しました」
「はい」
「三度目の改めのときに。私が、初めて書いた書でした」
それだけ言って、頭を下げて、走っていった。
外に出ると、光が明るすぎて目を細めた。
石段の下で、昨日の女の人が待っていた。私の顔を見て、それから神殿の扉を見て、何も聞かなかった。
「お戻りになりますか」
「はい」
城へ戻る道は、来たときと同じだった。同じなのに、壁がさっきより近くに見えた。
門があった。二重になっていて、外側の門の向こうに、屋根が続いているのが見える。煙が上がっていた。誰かが洗濯物を干している。犬の鳴き声。子どもの声も混じっていた。
門番が二人、こちらを見た。
見ただけで、何もしなかった。私が門の前で足を止めたわけでもないのに、二人とも、私が通り過ぎるまで目で追った。
城に入ると、廊下で誰かが足早に私たちを追い越していった。女の人が少し脇に寄る。追い越した人は振り返らなかった。奥のほうで扉が開いて、閉まる音がした。
部屋に戻って、椅子に座った。
窓は高いところにあって、座ると空しか見えない。立てば街が見える。立たなかった。
ペンをまだ持っていた。昨日から握って、今も机の上に置いてある。名前を書くための油性ペン。
書くものがない。
しばらくして、扉が叩かれた。返事をする前に開いて、入ってきたのは昨日の青い上着の人だった。息が上がっていた。
「聞きました」
最初の一言がそれだった。




