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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第1章「戦力外」

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第一節

 夜のあいだに三回、鏡を見た。


 部屋には姿見があった。私の背より高くて、枠に葉っぱの彫刻がついている。こんなに大きい鏡を、私は今まで自分のものとして使ったことがない。


 鎖骨の内側から、喉の下まで。

 細い線が二本、絡むように伸びて、途中で枝分かれしている。あざというより、絵に近かった。青みがかった灰色で、押しても痛くない。爪の先でこすっても、色が動かない。


 鏡には、私も映っていた。


 こんなに大きい鏡で自分を見たのは初めてだった。肩より少し下までの、まっすぐな髪。色は黒だ。光が当たると、少しこげ茶に見える。目も黒い。


 下ろしているのが、落ち着かなかった。


 園では毎日束ねていた。抱き上げたときに子どもの手が届くし、給食のときに邪魔になる。三年やっていたので、いつのまにか、髪は結ぶものになっていた。


 この世界の人を、私は何人か見た。灰色。青。金。白。


 黒髪や黒い瞳の人はいなかった。


 昨日、大神官様が私の顔を長く見ていたのは、たぶん、喉だけを見ていたのではなかった。


 三回目に見たとき、昨日より濃くなっている気がして、それ以上見るのをやめた。


 朝、迎えが来た。

「神殿へお運びいただきます。鑑定を受けていただきますので」

 昨日の年配の女の人だった。名前はまだ聞いていない。聞いてもいいものなのかが分からない。

 廊下を歩くあいだ、二人の兵士が前と後ろについた。前の人は一度も振り返らなかった。後ろの人の足音が、私の歩幅に合っていなかった。


 外に出て、初めて空が見えた。

 高い壁が、街をぐるりと囲っている。壁の上を人が歩いていた。等間隔に。遠すぎて顔は見えないのに、みんな外を向いているのは分かった。

 誰も内側を見ていない。

 神殿は、白い石の建物だった。中に入ると天井がまた高くて、声がよく響く。人がいる。二十人くらい。灰色の服の人と、白い服の人と、それから金具の音がする人たち。

 昨日の広間より、人が多かった。鑑定というのは、こんなに人が集まるものなのだろうか。


 部屋の真ん中に、腰の高さの石の台がある。表面がなめらかで、少しくぼんでいる。

「こちらへ」

 若い神官が、台の前に立たせた。手つきが丁寧で、そのぶん、目が合わない。

「両の手を、こちらに」

 言われた通りに置いた。石が冷たい。

「それから、痣を」

 襟元に手をかけた。

 服の合わせを引くと、鎖骨が出る。人前でやる動作ではないので、指が言うことを聞かなかった。誰かが咳払いをした。

「失礼します」

 若い神官が私の首元に手をかざした。触らない。手のひらを、線の上、一寸ほどのところで止めている。何かを唱えはじめた。


 言葉は意味を結ばなかった。歌でもないし、話でもない。

 喉元が熱くなった。昨日と同じ熱さだった。

 石の台のふちが、光った。


 薄い緑。一箇所だけ。呼吸くらいの速さで明るくなって、暗くなって、また明るくなる。

 部屋が静かになった。


 若い神官が手を下ろした。もう一度かざす。もう一度唱える。光は同じところで、同じ色に灯った。


「……補助です」


 声が小さかった。

「補助魔法。位置と形からも、間違いないかと」


 誰かが息を吐いた。

 その音を、私は聞いた。


 それから、部屋の空気が変わった。何かが張っていたのが、いっぺんに緩んだ。

 入口に立っていた兵士のうち二人が、目配せをして出ていった。壁際で書き取りをしていた人が、筆を置いて、指を揉んだ。紙に並んでいるものを覗き込んだけれど、それが文字だということしか分からなかった。奥の椅子の人が立ち上がって、隣の人に何か言って、笑った。笑ったのだ。昨日から今まで、誰かが笑うのを見たのは初めてだった。


 最初に来たのは、ほっとした気持ちだった。

 よかった、と思った。怖い人だと思われずに済んだ。危ないことをさせられずに済んだ。

 そう思ってから、少し遅れて、意味が分かった。

 みんな、備えるのをやめたのだ。

 両手が石の上に置きっぱなしになっていた。どけていいのかが分からなくて、そのままにした。


「あの」

 若い神官が、はい、と答えた。

「補助魔法って、何ができるんですか」

 彼が口を開いて、閉じた。それから、言葉を選ぶ顔をした。


「体を、少し丈夫にします。足を、少し速くします。剣の一振りを、少し重くします。魔力を、少し増やします。疲れを、少し遅らせます」


「全部、少しなんですね」

「……はい」

 彼は否定しなかった。

「怪我は」

「治りません。それは癒しの領分ですので」

「戦うのは」

「補助は、戦いません」

 まっすぐな答えだった。嘘をつかない人なのだと思った。嘘をつかないので、逃げ道もなかった。

「効き目は、その、人によりますが」

 彼は続けようとして、続けなかった。代わりに、台の上の私の手を見て、それから、自分の手も台に置いた。


「祖母が、補助でした」

「はい」

「畑仕事の前に、家族にかけていました。腰が楽になると言って。……それくらいです」

 それくらい、というのが、慰めなのか事実なのか、私には判断がつかなかった。


「あの、これ、このあとは」

「鑑定書が下ります。それを持てば、街を歩くことも、勤めを得ることもできますので」

 その言い方には、迷いがなかった。当たり前の手続きの話をしている口調だった。


 人が減りはじめた。

 誰も出ていけとは言わなかったし、終わりましたとも言われなかった。ただ、用が済んだ人から順に、自然にいなくなっていく。金具の音が遠ざかる。扉が開いて、閉まる。


 最後まで残った白い衣の人たちの真ん中に、昨日の老人がいた。

 杖を両手で持って、こちらを見ている。見ているというより、私の喉元だけを見ていた。


「ナナセ・ミオリ殿」


「はい」

「その印は、いつ現れた」

 印、と聞こえた。


 痣ではなく。私の喉にあるものを、この人は最初からそう呼んでいる。

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