第四節
湯を使わせてもらって、着替えを渡された。
湯の中で、腕にも脚にも傷ひとつないことを確かめた。転んだ覚えもないのに、確かめずにいられなかった。
白い、袖の広い服。ひとりで着られなくて、女の人に手伝ってもらった。エプロンは洗って返すと言われたので、ポケットからペンだけ抜いた。抜いてから、どこに入れればいいのか分からなくなって、握ったままでいた。
通された部屋には椅子が四つと、低い机がひとつあった。座って待つように言われた。
待っていた。
窓の外の光の角度が変わっていく。壁の向こうで人の声がしている。ひとつではない。声が重なって、高くなって、また低くなる。何を言っているのかは分からない。分からないのに、決まっていないのだということだけは分かった。
誰も入ってこない。机の木目を何度も目で追った。
園を休むときは、朝七時までに主任に電話を入れる決まりだった。
そんなことを考えても仕方がないのに、頭の中で何度も、電話をかけるところまで進んでは止まった。
どれくらい経ったのか、扉が開いた。
「お待たせいたしました。夕餉の支度が整っております」
さっきとは違う人だった。若い。案内されて廊下を歩く。窓の外はもう橙色で、どこかで鐘が鳴った。長く二回。
鐘が鳴ったとたん、廊下ですれ違った人たちの歩き方が変わった。急いでいるのではなくて、その逆だった。荷物を置いた人がいた。誰かが誰かに、また明日、と言った。
案内されたのは広い部屋の、手前の一角だった。
布のかかった長い机に、皿が並んでいる。人が十人くらい。奥のほうに、明らかに偉い人たちが座っている。私はいちばん端の席を示された。
座って、目を伏せた。誰とも目を合わせないようにするのは得意だ。
だから、最初に気づいたのは音だった。
正確には、音が消えたことに。
三つ隣の席に、小さい子がいた。四つか五つ。銀色の髪をきっちり結われていて、机の下で足がぶらぶらしている。さっきまで、その子の声がずっとしていた。喋りながら食べる子で、隣の女の人が何度か注意していた。
その声が、途中でなくなった。
顔を上げた。
子どもが、両手を机についていた。口を大きく開けている。開けているのに、何も出ていない。咳の形に体が動くのに、音が鳴らない。顔が赤い。赤いというより、色が変わっていく途中だった。
椅子を倒して立った。
誰かが何か言った。聞こえたけれど、意味を通す余裕がなかった。
隣の女の人が子どもの背中をさすっていた。
……それでは出ない!
「どいてください」
自分でも驚くくらい、はっきり出た。
女の人の腕の下に体を入れて、子どもを椅子から下ろした。軽い。両膝をついて、その子の体を自分の前腕に乗せて、頭を下げさせる。顎を支える。落ちないように。
肩甲骨のあいだを、手のひらの硬いところで叩いた。
一回、二回、三回。四回、五回。
出ない。
背後で金属の音がした。誰かが立ち上がって、椅子が床を擦って、鋭い声が飛んだ。
子どもを起こして、後ろに回る。膝立ちのまま、両腕を胴に回す。片手を握って、鳩尾の下へ当てて、もう片方の手で包む。
手前に、上へ。
一回。二回。
三回目で、何かが床に落ちた。
小さくて、白っぽくて、艶があった。骨だ。何かの肉の、小さい骨。
子どもの背中が大きく動いて、それから、息が入った。
入った音がした。ひどく汚い、掠れた音だった。それから咳。何度も咳をして、途中で吐いた。私の腕の上に。かまわなかった。吐けるならいい。
「はい、大丈夫。大丈夫だよ。上手。上手だよ」
喉に手を当てないように、胸のあたりを支えて、前に傾けたまま背中を撫でた。撫でながら、まだ数えていた。息を吸う、吐く、吸う。間隔が縮まっていく。
子どもが泣き出した。
泣ける。泣けるなら、もういい。
膝の上に抱き上げた。重い。二歳児しか抱いていない腕には、四つ五つの子は重い。座り込んで、体ごと横に揺らした。
揺らしながら、歌っていた。
「つみきさん、おやすみ……」
考えて歌ったわけではなかった。手が背中を打つのと同じで、勝手にそうなった。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。
子どもの泣き声が、しゃくり上げに変わって、それも間が空いていく。私の袖を掴んでいた手から力が抜けた。呼吸が深くなる。
三番まで歌い終わるころには、体重が全部こっちに預けられていた。
顔を上げて、初めて気づいた。
誰も動いていなかった。
長い机の向こうで、椅子から立ち上がった人たちが、立ち上がったまま。皿を持った給仕の人が、皿を持ったまま。
いちばん近くに、背の高い男の人が立っていた。剣を抜いた形のまま止まっている。目の下が落ちくぼんでいて、顎の線が張っている。
目が合った。
その人は何も言わずに、剣を鞘に戻した。戻すのにやけに時間がかかった。
「あの、すみません」
声が小さくなった。たぶん、体も。
「勝手に、すみません」
誰も何も言わない。
奥の席から、女の人が近づいてきた。歩き方が急いでいるのに、足音がしない。私の前で膝をついて、子どもの顔を覗き込んで、それから頬に触れた。触れて、しばらくそのまま動かなかった。
それから、私を見た。
目が合ってしまって、逸らせなかった。
「……この子を」
言いかけて、その人が口を閉じた。
喉の奥で息が詰まる音がして、それきり、しばらく続きが出てこなかった。
私の腕の中で、子どもが寝息を立てていた。指がまだ袖を掴んでいる。取ろうとしても取れないので、そのままにしておいた。
喉元が、熱い。
湯を使ったときから少し熱っぽいとは思っていた。それが今は、じりじりと焼けるようになっている。触ると、そこだけ皮膚が張っている感じがした。
目の前に、水差しがあった。銀色の、磨かれた腹の部分。
歪んだ像が映っている。白い服。乱れた髪。
鎖骨のところから喉に向かって、細い線が這い上がっていた。




