第三節
老人の顔から、何かがゆっくり抜けていった。怒りでも失望でもなく、もっと事務的な、見積もりが合わなかったときの顔だった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
咳の音だけがした。それから、円の外にいた若い神官が我に返ったように動いて、倒れている人に駆け寄った。二人がかりで抱え起こす。頭が後ろに落ちかけた。支えて、と喉まで出た。
声にはならなかった。抱え直され、その人は運ばれていった。
二人目、三人目。担架のようなものが来て、灰色の服が順番に外へ出ていく。誰も走っていない。手順が決まっているみたいだった。決まっているということは、これが初めてではないということなのか、それとも、これくらいは急ぐ必要がないということなのか。
膝を立てて、立ち上がろうとして、よろけた。足の裏が冷たい。
靴がなかった。
当たり前だった。部屋で寝ていたのだから。仕事着のまま、エプロンも外さずに。ポケットに何か当たって、探ると油性ペンが一本出てきた。名前を書くやつ。
それだけだった。
鞄も、切りかけのうろこも、全部あの部屋にある。
明日、二十一冊が空欄のままになる。
その考えが浮かんだとき、初めて背中が冷たくなった。
「大神官様」
円の外から、白い衣の誰かが老人に何か耳打ちした。老人は聞き終えて、目を閉じた。長く閉じた。
それから、私を見ないまま言った。
「五名だ」
声が低い。
「五名が、この陣に己の一部を差し出した。……これのために」
これ、という言葉がどこを指しているのかは、考えなくても分かった。
誰も否定しなかった。
老人が杖をつく音を残して、背を向けた。衣の裾が石を擦って、それも遠ざかっていく。
残ったのは、さっき倒れた人の名前を呼んだ人だった。青い上着の、あの人。
まだこっちを見ていない。運ばれていったほうを見て、それから、さっきまで人がいた場所の床を見て、最後に自分の手を見た。肩に触れて、引っ込めた手。
「……申し訳ない」
小さい声だった。
「え」
「あなたに、非は」
言いかけて、その先が続かなかった。口を閉じて、唇を一度舐めて、また開いて、結局何も言わなかった。
私は、自分が先に喋らなければいけない気がした。
「すみません」
言ってしまってから、何を謝ったのか自分でも分からなかった。
「あの、私が、その、剣とか、使えたらよかったんですけど」
その人が顔を上げた。
目が赤い。泣いた跡というより、眠っていない顔だった。十代の後半くらいに見える。実習に来る学生さんと、そんなに変わらない。
なのに、この場にいる誰よりも、この人が責任を持たされているのが分かった。分かる理由はなかった。ただ、みんながこの人のほうを一度見てから出ていった。
「あなたが謝ることでは」
「はい。あ、すみま……」
言いかけて止めた。止めたのに、頭が下がった。
それを見て、その人がまた目を伏せた。
結局、二人とも黙った。
誰かの足音が近づいてきて、私の横で止まった。年配の女の人だった。深緑の服。使用人の格好なのだと思う。
「お召し替えを。それから、湯を使っていただきます」
「あ、はい」
「足を。石は冷えますので」
布の靴を出された。しゃがんで履かせようとするので、慌てて自分でやった。紐がない。かかとを踏まないように指を入れて、直す。三年目にもなると、自分の足でも、子どもに履かせるときの手つきになる。
「あの」
「はい」
「あの人たち、戻りますか」
女の人の手が止まった。
「……存じません」
その答え方で、だいたい分かった。
立ち上がると、床の白い線が見えた。円の内側にはもう誰もいない。私が座っていたところに、うっすらと膝の跡みたいな汚れが残っている。
血は、乾きかけて茶色くなっていた。
誰かが後で拭くのだろう。今日じゃないかもしれない。明日でもないかもしれない。
「こちらへ」
言われるままについていった。廊下が長かった。窓の外は明るかった。まだ朝のはずだった。
背中の高いところで、扉が閉まる音がした。




