第二節
アパートに着いたのは二十時前だった。
電気をつけて、鞄を置いて、そのまま座り込んだ。仕事着のままだった。エプロンを外すことも忘れている。
鋏を出す。ラミネートしたうろこを、一枚ずつ形に沿って切る。厚いから、園の鋏では歯が立たなかったやつだ。
五枚切ったところで、手が止まった。
床に切れ端が散らばっている。えらいねシールの台紙が、半分だけ剥がされたままテーブルの隅にある。
冷蔵庫にはたぶん卵と、いつのか分からない豆腐がある。作るのが面倒で、湯を沸かすのも面倒で、そのうち、面倒だと思うのも面倒になった。畳の上に横になった。五分だけ。五分だけと思った。
そういう五分は、たいてい朝までいく。
次に目を開けたとき、天井がなかった。
ずっと高いところに石の梁が組まれていて、その隙間から光が斜めに落ちている。低い角度の、朝の光だった。埃が見える。空気が冷たい。膝の下が、畳ではなく石だった。
さっきまで、夜だったはずだ。
起き上がろうとして、手をついた場所に線があった。
白い。塗ってあるのか彫ってあるのか、指でなぞると、爪がかすかに引っかかる。線は円を描いていて、内側にも外側にも文字らしきものが並んでいる。読めない。読めないのに、これが自分を囲むために引かれた線だということは分かった。
誰かが呻いた。
顔を上げる。円の外に、人が倒れていた。
一人ではない。灰色の長い服を着た人たちが、円を囲むように、五人か六人、倒れたり、膝をついたりしている。目を開けているのに、どこも見ていない人がいる。口が動いているのに、音が出ていない人がいる。誰かの鼻から血が垂れて、床の白い線の上に落ちた。
拭かないと、と思った。それが最初に浮かんだことだった。
その次に、呼吸を数えていた。
一番手前の人の肩が、上がって、下がって、また上がる。速い。速いけれど、止まってはいない。奥の人は動かない。動かないけれど、息はしているのかもしれない。誰か大人を呼ばないと。誰か。
立ち上がれなかった。膝が石から離れなくて、そのあいだに、円の外で人が動いた。
白い衣を重ねた老人が、倒れた人たちのあいだを縫って前に出てきた。背が高い。杖をついているのに、姿勢がまっすぐだった。痩せている。肩から先が衣の中で泳いでいるのに、骨だけで立っているような立ち方をしていた。髪は白い。短く刈ってあって、目が灰色だった。色が薄いせいで、どこを見ているのか分かりにくい。その後ろから、若い男の人が駆け寄って、倒れている一人の名前を呼んだ。呼んで、肩に触れて、それから触れた手を引っ込めた。触っていいのかどうか、分からなかったみたいに。
髪が明るい。金色だ。前髪が眉の上で切り揃えてあって、横も耳の下で同じ長さに揃っている。誰かが定規で測ったみたいな切り方だった。青い上着に金の縁取り。瞳も青い。まだ少年みたいな輪郭で、その青が顔の中で大きすぎるくらいに見えた。
青い上着の人が、こっちを見た。
目が合って、向こうのほうが先に顔を伏せた。
老人が円のふちで足を止め、杖の石突きを床に打った。音が高く響いた。
「──戦士殿」
言葉は、知らない音のはずだった。
なのに意味だけが、そこにあった。耳の内側で誰かが訳しているような感じもない。ただ、そう言われたと分かる。
「よくぞ参られた。此度の召喚に応じてくださったこと、ヴェルデリアの民を代表して感謝申し上げる」
喉が熱かった。渇きとは違う。内側から押されるような熱さだった。
「あの」
声が掠れた。咳払いをして、もう一度。
「あの、すみません、あの人たち、動かないんですけど。救急車って、ここ、どこに」
「きゅう…」
老人が繰り返そうとして、やめた。
「聞かぬ言葉だ」
「あ……お医者さん、です。診てくれる人」
「案ずるには及ばぬ。代償は承知の上のこと」
だいしょう、と口の中で繰り返した。意味は分かるのに、何を言われたのかが分からない。
「それより、まずは名を」
「……七瀬、澪里です」
「ナナセ・ミオリ殿」
老人が繰り返して、少しだけ間があった。それから、確かめるように言った。
「して、その御力は。剣か、槍か。あるいは炎か」
円のまわりで、動ける人たちが顔を上げた。倒れている人の肩が上下しているのが、視界の端で続いている。青い上着の人は、まだこっちを見ていない。
その人以外の全員が、私が口を開くのを待っていた。
こんなに大勢に見られたのは、発表会で保護者の前に立ったとき以来だった。あのときは子どもの後ろにいればよかったから、まだよかった。
「あの、私」
言い方を探した。探しても、他の言い方が出てこなかった。
「剣は、持ったことがなくて。魔法も、その、たぶん、使えないです」
誰かが息を吸う音がした。
「……保育士、なので」
言ってから、そんな説明が何の役に立つのかと思った。
誰も、その言葉を繰り返さなかった。さっきの「きゅう…」のように聞き返す人さえ、いなかった。
石の床が冷たい。膝がじんじんする。
手前で倒れている人の鼻から、また血が落ちた。石の窪みを伝って、少しずつ、私のいる側へ流れてくる。




