第一節
はじめまして、「蜜豆」です。
保育士免許を持っているので、保育士を題材にお話を作ってみました。
四月の保育室は、まだ他人同士のにおいがする。
新しい上履きのゴム、洗い立てのタオル、誰かの家の柔軟剤。それが六月ごろになると全部混ざって、いつのまにか「うちの部屋のにおい」になる。
三年目に入って、それだけは分かるようになった。
「みおりせんせい、これ」
りっちゃんが差し出してきたのは、うさぎのワッペンだった。名前を書くやつ。片側だけ糸が残って、ぶら下がっている。今朝はちゃんとついていた気がする。
「うわ、冒険したね」
「ぼうけん、してない。すべりだい、ひっかかった」
「それを冒険っていうんだよ」
ぶら下がった糸を根元で切って、ワッペンごとポケットに入れる。床に落ちていたら、誰かが必ず口に入れる。連絡帳の上に置き直そうとしたところで別の子が泣き出したので、そちらへ行った。
十時半、園庭。十一時半、給食。りっちゃんは今日も牛乳に手をつけないままで、私は何も言わない。去年、これを飲ませようとして三十分かけたことがある。その子はその日から、給食の時間そのものを嫌いになりかけたので、もう二度とやらない。
十二時半、午睡。
カーテンを引くと部屋が急に薄暗くなって、それだけで半分くらいの子はまぶたが重くなる。残りの半分が問題で、そういう子は布団の上で回転したり、隣の子の髪を触ったり、天井をじっと見ながら足の指を動かし続けたりする。
オルガンの前の椅子に座る。足踏み式の古いオルガンで、右のペダルが少し軋む。
「つみきさん、おやすみ…」
弾きながら歌う。
歌詞は私が勝手に作った。おもちゃがひとつずつ箱に入って、そこで眠る歌。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。順番に名前を呼んでいくだけの、それだけの歌。片付けの歌のつもりだった。それが、布団の上だと子どもが眠る。理由は分からない。
三番まで歌い終わるころには、ごそごそと動いていた足の指も止まっている。
去年、大野先生が背中のほうから「七瀬さん、それ何の歌?」と聞いてきたことがある。作りました、と答えたら、へえ、と言われた。それだけだった。
午睡中は書きものの時間だ。
連絡帳はいつも三人で分けるけれど、今日は大野先生が事務で抜けていて、鈴木先生は布団のあいだを回っている。だから二十一冊。今日は誰が何をして、何を食べて、どんな顔をしていたか。一冊三行でも六十三行になる。
書きながら、五月の壁面がまだ手つかずなことを思い出す。こいのぼりのうろこを人数分。ラミネートは昨日、職員室が空いた隙にかけてある。あとは一枚ずつ形に切るだけ。けれどラミネート済みの厚い紙は裁断機がないと歯が立たなくて、その裁断機も日中は空かない。
持って帰ろう、と思った。うちにはよく切れる鋏がある。
十六時を過ぎるとお迎えが始まる。
園庭側のドアが開くたび、子どもたちの顔が一斉にそっちを向く。自分のお母さんじゃなかった子が、また遊びに戻る。その繰り返し。
りっちゃんのお母さんは、いつも十八時十五分ごろに走ってくる。
窓から門が見える。パンプスで走るのは大変だと思う。門のところでいったん止まって、髪を直して、それから普通の速さで園庭を横切ってくる。息が上がっているのは、ドアが開いた瞬間の声で分かる。
「すみません、遅くなって」
「大丈夫ですよ、全然」
私は毎回そう言う。実際、大丈夫だ。延長保育の時間内だし、私はどうせ十九時まで残っている。
りっちゃんが飛びつく。お母さんが抱き上げて、その顔を見て、少しだけ息を吸うのが見えた。
「これ、取れちゃって。糸は切ってあります」
「あ……すみません、うち、裁縫が…」
言いかけて、やめた。受け取ったワッペンの縫い目は、大きかったり小さかったりして、まっすぐではなかった。それでも縫ってはあった。
「滑り台で冒険したそうです」
お母さんが笑う。その拍子に、目の下のところが濃く見えた。うさぎをバッグの内ポケットに入れて、ファスナーを閉める。
「ありがとうございます。ほんと、助かってます」
二人が門を出ていく。りっちゃんが何か喋っていて、お母さんが相槌を打っている。相槌の間隔が、だんだん広くなっていく。
明日の朝もまた七時半に、あの子はここに来る。ドアを開けて、私の名前を呼びながら。
私は保育室に戻って、床のブロックを拾った。ブロックさん、おやすみ、と口の中で歌いながら拾って、箱に入れて、それからトートバッグにうろこの束を詰めた。二十一枚。折れないように、間に新聞紙を挟んだ。
電気を消すとき、オルガンの蓋が開けっぱなしなのに気づいて、閉めた。
誰もいない部屋は、まだ四月のにおいがした。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
澪里たちの物語の続きを見届けていただけたら嬉しいです




