第四節
ユーリ様が来たのは、その日の夕方だった。
ティアの部屋ではなかった。私の部屋だった。
扉が叩かれて、開けたら立っていた。青い上着。金の髪。目の下が黒い。この人は、去年からずっとそうだ。
「ナナセ殿」
「あ、はい」
「突然すみません。少し、よろしいですか」
「はい」
通そうとして、迷った。
部屋に入れていいのか分からなかった。この一年、この人が私の部屋に入ってきたのは二度だけで、どちらも用があるときだった。
「あの、廊下でもいいですか」
「はい。そのほうがよいと思います」
その人は、すぐにそう言った。
言ってから、少し困った顔をした。
「──いえ、そう言うと、逆に妙ですね」
「妙ですか」
「妙です」
結局、扉を開けたまま、二人とも廊下に立った。
どちらの立場も守られていない格好だった。
「ヴァレンス殿から聞きました」
「はい」
「絵を、版にすると」
「はい」
「見せていただきました。三枚ほど」
私は、少し驚いた。
シリルさんが見せたのだと思う。あの人は、そういうことをする。
「あの、下手ですよね」
「上手いとは思いませんでした」
即答された。
私は、笑ってしまった。
「ですが」
その人は続けた。
「読めない者に伝わる形を、私は初めて見ました」
「あの」
「城の書類は、読める者にしか届きません。私は今まで、それを当たり前だと思っていました」
その人は、廊下の壁のほうを見ていた。
「城下で、読める者がどれくらいいるか、ご存じですか」
「知らないです」
「私も知りませんでした。──調べさせました」
その人は、そこで一度、息を吸った。
「四人に一人です」
私は、その数を頭に置いた。
四人に一人。マレンさんが読めなかった。その夫も読めないと言っていた。
あのとき私は驚いた。驚いた自分に、あとで気づいた。
「ナナセ殿。本題を申し上げます」
「はい」
「紙を、お届けしたい」
私は、顔を上げた。
「え」
「定期的に。十日に一度、五十枚ずつ」
「あの」
「塔が版を彫るぶんとは別です。あれは公のもので、手続きが要ります。──こちらは、あなたが自由に使えるものです」
その人は、そう言った。
言い方が、事務的だった。事務的なのに、目がこちらを見ていなかった。
「五十枚」
「はい」
「十日に一度」
「はい」
私は、その数を数えようとした。
一月で百五十枚。一年で、千八百枚。
銀貨がいくらになるのか、私は知らない。紙の値段を、私は一度も自分で払ったことがなかった。
去年、五十枚買った。あれがいくらだったのかも、覚えていない。エルナさんが払ってくれたわけではない。私が自分の袋から出した。出したのに、覚えていない。
「あの」
「はい」
「それ、いくらですか」
「金額を言うと、受け取りにくくなりますか」
「……なります」
「では、言いません」
私は、そこで黙った。
黙って、少し考えた。
考えているあいだ、その人は待っていた。急かさなかった。この人は、いつも待つ。
「ユーリ様」
「はい」
「ありがたいんですけど」
言いながら、自分の口が何を言うのか、途中まで分からなかった。
「……そんな、いいです」
出た。
出てしまってから、しまったと思った。
その人の顔は、変わらなかった。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「あの」
「言いにくければ、結構です」
「いえ」
私は、少し考えた。
考えて、正直に言うことにした。
「よく分からないんです」
「分からない」
「はい。あの、要らないわけじゃないんです。紙は、いちばん欲しいです」
「はい」
「欲しいのに、受け取れないです」
言ってから、それが本当だと思った。
この一年、いろいろなものをもらった。服も、部屋も、食事も、給金も。全部受け取った。
受け取ったけれど、あれは仕事に対して払われたものだった。理由がついていた。
これは、違う。
「返せないからですか」
その人が言った。
私は、顔を上げた。
「え」
「私が同じ立場なら、そう考えます」
その人は、壁のほうを見たままだった。
「もらったものは、返さなければならない。返せないものは、もらってはいけない。──そう思っていませんか」
思っていた。
言われて、初めて形になった。
「……思ってます」
「はい」
「あの、なんで分かるんですか」
「私も同じだからです」
その人は、そう言った。
言って、それから、少し笑った。前より笑い方が上手くなっている。去年は口の端が動くだけだった。
「五人に、私は返せません」
私は、口を閉じた。
声を失った人と、目を失った人と、両方失った人。全部で五人。去年の秋に、この人が名前を全部言った。
「返せないものが一つあると、他の全部も返せない気がしてきます」
「はい」
「ですので、私は、返せるものを探しています」
その人は、そこで初めてこちらを向いた。
「──これは、そういう話です」
私は、返事ができなかった。
この人は、正直に言った。自分のために渡そうとしていると、自分から言った。
言われてしまうと、断りにくかった。
断りにくいのに、受け取れなかった。
「あの」
「はい」
「ユーリ様は、それでいいんですか」
「何がですか」
「返せるものを探して、それで、その、済むんですか」
その人が、止まった。
止まって、しばらく何も言わなかった。
廊下の灯りが、少し揺れた。誰かが向こうを歩いていったらしい。足音は聞こえなかった。
「──済みません」
「はい」
「済まないと分かっていて、探しています」
その人は、そう言った。
「それが、みっともないことだというのも、分かっています」
「みっともなくないです」
言った。
言ってから、少し強かったと思った。
その人は、私を見た。
「では、受け取っていただけますか」
「あ」
私は、口を開けて、閉じた。
紙が欲しかった。喉から手が出るほど欲しかった。あれば、絵をもっと描ける。失敗しても捨てられる。今は一枚ずつ大事に使っている。
欲しいのに、手が出なかった。
「……すみません」
「いえ」
「あの、今日は」
「はい。分かりました」
その人は、あっさり引いた。
引いたことに、私は少し驚いた。
「ナナセ殿」
「はい」
「一つだけ、申し上げます」
その人は、廊下を歩き出しかけて、止まった。
「借りには、返さなくていいものもあります」
「え」
「私は、それをまだ受け取れません」
その人は、そう言った。
言って、頭を下げて、歩いていった。
角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
私は、廊下に立っていた。
扉が開いたままだった。閉めるのを忘れていた。
閉めて、机に座って、紙を出した。
残りは十四枚だった。
数えてから、しばらく動かなかった。




