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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第2章「受け取れない」

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第四節


 ユーリ様が来たのは、その日の夕方だった。


 ティアの部屋ではなかった。私の部屋だった。


 扉が叩かれて、開けたら立っていた。青い上着。金の髪。目の下が黒い。この人は、去年からずっとそうだ。


「ナナセ殿」


「あ、はい」


「突然すみません。少し、よろしいですか」


「はい」


 通そうとして、迷った。


 部屋に入れていいのか分からなかった。この一年、この人が私の部屋に入ってきたのは二度だけで、どちらも用があるときだった。


「あの、廊下でもいいですか」


「はい。そのほうがよいと思います」


 その人は、すぐにそう言った。

 言ってから、少し困った顔をした。


「──いえ、そう言うと、逆に妙ですね」


「妙ですか」


「妙です」


 結局、扉を開けたまま、二人とも廊下に立った。

 どちらの立場も守られていない格好だった。


「ヴァレンス殿から聞きました」


「はい」


「絵を、版にすると」


「はい」


「見せていただきました。三枚ほど」


 私は、少し驚いた。

 シリルさんが見せたのだと思う。あの人は、そういうことをする。


「あの、下手ですよね」


「上手いとは思いませんでした」


 即答された。

 私は、笑ってしまった。


「ですが」


 その人は続けた。


「読めない者に伝わる形を、私は初めて見ました」


「あの」


「城の書類は、読める者にしか届きません。私は今まで、それを当たり前だと思っていました」


 その人は、廊下の壁のほうを見ていた。


「城下で、読める者がどれくらいいるか、ご存じですか」


「知らないです」


「私も知りませんでした。──調べさせました」


 その人は、そこで一度、息を吸った。


「四人に一人です」


 私は、その数を頭に置いた。

 四人に一人。マレンさんが読めなかった。その夫も読めないと言っていた。


 あのとき私は驚いた。驚いた自分に、あとで気づいた。


「ナナセ殿。本題を申し上げます」


「はい」


「紙を、お届けしたい」


 私は、顔を上げた。


「え」


「定期的に。十日に一度、五十枚ずつ」


「あの」


「塔が版を彫るぶんとは別です。あれは公のもので、手続きが要ります。──こちらは、あなたが自由に使えるものです」


 その人は、そう言った。

 言い方が、事務的だった。事務的なのに、目がこちらを見ていなかった。


「五十枚」


「はい」


「十日に一度」


「はい」


 私は、その数を数えようとした。

 一月で百五十枚。一年で、千八百枚。


 銀貨がいくらになるのか、私は知らない。紙の値段を、私は一度も自分で払ったことがなかった。


 去年、五十枚買った。あれがいくらだったのかも、覚えていない。エルナさんが払ってくれたわけではない。私が自分の袋から出した。出したのに、覚えていない。


「あの」


「はい」


「それ、いくらですか」


「金額を言うと、受け取りにくくなりますか」


「……なります」


「では、言いません」


 私は、そこで黙った。

 黙って、少し考えた。

 考えているあいだ、その人は待っていた。急かさなかった。この人は、いつも待つ。


「ユーリ様」


「はい」


「ありがたいんですけど」


 言いながら、自分の口が何を言うのか、途中まで分からなかった。


「……そんな、いいです」


 出た。

 出てしまってから、しまったと思った。


 その人の顔は、変わらなかった。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


「あの」


「言いにくければ、結構です」


「いえ」


 私は、少し考えた。

 考えて、正直に言うことにした。


「よく分からないんです」


「分からない」


「はい。あの、要らないわけじゃないんです。紙は、いちばん欲しいです」


「はい」


「欲しいのに、受け取れないです」


 言ってから、それが本当だと思った。


 この一年、いろいろなものをもらった。服も、部屋も、食事も、給金も。全部受け取った。

 受け取ったけれど、あれは仕事に対して払われたものだった。理由がついていた。


 これは、違う。


「返せないからですか」


 その人が言った。

 私は、顔を上げた。


「え」


「私が同じ立場なら、そう考えます」


 その人は、壁のほうを見たままだった。


「もらったものは、返さなければならない。返せないものは、もらってはいけない。──そう思っていませんか」


 思っていた。


 言われて、初めて形になった。


「……思ってます」


「はい」


「あの、なんで分かるんですか」


「私も同じだからです」


 その人は、そう言った。

 言って、それから、少し笑った。前より笑い方が上手くなっている。去年は口の端が動くだけだった。


「五人に、私は返せません」


 私は、口を閉じた。


 声を失った人と、目を失った人と、両方失った人。全部で五人。去年の秋に、この人が名前を全部言った。


「返せないものが一つあると、他の全部も返せない気がしてきます」


「はい」


「ですので、私は、返せるものを探しています」


 その人は、そこで初めてこちらを向いた。


「──これは、そういう話です」


 私は、返事ができなかった。


 この人は、正直に言った。自分のために渡そうとしていると、自分から言った。

 言われてしまうと、断りにくかった。

 断りにくいのに、受け取れなかった。


「あの」


「はい」


「ユーリ様は、それでいいんですか」


「何がですか」


「返せるものを探して、それで、その、済むんですか」


 その人が、止まった。

 止まって、しばらく何も言わなかった。


 廊下の灯りが、少し揺れた。誰かが向こうを歩いていったらしい。足音は聞こえなかった。


「──済みません」


「はい」


「済まないと分かっていて、探しています」


 その人は、そう言った。


「それが、みっともないことだというのも、分かっています」


「みっともなくないです」


 言った。

 言ってから、少し強かったと思った。


 その人は、私を見た。


「では、受け取っていただけますか」


「あ」


 私は、口を開けて、閉じた。


 紙が欲しかった。喉から手が出るほど欲しかった。あれば、絵をもっと描ける。失敗しても捨てられる。今は一枚ずつ大事に使っている。


 欲しいのに、手が出なかった。


「……すみません」


「いえ」


「あの、今日は」


「はい。分かりました」


 その人は、あっさり引いた。

 引いたことに、私は少し驚いた。


「ナナセ殿」


「はい」


「一つだけ、申し上げます」


 その人は、廊下を歩き出しかけて、止まった。


「借りには、返さなくていいものもあります」


「え」


「私は、それをまだ受け取れません」


 その人は、そう言った。

 言って、頭を下げて、歩いていった。

 角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。


 私は、廊下に立っていた。

 扉が開いたままだった。閉めるのを忘れていた。


 閉めて、机に座って、紙を出した。


 残りは十四枚だった。


 数えてから、しばらく動かなかった。

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