第一節
朝、日当たりのいい部屋へ通された。
窓の四角。低い机。子どもの背に合わせた椅子。四度目になる。
昨日の夜から、私は身構えていた。地図が三枚出ていた、と聞いていたからだ。
「ミオリ」
王妃陛下は、先に座っていた。
「座って」
座った。
茶器が二つ。私の前のほうから、湯気が出ている。
「当番は、どうですか」
「あ、はい。楽しいです」
言ってから、自分の返事に驚いた。
楽しい、と言った。
考えて言ったわけではなかった。聞かれて、口が先に動いた。
この一年、仕事のことを聞かれて、そう答えたことがない。大丈夫です、と言ったことなら何度もある。
「そう」
その人は、それだけ言った。
それだけだったけれど、目のあたりが少し動いた。
「絵は、何枚描きましたか」
私は、口を閉じた。
「……六枚です」
「七枚目に入っていたと聞きました」
「はい」
「では、六枚半ですね」
その人は、茶器を持ち上げた。
持ち上げて、一口飲んで、置いた。
「三日、休みなさい」
私は、顔を上げた。
「え」
「当番も、絵も。三日です」
「あの」
「はい」
「なんでですか」
言ってから、聞き方が良くなかったと思った。
でも、聞かずにはいられなかった。
「理由が要りますか」
「あ、いえ、その」
「要るのですね」
その人は、こちらを見た。
「では、逆に聞きます。あなたは、休むのに理由が要ると思っているのですか」
私は、答えられなかった。
答えられないまま、少し考えた。
考えて、分かった。
要ると思っていた。
園でも、そうだった。休むときは電話をする。熱が出た、身内に何かあった、どうしても外せない用がある。理由を言う。理由が弱いと、休みにくい。
理由のない休みを、私は取ったことがなかった。
「……要ると思ってます」
「そうでしょう」
その人は、頷いた。
「では、理由を差し上げます。──私が、そう決めたからです」
「あの、それは」
「理由になっていませんか」
「なってます、けど」
「なっていますね」
言い切られた。
私は、膝の上で手を組んだ。組んでから、この部屋でいつも組んでいることに気づいた。
「あの、絵は」
「三日後に再開なさい」
「はい」
「急がなくてよいのです。あれは誰にも頼まれていない仕事です」
私は、そこで顔を上げた。
「頼まれてないから、やめられないんです」
言ってから、自分でも驚いた。
声が思ったより大きかった。
王妃陛下は、驚かなかった。
「続けて」
「あの」
「今の言葉は、正しいと思います。続けてください」
私は、言葉を探した。
探して、途中まで見つけた。
「頼まれた仕事は、終わりがあります。頼まれてないものは、ないので」
「はい」
「区画がいくつあるか、私は知らないです。分からないから、何枚描けば足りるのかも分からないです」
「はい」
「分からないと、たぶん、終われないです」
言い終わって、私は下を向いた。
言いすぎたと思った。
その人は、しばらく何も言わなかった。
「ミオリ」
「はい」
「区画は、二十二あります」
私は、顔を上げた。
「城下の区画です。預かり場があるのは、そのうち十九」
「十九」
「三つは、区画が小さすぎて、隣と一緒に使っています」
私は、その数を頭の中に置いた。
十九。一箇所に十枚として、百九十枚。
「……多いです」
「多いです」
その人は、あっさり言った。
「ですから、あなた一人で描く形にしないでください」
私は、口を開けた。
「一人で描くと決めたのは、あなたです。誰もそう言っていません」
「あの」
「ヴァレンス殿は、版を彫ると言ったのでしょう」
「はい」
「彫るのは誰ですか」
「……塔の人です」
「では、あなたが描く必要があるのは、何枚ですか」
私は、指を折った。
折って、途中で止まった。
一枚でよかった。版にするなら、元は一枚あればいい。
「一枚ずつ、です」
「はい」
「数え方が一枚、転んだときが一枚、待ち方が一枚。──種類のぶんだけです」
「そうです」
その人は、茶器を置いた。
「あなたは、百九十枚を描くつもりでいた。──ですから、三日休みなさい」
部屋を出たところで、廊下にエルナさんがいた。
壁にもたれて立っていた。装備はつけていない。外套だけ。
「終わった?」
「あの、なんでいるんですか」
「迎えに来たの」
「え」
「今日から三日、私が見張る」
その人は、そう言って壁から離れた。
「陛下に頼まれた。休ませろって」
「見張られるんですか」
「見張られるの」
私は、少し黙った。
「あの、そんなに信用ないですか」
「ないよ」
即答された。
「去年、倒れたでしょ」
「はい」
「あんた、あのとき、倒れる三日前に私と喋ってるの。覚えてる?」
覚えていなかった。
「覚えてないでしょ。──私も、そのとき何も言わなかった。それが嫌だったの」
エルナさんは、廊下を歩き出した。
私はついていった。
「今日は何するの」
「あの、休みなので」
「うん。何する?」
私は、答えられなかった。
三日、何もしない。何もしないというのが、どういうことなのか、去年も分からなかった。
あれから一年経った。まだ分からない。
「……分からないです」
「そう言うと思った」
その人は、振り返らずに言った。
「じゃあ、私が決める」
「はい」
「今日は、飯食って、市場行って、それから川」
「川」
「城壁の内側に流れてるやつ。行ったことないでしょ」
ない。
一年いて、行ったことがなかった。
「あの」
「なに」
「地図、三枚出てたって聞きました」
エルナさんの足が、止まった。
止まって、それから、また歩き出した。
「聞いたんだ」
「はい」
「誰から」
「イルゼさんです」
「あの人ね」
その人は、少し笑った。
笑ったけれど、答えなかった。
「エルナさん」
「今日は休み」
「はい」
「休みの日に、その話はしない」
それだけ言われた。
私は、それ以上聞かなかった。
聞かなかったけれど、この人が知っているのは分かった。




