第三節
当番の日、マレンさんに誘われた。
「みおりさん、午後、空いてます?」
「空いてます」
「じゃあ、来ませんか。名前つけがあるので」
「なまえつけ」
「ああ、そうか。城だと言い方が違うのかな」
その人は少し考えて、言い直した。
「生まれた子を、神殿に連れていくんです。三日目に」
聞いていた。王妃陛下に聞かれて、答えられなかったことの一つだった。
「行っていいんですか」
「うちの区画の子なので。誰が行ってもいいですよ」
誰が行ってもいい、というのが、この国のやり方だった。
神殿には、横の小さい扉から入った。
去年、ニクラスさんに連れてこられた入り口だった。廊下が細くて、天井が低い。灯りが少ない。
通されたのは、思っていたより小さい部屋だった。
窓が一つ。真ん中に、腰の高さの石の台がある。鑑定のときに手を置いたのと、同じ形の台だった。
人が七人いた。
赤ん坊を抱いた女の人。その横に男の人。あとは近所の人らしい。マレンさんも、そのうちの一人だった。
灰色の衣の神官が一人。
「ナナセ殿」
ニクラスさんだった。
「あ、お久しぶりです」
「はい。……お聞きしています。当番に入られたと」
「はい」
「早いですね」
その人は、そう言って、少し笑った。
薄い茶色の髪と、薄い緑の目。指が長い。書く人の指。去年と変わっていなかった。
儀式は、短かった。
赤ん坊が台に乗せられた。布に包まれたまま、仰向けに。
小さい。
台の上で、両手を広げたくらいの長さしかない。頭が私の手のひらに収まる。布から出た足の裏が、親指の先ほどしかなかった。
ニクラスさんが、布をゆっくり開いた。
肩から胸のあたりまで。
印があった。
左の肩の下。小さい。指の先くらいの丸い形で、色は薄い赤茶だった。
「──槍でございます」
その人が言った。
部屋の中が、少し動いた。父親らしい男の人が息を吐いた。母親は何も言わずに、赤ん坊のほうを見ていた。
「位置は肩の下。深さは中ほど。……よい印です」
「よい、というのは」
母親が聞いた。
「肩に近いほど、伸びます。この子は、しっかり届くところにあります」
ニクラスさんは、そう言って、板に何かを書きはじめた。
書きながら、続けた。
「名を、お決めになりましたか」
「はい」
「伺います」
母親が言った。
「イーラで」
「イーラ」
「祖母の名です」
ニクラスさんが頷いて、書いた。
それだけだった。
私は、少し混乱していた。
名前は、印で決まるのだと思っていた。決まると聞いたわけではない。私が勝手にそう思っていた。
実際は、違った。印を見てから、親が名前を言う。
順番が逆なだけで、印が名前を決めているわけではなかった。
外に出たところで、マレンさんに聞いた。
「あの、名前って、印で決まるんじゃないんですね」
「決まりませんよ。親がつけます」
「じゃあ、なんで先に印を」
「うーん」
その人は、少し考えた。
「たぶん、決めやすくなるからじゃないですか」
「決めやすく」
「剣だったら強そうな名前とか、癒しだったら柔らかい名前とか。──つける人はつけます。うちはつけなかったですけど」
「マレンさんは」
「上の子は、夫の父の名です。下は、生まれた日に咲いてた花」
「花」
「はい。名前なんて、そんなもんです」
そんなもんです、と言われて、私は少し安心した。
安心してから、なぜ安心したのかを考えた。
考えて、分かった。
私の名前も、そんなものだったからだ。
その夜、部屋で紙に自分の名前を書いた。
ナ、ナ、セ、ミ、オ、リ。この国の字で。去年、書けるようになったやつだ。
書いてから、日本の字でも書いた。
七瀬澪里。
澪、という字を、私はずっと書きにくいと思っていた。画数が多い。小学生のとき、テストで名前を書くだけで時間がかかった。
父に一度、聞いたことがある。
なんでこの字なの、と。
父は、澪標という言葉を教えてくれた。川や海の、船が通れるところに立てる杭のことだった。ここを通れば座礁しない、と示すための目印。
水の道の、しるし。
だから、澪。
母は横で、「本当は画数で決めたんだけどね」と言った。父が嫌な顔をした。二人とも笑っていた。
その話を、私は誰にもしていない。
この国の誰にも。
できないからだった。
澪標、と口に出してみた。
音は出た。掠れずに出た。
出たけれど、それは音でしかなかった。この国の人が聞いても、意味は結ばない。
確かめたことはない。確かめる相手がいない。
ナナセ・ミオリ。
この国で私はそう呼ばれている。それはただの音だった。
名前に意味があることを、私はこの一年、誰にも言えていない。
紙を見た。
二つの字が並んでいる。片方は読める人がいて、片方は読める人がいない。
私は、日本の字のほうを指でなぞった。
なぞって、それから、両方とも机の一番下にしまった。
次の日、当番でおばあさんに聞いた。
「あの、名前って、変えられるんですか」
「は?」
「この国だと」
「変えないよ」
あっさり言われた。
「印は変わらないだろ。だから名前も変わらない」
「印が変わったら」
「変わらないって」
私は、そこで口を閉じた。
この人は、私の喉のことを知らない。知らないほうが、たぶん、いい。
「なんだい、藪から棒に」
「いえ、あの」
私は、少し考えて、言った。
「名前をつけるとき、何を考えるのかなと思って」
「考えないよ」
おばあさんは、井戸のほうを見たまま言った。
「呼びやすいのにする。毎日呼ぶんだから」
毎日呼ぶんだから。
私は、それをしばらく考えていた。
園でも、私は毎日名前を呼んでいた。二十一人分。朝と、給食と、午睡と、帰りに。一日に何十回も呼んだ。
呼びやすい名前と、呼びにくい名前があった。呼びにくい子の名前ほど、私は丁寧に呼んでいた気がする。
「おばあさん」
「なんだい」
「お名前、聞いてもいいですか」
その人が、こちらを見た。
見て、少し変な顔をした。
「今さらかい」
「はい。今さらです」
「……ハンナだよ」
「ハンナさん」
「さん、はいらないよ」
「ハンナさん」
その人は、それ以上何も言わなかった。
言わずに、井戸のほうへ歩いていった。歩き方が少し速かった気がしたけれど、たぶん、気のせいだった。




