第一節
早馬のことは、三日経っても誰も教えてくれなかった。
教えてくれないというより、話が私のところまで来なかった。詰所は忙しくなっていた。中庭に荷車が出て、地図を持った人が行き来している。エルナさんを二度見かけて、二度とも走っていた。
私は、ティアの部屋にいた。
いるしかなかった。呼ばれていないので、行く理由がなかった。
四日目の朝、呼ばれた。
通されたのは、日当たりのいい部屋だった。窓が大きくて、床に光の四角が落ちている。低い机と、丸い椅子。子どもの背に合わせた椅子。
もう三度目になる。三度とも、大きい話だった。
「ミオリ」
王妃陛下は、先に座っていた。
「座って」
座った。
茶器が二つ出ている。私の前のほうから、湯気が出ていた。
「城下へ通っているそうですね」
「あ、はい」
「十日に一度」
「はい」
「何人に会いましたか」
私は、指を折った。
「四度行って、たぶん、九人です」
「九人」
「はい」
その人は、茶器を持ち上げた。持ち上げて、一口飲んで、置いた。
「その九人に、何を渡しましたか」
言い方が、少し変だった。
何を教えましたか、ではなかった。渡した、と言われた。
「あの、寝かしつけの順番とか、離乳のこととか」
「どこで覚えたことですか」
「私の国です」
「そう」
それだけ言われた。
私は、茶器に手を伸ばして、伸ばした手を戻した。
この人は、遠回りをしない人だった。遠回りをしていないということは、まだ本題ではないということだ。
「ミオリ。二つ聞きます」
「はい」
「一つ目。あなたは、この国の子育てを、どれくらい知っていますか」
私は、口を開けた。
開けて、閉じた。
「……見たことは、あります」
「見たこと」
「広場の預かり場は、何度も見てます。当番の人がいて、毎日替わって、手の空いた人がやるって」
「それだけですか」
「あと、日が落ちたら終わるとか」
「それは働き方です」
言われて、私は黙った。
黙って、頭の中で探した。
探して、出てこなかった。
子どもが生まれたら何をするのか。名前をどう決めるのか。いつ乳をやめるのか。叱るときにどうするのか。何も知らなかった。
一年、この国にいて、何も。
「二つ目です」
その人が言った。
「あなたが渡したやり方は、ここで通りますか」
「あの」
「通らなかった場合、どうなりますか」
私は、そこで手が止まった。
三度目に行ったとき、離乳の話をした人がいた。あの人は納得しない顔で帰っていった。
納得しない理由を、私は考えなかった。
考えずに、次の人の話を聞いた。
「──分からないです」
「そうでしょう」
その人は、責めていなかった。
責めていないぶん、逃げ場がなかった。
「ミオリ。あなたのやり方が悪いとは言っていません。九人のうち、何人かは助かったはずです」
「はい」
「ですが、あなたは今、教える側にだけ立っている」
言葉が、そこに置かれた。
「教えるのが悪いとは言いません。求められて答えている。それは正しい」
「はい」
「では、あなたはこの国から、何を教わりましたか」
私は、答えられなかった。
答えられないまま、膝の上で手を組んだ。
組んでから、去年もこの部屋で同じことをしたのを思い出した。あのときは、組んだ覚えがなかった。今日は、組んだのが分かった。
「あの」
「はい」
「教わってないです」
「はい」
「あの、教わろうと、してませんでした」
言ってから、それが本当だと思った。
私は、あの広場で座っていた。座って、見て、聞かれたことに答えて、帰っていた。
見ていたのに、学んでいなかった。
見るのと学ぶのは、違うことだった。
「ミオリ。頼みがあります」
「はい」
「この国の育て方を、学んでください」
その人は、そう言った。
「見るのではありません。学んでください。あなたが向こうで三年やったのと、同じやり方で」
「三年」
「三年かけろとは言いません。ただ、教わる順番を、逆にしないでほしい」
私は、頷いた。
頷いてから、聞いた。
「あの、どうすればいいですか」
その人が、少し目を細めた。
「聞くのですね」
「え」
「去年のあなたなら、聞かずに始めていました」
言われて、初めて気づいた。
その通りだった。去年の私なら、頷いて、部屋を出て、それから一人で考えていた。
「……はい」
「よろしい」
その人は、茶器を置いた。
「当番に入りなさい」
「え」
「広場の当番です。座って見るのではなく、当番として入る。──あそこの人たちは、あなたに何度もそう言っているはずです」
言われていた。
おばあさんに、一度だけ。あんた、当番やんな、と。
そのときは、冗談だと思って流した。
「なんで、それを」
「聞いています。私はあの区画に人を出していますので」
その人は、そう言った。
それがどういう意味なのかは、聞かなかった。王妃という人は、たぶん、そういうものだった。
「頻度を上げなさい。十日に一度では、当番になりません」
「はい」
「三日に一度なら、回ります」
「ティア様が」
「ティアは六つです。半日いなくても死にません」
あっさり言われた。
「それに、あの子はあなたが留守のあいだ、私のところへ来ます。──来られると困る、とは言いません」
その人は、そこで少しだけ言い方を変えた。
「私は、あの子と過ごす時間がほしい側です」
私は、返事をしなかった。
返事をする場面ではない気がした。
「ミオリ」
「はい」
「一つ、注意しておきます」
その人は、椅子の背に少し体を預けた。
「あなたは、学びはじめると、また働きすぎます」
「あの」
「去年、倒れました」
「はい」
「今度は当番に入るのですから、休みは向こうが決めます。──それに従いなさい」
私は、頷いた。
頷いて、それから、少し考えて、口を開いた。
「あの」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「早馬のことは、私には関係ないですか」
その人の手が、茶器の縁で止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
「ミオリ」
「はい」
「関係ないと言えば、あなたは納得しますか」
「……たぶん、しないです」
「では、こう言います」
その人は、茶器を置いた。
「今は、あなたに関係のない形で進んでいます。──形が変わったら、私が言います」
それだけだった。
部屋を出るとき、廊下の窓から中庭が見えた。
荷車が三台に増えていた。




