第三節
塔から使いが来たのは、その次の日だった。
月に一度、行くことになっている。検証ではない。検証は去年の冬に止まった。それでも呼ばれる。
二階から三階へ上がって、廊下を歩く。窓が少ないのは相変わらずだった。
「ナナセ殿」
入るなり言われた。挨拶はない。この人はいつもそうだ。
「本日も、出ませんか」
「はい」
「どこで切れますか」
「二節目の、三つ目です」
「前回と同じですね」
「はい」
その人は蝋板に何か書いた。
書いてから、顔を上げた。
「三月、同じ場所です」
「はい」
「声が出なくなって四月。最初の一月は何も出なかった。そのあとの三月が、ずっと同じ場所です」
「はい」
「変わらないというのは、悪い報せではありません。悪くなってもいない」
「はい」
「良くもなっていませんが」
私は、頷いた。
この人は、慰めない。慰めないぶん、聞いていて楽だった。
机の上に、板の束があった。
四十二枚。並べ替えたあとがついていて、角が欠けているのもある。右端の欄が空いた板。
「増えてませんね」
「増えません。あなたが歌えないので」
「はい」
「ですが、捨ててもいません」
同じやりとりを、たぶん、三度目だった。
何度目でも、その人は同じ答えを返す。
私はそれを確かめに来ているのかもしれない。
「ナナセ殿。今日は、別の話があります」
「はい」
その人は、机の下から布をかけたものを出した。
布を取ると、木の箱だった。手のひらより大きい。上面に穴が開いていて、中に何かが張ってある。細い糸のようなものが、何本か。
「何ですか、これ」
「作りかけです」
「はい」
「声を、写す器械にしたい」
私は、その箱を見た。
「写す」
「はい。私が測っているのは、旋律の形と、私自身の腕の重さの変化です。どちらも、私の体を通っている」
その人は、箱の糸を指で弾いた。
小さい音がした。
「私が疲れていれば、記録が汚れます。ヴィムも同じです。──術者の体を通さずに測れないかと考えました」
「それで、これを」
「はい。今のところ、鳴るだけです」
その人は、そう言って、箱を置いた。
「音の高さで、糸が別々に震えます。震えの大きさが見えれば、声の強さが分かる。──理屈の上では」
「理屈の上では」
「動きません」
あっさり言われた。
「三十日やって、動きません。糸が細すぎるか、太すぎるか、張り方が悪いか。三つとも試しましたが、駄目でした」
「あの」
「はい」
「作るの、大変じゃないですか」
「大変です」
その人は、私を見た。
「ですが、あなたが歌えないあいだにやっておかないと、歌えるようになったときに間に合いません」
私は、返事に詰まった。
この人は、私が歌えるようになる前提で、道具を作っている。
三月、同じ場所で切れているのに。
「あの、もし戻らなかったら」
「その場合は、他の術者を測ります」
「はい」
「無駄にはなりません。──ですので、気に病まないでください」
言い方が、平らだった。
平らなのに、そういうことを言う人だった。
「ただし」
「はい」
「他の術者を測っても、あれは埋まりません」
その人は、四十二枚のほうを見なかった。
見ないまま、そう言った。
私は、少し黙った。それから、思い出して、鞄から紙を出した。
「あの、見てもらってもいいですか」
「何ですか」
「昨日、城下で描いたやつです」
机に置いた。
三つの絵が並んでいる。顔を拭いている絵。着替えの絵。横になっている絵。あいだに矢印。それから、昨日の夜に足した番号が、それぞれの上に振ってある。一、二、三。
シリルさんは、それを手に取った。
取って、目の高さまで持ち上げた。しばらく見ていた。
「これは」
「あの、寝る前の順番です。城下の人に渡そうと思って」
「字を使わない理由は」
「読める人が、少なかったので」
その人は、紙から目を離さなかった。
「──これは、記録です」
「え」
「あなたは、手順を記録している。字を使わずに」
「そんな、記録っていうほどの」
言ってから、口を閉じた。
その人は気にしていなかった。紙を裏返して、また表に戻して、それから机に置いた。
「ナナセ殿。私が去年作ったものを、覚えていますか」
「歌を線にするやつですか」
「はい。音の高さを縦に、時間を横に取りました」
「はい」
「あれと、これは同じです」
私は、自分の描いた絵を見た。
丸と、線と、矢印。子どもに見せるためのやつだ。
「同じ、ですか」
「同じです。どちらも、覚えていなくても再現できるようにするための工夫です」
その人は、そう言った。
「歌は、覚えている者が死ねば消えます。手順も同じです。誰かが覚えているだけなら、その人がいなくなると消える」
「はい」
「残す形にすれば、消えません」
私は、紙を見ていた。
城下の人に渡すために描いた。それだけのつもりだった。
「あの、これ、何枚か描く予定なんですけど」
「何枚ですか」
「五枚か、六枚か」
「足りません」
即答された。
「え」
「あの広場に来る人だけで足りますか。区画はいくつありますか」
「……知らないです」
「私も知りません。調べる価値はあります」
その人は、蝋板を開いた。
開いて、何か書きはじめた。書きながら喋った。
「ナナセ殿。これは提案ですが」
「はい」
「その絵を、写させてください」
「写す」
「同じものを何枚も作る方法を、塔は持っています。版を彫れば、百枚でも刷れる」
私は、口を開けた。
開けたまま、しばらく声が出なかった。
「百枚」
「はい」
「そんなに」
「多いですか」
「多いです」
「では、五十枚から」
その人は、そう言って書き足した。
私は、机の上の絵を見ていた。
昨日、石段に座って描いたものだった。裏に描いたので、線が透けている。
この人は、これを版にすると言っている。
「あの、シリルさん」
「はい」
「なんで、そんなに」
「記録されないものは、なかったことになります」
その人は、顔を上げずに言った。
「私は、それをずっと見てきました。あなたに関しても」
私は、返事ができなかった。
去年の報告書のことを、言っているのだと思った。
書く欄がない、と団長さんが言った。書けないものは、なかったことになる、と。
部屋の扉が、叩かれた。
シリルさんが顔を上げた。ヴィムさんが入ってきて、そのまま師の耳元へ寄った。
小声だった。何を言ったのかは聞こえない。
シリルさんの手が、蝋板の上で止まった。
「──いつです」
「先ほど届きました」
「距離は」
「南西の、いちばん遠いところです。名は、ロヴィエ」
聞いたことのない名前だった。
シリルさんが立ち上がった。立ち上がって、私を見た。
「ナナセ殿。今日はここまでにします」
「あの、何か」
「早馬です」
その人は、蝋板を閉じた。
「辺境の村から。二度目だそうです」




