第二節
十日に一度、城下へ行くようになった。
きっかけは、去年の終わりだった。広場で、若い母親に寝かしつけの話をした。三つの順番を決めて、毎日同じ時間に横にする。それだけの話だった。
それが、回ったらしい。
最初に気づいたのは、二度目に行ったときだった。預かり場の前を通ったら、知らない人に呼び止められた。
「あの、城の方ですよね」
「はい」
「うちの子のこと、聞いてもいいですか」
その日は、それで終わった。
三度目には、三人待っていた。
四度目の今日は、四人目が来ている。
広場の石段に座って、順番に聞いた。
一人目は、離乳のことだった。上の子はすんなりいったのに、下の子が受けつけない。何をやっても口を開けない。
「食べさせるのを、一回やめてみるのはどうですか」
「やめる?」
「はい。無理に入れると、その時間ごと嫌になるので」
私は、そう答えた。
去年、園でやったことだった。牛乳を飲ませようとして三十分かけて、その子は給食の時間そのものを嫌いになりかけた。
もう二度とやらない。
「じゃあ、痩せてもいいってことですか」
「あの、そうじゃなくて」
私は、少し考えた。
「三日か四日、こっちが構えるのをやめると、向こうが勝手に手を出すことがあります。──絶対じゃないですけど」
その人は、納得しない顔をした。
納得しないまま、礼を言って帰っていった。
二人目は、夜泣きだった。
三人目は、上の子が下の子を叩くという話だった。これは、私も何度も見ている。
「上の子と、二人だけの時間を作れますか」
「二人だけ」
「はい。短くていいです。下の子が寝てるあいだの、ほんの少しで」
「そんな時間、ないですよ」
その人は笑った。
笑い方に、責める感じはなかった。ただ、事実を言っていた。
私は、そこで止まった。
止まってから、言い直した。
「じゃあ、二人だけじゃなくてもいいです」
「え」
「下の子を抱いたままでいいので、上の子の名前を、一日に何回か呼んでください。用がなくても」
「用がなくても」
「はい。何かを言いつけるときじゃなくて、ただ呼ぶだけ」
その人は、少し黙った。
「……それ、意味あるんですか」
「分からないです」
私は、正直に言った。
「でも、園では効きました。効いた子と、効かなかった子がいます」
その人は、それを聞いて、なぜか少し笑った。
「正直な人ですね」
「すみません」
「いえ。──やってみます」
四人目は、私が知っている人だった。
去年の若い母親だった。あのとき、寝かしつけを聞いていった人。
「みおりさん」
名前を呼ばれて、私は少し驚いた。
さん、と呼ばれたのは初めてだった。城では、みおり様か、ミオリか、ナナセ殿だった。
「あの、名前」
「あ、すみません。勝手に」
「いえ、あの、嬉しいです」
言ってから、変な返事だと思った。
その人は、赤ん坊を抱いていた。去年より大きくなっている。首がしっかりしていた。
「寝るようになりました。三つの順番、続けてます」
「よかったです」
「それで、あの」
その人は、少し言いにくそうにした。
「歌、歌ってもらえませんか」
私は、口を閉じた。
「うちの子に、じゃなくて。──ここに来てる人たちに」
「あの」
「みおりさんの歌、効くって聞いて。城の騎士の人が、それで助かったって」
噂は、そこまで回っていた。
私は、少し考えて、それから言った。
「歌えないんです」
「え」
「喉を痛めていて。今、歌が出ないんです」
その人の顔が、変わった。
「あ、すみません。私、知らなくて」
「いえ」
「治るんですか」
「分からないです」
これも、正直に言った。
言ったあとで、少し重い空気になった。私は、それを何とかしたかった。何とかしたいと思うのが、たぶん、私の悪い癖だった。
だから、紙を出した。
いつも持っている。書くものも一緒に。
「あの、代わりというか」
「はい」
「歌がなくても、寝ます」
その人が、私を見た。
「うちの子が寝てるのは、歌のおかげじゃないです。順番を決めたからです。──それは、私がいなくてもできます」
紙に書いた。
三つの順番。時間の決め方。暗くすること。
書きながら、途中で手が止まった。
「あの、これ」
「はい」
「読めますか」
その人は、紙を覗き込んだ。
覗き込んで、少し困った顔をした。
「……名前は読めます。あとは、ちょっと」
私は、紙を裏返した。
裏に、絵を描いた。
顔を拭いている絵。着替えの絵。それから、横になっている絵。三つ並べて、あいだに矢印を引いた。
「これなら」
「あ、分かります」
その人は、笑った。
「これ、うちの人にも見せられます。あの人も読めないので」
私は、少し驚いた。
驚いてから、驚いた自分に気づいた。
読める人のほうが少ないのかもしれない。私は城の中しか知らない。城の中には、読める人しかいなかった。
「あの」
「はい」
「同じの、何枚か描いてもいいですか」
「え」
「他の人にも、いるかと思って」
その人は、頷いた。
「みおりさん、たすかります。ほんとに」
「……いえ」
言ってから、いつもの言い方だと思った。
いえ、そんな。
去年、王妃陛下に言われた。それは断りの言葉です、と。
分かっている。分かっているのに、口から先に出る。
言い直そうとして、言い直せなかった。
その人は気にしていない様子で、赤ん坊を抱え直して、帰っていった。
私は、石段に座ったまま、紙を見ていた。
絵のほうが、伝わった。
字を覚えたのは、去年の一年だった。ティアの隣に座って、同じ板に書いて、間違えて、直された。読めるようになったとき、私は嬉しかった。
嬉しかったのに、今日いちばん役に立ったのは、絵だった。
日が傾いてきた。
預かり場では、当番の人が子どもを集めはじめている。数えているのが見えた。声に出して、一人ずつ。
私は、それを見ていた。
見ていて、少し落ち着かない気持ちになった。
私は、あそこにいない。
外から見て、聞かれたことに答えて、帰る。それだけをしている。
鐘が鳴った。
石段から立ち上がって、服をはたいた。
帰り道で、絵のことを考えた。三つの順番の絵。あれをもう少し分かりやすくするなら、順番に番号をつけたほうがいい。番号なら、字が読めなくても分かる。
考えながら歩いて、門のところで、自分が笑っているのに気づいた。
変な顔をしていたと思う。門番の人が、少し不思議そうにこっちを見た。




