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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
終章「選んだ場所」

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第三節

 初めて、一人で門を通った。


 鑑定書を出した。門番が受け取って、開いて、たぶん読めない字を見て、それから私の顔を見た。


「ナナセ殿」


「はい」


「通ってよろしいです」


 それだけだった。


 紙を返された。私はそれを両手で受け取って、懐にしまった。しまってから、しばらく門の下に立っていた。


「どうかしましたか」


「あ、いえ」


 通った。


 外側の門をくぐると、匂いがした。

 パン。煙。獣。それから、酸っぱいの。去年と同じだった。三度目でも、同じように鼻の奥に残った。


 塔へ寄ったのは、その前の日だった。

 シリルさんは、蝋板を四十二枚のまま持っていた。

 右端の欄が空いた板。二百日ぶん。並べ替えられたあとがついていて、角が少し欠けているのもある。


「増えていませんね」


「増えません。あなたが歌えないので」


「はい」


「ですが、捨ててもいません」


 その人は、板を戻した。


「三年後、星合がまた来ます」


「はい」


「そのとき、あなたが帰ると言えば、私はこれを未完成のまま閉じます」


「はい」


「残ると言えば、続きを取ります」


 その人は、いつもの言い方でそう言った。


「どちらでも構いません。──記録とは、そういうものですので」


「あの」


「はい」


「構わないんですか」


 その人は、少し黙った。

 いつも即答する人が、黙る。この一年で、何度か見た。


「……その問いには、答える立場にありません」


「はい」


「ですが、四十二枚を捨てていないのは、事実です」


 それだけ言って、その人は次の紙を広げた。

 私は塔を出た。階段のところで振り返ったら、その人はまだ空欄の板を見ていた。


 ユーリ様とは、あの夜から三度会った。

 一度目は次の日で、二人とも何も言わなかった。二度目はティアの部屋で、絵を描いていた。三度目は廊下ですれ違って、それだけだった。


 あの夜、円の中に入ってきたあと、その人は私の前で立ち止まって、結局、何も言わずに手を貸してくれた。


 立たせてもらった。


 それだけだった。


 三度目のとき、廊下で呼び止められた。


「ミオリ殿」


 私は、足を止めた。

 ナナセ殿ではなかった。


「はい」


「──失礼。言い間違えました」


「いえ」


「ナナセ殿」


「はい」


 その人は、それから何か言おうとして、やめた。

 やめて、頭を下げて、行った。


 私は、しばらく廊下に立っていた。


 言い間違いではないと思った。


 思ったけれど、追いかけなかった。追いかけて何を言えばいいのか、私にはまだ分からない。

 分からないままでいい気がした。


 三年ある。


 広場へ着いたのは、昼を過ぎたころだった。

 井戸があって、石段があって、人が座っている。去年と同じだった。

 預かり場に、子どもが十六人いた。


 去年より二人多い。大人は二人。片方はあのおばあさんで、もう片方は知らない顔だった。若い。二十歳くらいに見える。


 私は、広場の端に座った。

 座って、見ていた。


 子どもが走っている。井戸の縁で何かしている子が三人。石段のところで寝ている子が一人。おばあさんは座ったまま、時々、名前を呼ぶ。


 若いほうの人が、転んだ子を抱き起こした。

 膝を見て、はたいて、それで終わりだった。子どもは走っていった。


 あの手順を、私は知っている。

 しばらくして、若い人がこっちを見た。

 目が合った。私は会釈をした。その人も会釈を返した。それから、少し迷って、こっちへ来た。


「あの」


「はい」


「城の方ですか」


「あ、はい。城にいる人です」


 去年、子どもに同じ答えをした。


「歌う人ですよね」


「え」


「うちの子が、去年、聞いたって言ってて。城から来た人が歌ったって」


 その人は、そう言った。


「私、そのころ産んだばっかりで、ここに来られなかったんです。それで、聞き損ねて」


「あの、今は」


「今は喉を痛めてて、歌えないんです」


「そうなんですか」


「はい。すみません」


「いえ、そんな」


 その人は手を振った。


「あの、それより、聞いてもいいですか」


「はい」


「子どもの、寝かしつけって、どうやったらいいですか」


 私は、その人を見た。


「うちの子、全然寝なくて。夜中に三回起きるんです。上の子のときはこんなじゃなかったのに」


「三回」


「はい。もう、何やっても駄目で」


 私は、少し考えた。

 考えて、聞いた。


「昼寝は、どのくらいしてますか」


「昼? えっと、二回くらい」


「何時ごろですか」


「決まってないです。抱いてると寝ちゃうので」


「たぶん、それです」


 言ってから、口が勝手に動いていることに気づいた。


「昼の寝る時間を決めると、夜が変わります。決めるっていうのは、その時間に必ず寝かせるんじゃなくて、暗くして、静かにして、寝ても寝なくてもいいから、同じ時間に横にするんです」


「同じ時間に」


「はい。あと、寝る前にやることを決めて、毎日同じ順番でやります。三つくらいでいいので」


「三つ」


「顔を拭いて、着替えて、それから何か一つ。この順番を毎日やると、体が覚えます」


 その人は、私の顔を見ていた。

 見て、それから、慌てて言った。


「あの、待ってください。覚えられないので」


「あ」


「もう一回、いいですか」


 私は、もう一回言った。


 二回目は、少しゆっくり言った。その人は指を折りながら聞いていた。三つのところで、指を三本立てた。


 どこかで見た形だった。


 その人は、礼を言って、預かり場へ戻っていった。

 戻って、おばあさんに何か言った。おばあさんがこっちを見て、手を上げた。私も上げた。


 私は、広場の端に座り直した。


 子どもが十六人いて、大人が二人いる。


 この区画には、預かり場が一つ。城下には区画がいくつあるのか、私は知らない。数えたことがない。

 どこの区画にも、こういう場所があるのだと思う。


 当番は毎日替わって、手の空いた人がやる。誰も専門ではない。誰も習っていない。習っていないから、あの人は寝かしつけを知らなかった。


 教えられる。

 そう思った。


 思ってから、少し驚いた。


 私が知っていることは、たぶん、この国では誰も体系にしていない。歌も、順番も、待ち方も、しゃがんで目の高さを合わせることも。


 全部、私は習った。三年かけて、他の人から。

 習ったものは、渡せる。


 いつか、と思った。


 いつか、というのがいつなのかは分からない。今日ではない。明日でもない。私はまだ喉が治っていないし、ティアの世話があるし、明後日は爪を切りに行く。


 でも、いつか。


 日が傾いてきた。

 石畳が橙になって、影が長くなる。子どもの声が少し減って、大人が一人、二人と広場に増えていく。


 迎えだった。


 誰も走っていない。


 鐘が鳴った。


 長く、二回。


 広場の全部が、いっせいに緩んだ。荷物を置く人がいた。座る人がいた。誰かが誰かに、また明日、と言った。


 私も、立ち上がった。

 立ち上がって、服についた土をはたいた。


 城まで、歩いて四半刻ある。今から歩いて、門を通って、中庭を横切って、ティアの部屋へ寄る。寄って、水をやったかどうか確かめる。たぶん、もうやっている。


 それから、自分の部屋に戻る。

 戻ったら、何もない。

 紙は切らない。記録も書かない。明日の準備は、明日やる。


 何もしない時間が、今夜も三刻ほどある。

 その三刻の使い方を、私はまだ知らない。

 知らないまま、一年やってきた。

 たぶん、これからも知らないままだと思う。知らないまま、毎晩それが来る。


 私は、広場を出た。

 出るときに、一度だけ振り返った。

 子どもがまだ二人残っていた。おばあさんが座っている。若い人が、その隣で膝を抱えている。


 誰も、急いでいなかった。

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