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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第9章「星合の夜」

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第五節

 陣の中に、保育室が映っていた。

 午睡の子どもたちが寝ていて、大野先生が歌っていて、園庭の向こうでお母さんが走っていた。


 私は、その上に立っていた。


 誰も、何も言わなかった。


 二十人以上いる部屋で、誰一人、何も言わなかった。唱和も止まっていた。灰色の衣の人たちは、円の外で膝をついたまま、こちらを見ないようにしていた。


 シリルさんだけが、こちらを見ていた。

 いつでも、どうぞ、と言った人だった。


 私は、足元を見た。

 一歩踏み出せば、たぶん、着く。


 着いたら、あの部屋にいる。エプロンをつけて、連絡帳を書いて、五月の壁面を作る。うろこが二十一枚。切りかけのままだ。


 帰りたくないのか、と自分に聞いた。


 帰りたくない、というのとは違った。


 あの部屋は、好きだった。今も好きだ。子どもと過ごす時間を、私は嫌いになったことが一度もない。


 嫌いだったのは、そこではなかった。


 白い光の職員室。二十一時の廊下。誰も帰れとは言わない。言われたことがない。走ってくるお母さんに、大丈夫ですよ、と言い続ける。私は毎回そう言った。実際、大丈夫だった。大丈夫だから、何も変わらなかった。


 あの部屋に戻れば、私はまた大丈夫と言う。


 言って、そのうち、自分が何時間働いたのか数えなくなる。数えなくなったら、それが普通になる。

 私は、一度そうなった。


 ここへ来て、同じことをもう一度やった。北へ行って、南へ行って、塔へ行って、倒れた。誰かが止めるまで、自分では止まらなかった。


 止められた。


 この一年で、私は何度も止められた。


 日が落ちたら終わりです、と言われた。油は減っておりませんでした、と言われた。働きすぎでしょ、と言われた。休んでください、と言われた。あなたは既にこの国でいちばん重い仕事をしています、と言われた。


 向こうでは、一度も言われなかった。

 言う人がいなかったのではない。

 言う仕組みが、なかった。


 私は、顔を上げた。


「あの」


 声が出た。


 思ったより、はっきり出た。


「私、残ります」


 誰も、動かなかった。

 部屋の空気が、変わった。変わったのが分かった。分かったのに、誰も声を出さなかった。


「ナナセ殿」


 シリルさんが言った。


「確認します。陣は開いています。閉じれば、次は三年後です」


「はい」


「今の言葉は、正式な回答として扱ってよろしいですか」


「はい」


「理由を伺っても」


 私は、少し考えた。

 考えて、順番に言うことにした。


「一つ目は、こっちのほうが、ちゃんと休めるからです」


 誰かが、息を吸った。


「あの、変な理由だと思うんですけど。でも、そうです」


「続けてください」


「向こうだと、私、たぶん、また同じことをします。同じことをして、同じように倒れます。──ここだと、誰かが止めてくれるので」


 言いながら、自分でも情けない理由だと思った。

 思ったけれど、本当だった。


「二つ目は」


 私は、扉のほうを見た。


 ティアはいない。もう寝ている。あの子は今夜、私が帰ると思って寝たのか、帰らないと思って寝たのか、分からない。


 でも、明日、草に水をやると言っていた。


「二つ目は、明日の予定があるからです」


「予定」


「草に、水をやる約束をしました。ティア様と」


 誰かが、笑った。


 笑ったのはエルナさんだった。笑って、それから、すぐに口を押さえた。


「あと、繕いかけの袖があって。ベルさんが今週から歩く練習をするので、それも見たくて。ロレンツさんの畑は、そろそろ種を蒔く時期で、手伝うって言っちゃってて」


 言いながら、数えていた。

 指を折っていた。


「セシリアさんのところに、五日に一度行ってて、次が明後日で」


「ナナセ殿」


「あと、あの、詰所の飴が、まだ作りかけで」


「ナナセ殿」


 シリルさんが、二度呼んだ。


「十分です」


「はい」


「予定がある人は、帰れませんね」


 その人は、そう言った。

 笑ったのかどうかは、分からなかった。


 言って、図面を閉じた。


「陣を閉じます。──よろしいですね」


「はい」


 唱和が、また始まった。


 さっきと違う音だった。低くて、短い。灰色の衣の人たちが同時に唱えて、床の線の光が、外側から内側へ引いていく。


 膜が、薄くなった。


 保育室が、少しずつ遠くなる。布団が、子どもが、オルガンが。


 最後に見えたのは、りっちゃんの上げた両手だった。


 それも、消えた。


 床が、ただの石に戻った。


 喉が、熱くなった。


 急にだった。さっきの熱さとは違う。もっと強くて、内側から押されるような熱さだった。


 膝が折れた。


 誰かが支えてくれた。誰かは分からない。私は自分の喉を押さえていた。押さえた手のひらの下が、熱い。焼けるのではなく、何かが通っている感じだった。


「ナナセ殿!」


「喉です」


「見せてください」


 誰かが襟を開いた。


 部屋が、ざわついた。


 私は、自分では見えなかった。見えないので、周りの顔を見た。


 シリルさんが、動きを止めていた。


 ニクラスさんが、口に手を当てていた。


 大神官様が、壁際から一歩出ていた。


「──出ている」


 誰かが言った。


「印が」


 私は、手を離した。


 離して、指でなぞった。


 線があった。


 鎖骨の内側から、喉の下まで。細い線が二本、絡むように伸びて、途中で枝分かれしている。


 覚えている形だった。


 一年前の朝、姿見の前で三度見た、あの形だった。


「濃い」


 シリルさんが言った。


「以前より、濃い。──ニクラス、記録を」


「はい」


「いえ、私が書きます。板を」


 その人が、こんなに慌てるのを、私は初めて見た。


 私は、床に座り込んだまま、自分の喉を押さえていた。


 熱かった。痛くはなかった。


 息を吸った。


 吸って、少し声を出してみた。


 掠れた。


 二月前と、同じだった。


 印は戻った。声は戻らなかった。


 だから、歌えるかどうかは、まだ分からない。


「ナナセ殿。声は」


「……まだ、出ません」


「そうですか」


 その人は、板に何か書いた。


 書きながら、言った。


「では、記録は続きます」


 私は、その言葉を聞いた。


 聞いて、少し息が楽になった。


 部屋の中で、誰かが泣いていた。


 顔を上げると、エルナさんだった。団長さんに袖を掴まれて、それでも前に出ようとしていた。


 団長さんは、こちらを見ていた。


 見ていて、それから、目を閉じた。閉じて、しばらくそのままでいた。


 その顔を、私はよく知っている。


 三年ぶりに眠って、朝が来たときの顔だった。


 ユーリ様は、円の正面に立っていた。


 立ったまま、動いていなかった。


 私は、その人を見た。


 目が合った。


 その人は、口を開けた。開けて、閉じた。それから、もう一度開けた。


「──帰って、いただきたかった」


 声が、震えていた。


「はい」


「それが正しいと、思っていました」


「はい」


「今も、思っています」


 その人は、そこで言葉を切った。


 切って、片手で顔を覆った。


 覆ったまま、しばらく動かなかった。肩が、上下していた。


「……よかった」


 言った。


 小さい声だった。


「よかった」


 二回目のほうが、崩れていた。


 私は、床に座ったまま、それを見ていた。


 この人が泣くのを、私は初めて見た。


 立ち上がろうとして、うまくいかなかった。膝に力が入らない。誰かがまた支えてくれた。支えられながら、私はその人のほうへ手を伸ばした。


 届かなかった。


 距離があった。


 伸ばしたまま、私は自分の手を見ていた。


 その人が、顔から手を離した。


 離して、私の手を見て、それから、円の中へ入ってきた。


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