第五節
陣の中に、保育室が映っていた。
午睡の子どもたちが寝ていて、大野先生が歌っていて、園庭の向こうでお母さんが走っていた。
私は、その上に立っていた。
誰も、何も言わなかった。
二十人以上いる部屋で、誰一人、何も言わなかった。唱和も止まっていた。灰色の衣の人たちは、円の外で膝をついたまま、こちらを見ないようにしていた。
シリルさんだけが、こちらを見ていた。
いつでも、どうぞ、と言った人だった。
私は、足元を見た。
一歩踏み出せば、たぶん、着く。
着いたら、あの部屋にいる。エプロンをつけて、連絡帳を書いて、五月の壁面を作る。うろこが二十一枚。切りかけのままだ。
帰りたくないのか、と自分に聞いた。
帰りたくない、というのとは違った。
あの部屋は、好きだった。今も好きだ。子どもと過ごす時間を、私は嫌いになったことが一度もない。
嫌いだったのは、そこではなかった。
白い光の職員室。二十一時の廊下。誰も帰れとは言わない。言われたことがない。走ってくるお母さんに、大丈夫ですよ、と言い続ける。私は毎回そう言った。実際、大丈夫だった。大丈夫だから、何も変わらなかった。
あの部屋に戻れば、私はまた大丈夫と言う。
言って、そのうち、自分が何時間働いたのか数えなくなる。数えなくなったら、それが普通になる。
私は、一度そうなった。
ここへ来て、同じことをもう一度やった。北へ行って、南へ行って、塔へ行って、倒れた。誰かが止めるまで、自分では止まらなかった。
止められた。
この一年で、私は何度も止められた。
日が落ちたら終わりです、と言われた。油は減っておりませんでした、と言われた。働きすぎでしょ、と言われた。休んでください、と言われた。あなたは既にこの国でいちばん重い仕事をしています、と言われた。
向こうでは、一度も言われなかった。
言う人がいなかったのではない。
言う仕組みが、なかった。
私は、顔を上げた。
「あの」
声が出た。
思ったより、はっきり出た。
「私、残ります」
誰も、動かなかった。
部屋の空気が、変わった。変わったのが分かった。分かったのに、誰も声を出さなかった。
「ナナセ殿」
シリルさんが言った。
「確認します。陣は開いています。閉じれば、次は三年後です」
「はい」
「今の言葉は、正式な回答として扱ってよろしいですか」
「はい」
「理由を伺っても」
私は、少し考えた。
考えて、順番に言うことにした。
「一つ目は、こっちのほうが、ちゃんと休めるからです」
誰かが、息を吸った。
「あの、変な理由だと思うんですけど。でも、そうです」
「続けてください」
「向こうだと、私、たぶん、また同じことをします。同じことをして、同じように倒れます。──ここだと、誰かが止めてくれるので」
言いながら、自分でも情けない理由だと思った。
思ったけれど、本当だった。
「二つ目は」
私は、扉のほうを見た。
ティアはいない。もう寝ている。あの子は今夜、私が帰ると思って寝たのか、帰らないと思って寝たのか、分からない。
でも、明日、草に水をやると言っていた。
「二つ目は、明日の予定があるからです」
「予定」
「草に、水をやる約束をしました。ティア様と」
誰かが、笑った。
笑ったのはエルナさんだった。笑って、それから、すぐに口を押さえた。
「あと、繕いかけの袖があって。ベルさんが今週から歩く練習をするので、それも見たくて。ロレンツさんの畑は、そろそろ種を蒔く時期で、手伝うって言っちゃってて」
言いながら、数えていた。
指を折っていた。
「セシリアさんのところに、五日に一度行ってて、次が明後日で」
「ナナセ殿」
「あと、あの、詰所の飴が、まだ作りかけで」
「ナナセ殿」
シリルさんが、二度呼んだ。
「十分です」
「はい」
「予定がある人は、帰れませんね」
その人は、そう言った。
笑ったのかどうかは、分からなかった。
言って、図面を閉じた。
「陣を閉じます。──よろしいですね」
「はい」
唱和が、また始まった。
さっきと違う音だった。低くて、短い。灰色の衣の人たちが同時に唱えて、床の線の光が、外側から内側へ引いていく。
膜が、薄くなった。
保育室が、少しずつ遠くなる。布団が、子どもが、オルガンが。
最後に見えたのは、りっちゃんの上げた両手だった。
それも、消えた。
床が、ただの石に戻った。
喉が、熱くなった。
急にだった。さっきの熱さとは違う。もっと強くて、内側から押されるような熱さだった。
膝が折れた。
誰かが支えてくれた。誰かは分からない。私は自分の喉を押さえていた。押さえた手のひらの下が、熱い。焼けるのではなく、何かが通っている感じだった。
「ナナセ殿!」
「喉です」
「見せてください」
誰かが襟を開いた。
部屋が、ざわついた。
私は、自分では見えなかった。見えないので、周りの顔を見た。
シリルさんが、動きを止めていた。
ニクラスさんが、口に手を当てていた。
大神官様が、壁際から一歩出ていた。
「──出ている」
誰かが言った。
「印が」
私は、手を離した。
離して、指でなぞった。
線があった。
鎖骨の内側から、喉の下まで。細い線が二本、絡むように伸びて、途中で枝分かれしている。
覚えている形だった。
一年前の朝、姿見の前で三度見た、あの形だった。
「濃い」
シリルさんが言った。
「以前より、濃い。──ニクラス、記録を」
「はい」
「いえ、私が書きます。板を」
その人が、こんなに慌てるのを、私は初めて見た。
私は、床に座り込んだまま、自分の喉を押さえていた。
熱かった。痛くはなかった。
息を吸った。
吸って、少し声を出してみた。
掠れた。
二月前と、同じだった。
印は戻った。声は戻らなかった。
だから、歌えるかどうかは、まだ分からない。
「ナナセ殿。声は」
「……まだ、出ません」
「そうですか」
その人は、板に何か書いた。
書きながら、言った。
「では、記録は続きます」
私は、その言葉を聞いた。
聞いて、少し息が楽になった。
部屋の中で、誰かが泣いていた。
顔を上げると、エルナさんだった。団長さんに袖を掴まれて、それでも前に出ようとしていた。
団長さんは、こちらを見ていた。
見ていて、それから、目を閉じた。閉じて、しばらくそのままでいた。
その顔を、私はよく知っている。
三年ぶりに眠って、朝が来たときの顔だった。
ユーリ様は、円の正面に立っていた。
立ったまま、動いていなかった。
私は、その人を見た。
目が合った。
その人は、口を開けた。開けて、閉じた。それから、もう一度開けた。
「──帰って、いただきたかった」
声が、震えていた。
「はい」
「それが正しいと、思っていました」
「はい」
「今も、思っています」
その人は、そこで言葉を切った。
切って、片手で顔を覆った。
覆ったまま、しばらく動かなかった。肩が、上下していた。
「……よかった」
言った。
小さい声だった。
「よかった」
二回目のほうが、崩れていた。
私は、床に座ったまま、それを見ていた。
この人が泣くのを、私は初めて見た。
立ち上がろうとして、うまくいかなかった。膝に力が入らない。誰かがまた支えてくれた。支えられながら、私はその人のほうへ手を伸ばした。
届かなかった。
距離があった。
伸ばしたまま、私は自分の手を見ていた。
その人が、顔から手を離した。
離して、私の手を見て、それから、円の中へ入ってきた。




