第四節
星合の夜は、朝から曇っていた。
シリルさんが何度も空を見た。見るたびに顔が険しくなった。
「雲は、関係ありますか」
「あります。月が見えないと、重なりが確認できません」
「見えないと」
「起こせません。──ただ、重なりそのものは起きます。見えるかどうかの問題です」
昼を過ぎて、風が出た。
風が出て、雲が動いた。夕方には、西のほうが明るくなっていた。
準備は、半日かかった。
私は儀式の間にいた。することはなかった。線を引き直す人、灯りを配る人、何かを唱えて確かめる人。全部で二十人以上いた。
神殿から来た人が半分だった。灰色の衣。その中に、ニクラスさんがいた。
大神官様も来ていた。何も言わずに壁際に立って、作業を見ていた。
夕方に、ティアが来た。
イルゼさんに連れられて、扉のところまで。中には入らなかった。決まりだと言われたらしい。
私は、扉のところまで行った。
膝をついて、目の高さを合わせた。
「ティア様」
「みおり」
「うん」
その子は、手に何か持っていた。
板だった。手習いの、蝋を張ったやつ。
差し出された。
書いてあった。
「みおり」
それだけだった。私の名前が、一つ。字が大きすぎて、板いっぱいに書いてある。「り」が少し逆を向いていた。
「読める?」
「読める」
「わたしが、かいた」
「うん。上手」
「もっとかけるけど、はいらなかった」
「うん」
私は、その板を受け取った。
受け取って、両手で持った。
「ティア様」
「なに」
「あのね」
言おうとして、言葉が出てこなかった。
この子には嘘が通じない。分からない、とも言いたくなかった。前に一度、それで泣かせている。
「──ありがとう」
それだけ言った。
ティアは、しばらく私を見ていた。
見て、それから、イルゼさんの手を掴んだ。
「かえる」
「殿下」
「ねる。もうねるじかん」
まだ日が落ちていなかった。
イルゼさんは何も言わずに、その子の手を握り直した。
行きかけて、ティアが振り返った。
「みおり」
「はい」
「くさ、みずやる。あしたも」
「うん」
「あさっても」
「うん」
「わたしが、やるから」
それだけ言って、その子は行ってしまった。
私は、板を持ったまま、しばらく扉のところにいた。
日が落ちた。
鐘が鳴った。長く二回。
この鐘を、私は一年聞いてきた。最初は意味が分からなくて、今は、聞くと体が終わりの形になる。
鐘が鳴りやんで、しばらくして、シリルさんが言った。
「見えます」
私は、空を見上げた。
儀式の間は、天井の梁のあいだが開いている。そこから、細長い空が見えた。
月が二つ。
重なりかけていた。大きいほうの縁に、小さいほうが半分かかっている。ゆっくり動いていた。動いているのが分かるくらいの速さだった。
「あと四半刻ほどです」
「はい」
「ナナセ殿。円の中へ」
私は、円の中へ入った。
一年前と同じ場所だった。あの朝、私はここで膝をついていた。
今日は、立っていた。
外に、人が並んでいた。
シリルさんが図面を持って、いちばん近くにいる。ニクラスさんが向かい側。大神官様が壁際。それから、団長さんとエルナさんが、扉のそばに立っていた。
ユーリ様は、円の正面にいた。
誰も、何も言わなかった。
唱和がはじまった。
灰色の衣の人たちが、同時に何かを唱えていた。意味は結ばない。詠唱だった。低い音が重なって、部屋の中で膨らんでいく。
床の線が、光った。
白かった。塗られた線そのものが光っている。内側の円から外側の輪へ、順番に。
風がないのに、髪が動いた。
喉のところが、熱くなった。
私は、手を当てた。
当てて、驚いた。ここ数か月、一度も熱くならなかった場所だった。
円の中の空気が、揺れた。
水面みたいだった。床の上に、薄い膜が張ったみたいに見えて、その膜の向こうに、何かが映りはじめた。
最初は、色だった。
白と、薄い黄色。それから、四角い形。
窓だ、と分かった。
保育室の窓だった。
私は、動けなかった。
床の上に、あの部屋があった。上から見下ろす角度で、全部が見えた。
カーテンが引いてある。午睡の時間だった。布団が並んでいる。数えた。二十一。
子どもが寝ている。
顔は見えなかった。上からなので、頭しか見えない。それでも、寝相で誰か分かる子が何人かいた。いつも斜めになる子。壁にくっつく子。
りっちゃんは、いちばん端だった。
仰向けで、両手を上げて寝ている。あの子は昔からそうだった。
オルガンの前に、人が座っていた。
大野先生だった。
その人が、弾きはじめた。
音は、聞こえなかった。膜の向こうは、音を運ばない。それでも、指の動きが見えた。
右手が、同じところで少し跳ねた。
あのペダル。右のが軋むので、そこだけ強く踏む癖がつく。私も同じことをしていた。
口が動いていた。
歌っていた。
何を歌っているのかは、聞こえない。聞こえないのに、口の形で分かった。
つみきさん、おやすみ。
私は、膝から力が抜けそうになった。
あの人が、歌っていた。
「七瀬さん、それ何の歌?」と聞いて、「作りました」と答えたら、へえ、と言った人が。
覚えていた。覚えて、使っていた。
子どもが、寝ていた。
像が、少し動いた。
角度が変わって、廊下が見えた。それから、園庭。園庭の向こうに門がある。
門のところに、人がいた。
女の人だった。走っていた。
パンプスで走って、門の手前で止まって、髪を直して、それから普通の速さで入ってくる。
りっちゃんのお母さんだった。
時間が、たぶん、夕方に飛んだのだと思う。像は続いていなかった。切れて、別のところが映る。
その人は、走っていた。
一年前と、同じ走り方をしていた。
私は、それを見ていた。
見ながら、自分の体が冷たくなっていくのが分かった。
変わっていなかった。
一年経ったのかどうかも分からない。十年かもしれない。それでも、あの人は走っていた。
像が、また切れた。
次に映ったのは、職員室だった。
白い光。少しちらつく。机が並んでいて、その上に書類が積んである。
誰かが座っていた。誰かは分からない。背中しか見えない。
その隣の机が、空いていた。
書類が置いてある。積んである。誰も座っていない机の上に、仕事だけが置かれている。
私の机だった。
配置で分かった。窓から二番目。あの位置に、私は三年座っていた。
誰も座っていない。
でも、部屋は明るかった。
午睡の子どもたちは寝ていて、歌は歌われていて、りっちゃんは口を開けて寝ていた。
私がいなくても、あの部屋は回っていた。
回っている。
私は、それを見ていた。
悲しくはなかった。
悲しくないことに、驚いていた。
むしろ、と思った。
よかった、と思った。
あの子たちは寝ている。歌が届いている。誰かが弾いている。私がいなくても、あの部屋には歌があって、子どもが寝ている。
それでいい。
そう思った。
思ったところで、像を写している膜が少し波打った。
「ナナセ殿」
シリルさんの声がした。
「重なりました」
私は、空を見た。
月が、一つになっていた。
「開いています。──いつでも、どうぞ」




