第三節
十五日のうち、三日が過ぎた。
誰にも言っていなかった。言わなくても、たぶん、城の半分は知っていた。
四日目に、塔から使いが来た。
シリルさんは、部屋にいた。机に紙が広げてある。今度は図面だった。円が二重に描いてある。
「陣の図です」
私が見ているのに気づいて、その人が言った。
「外側の輪の配置を、三度直しました。前回の記録が残っていなかったので、逆算しています」
「大丈夫なんですか」
「大丈夫です。──ただし、私が確かめられるのは当日だけです。試しに一度動かす、ということができない」
「はい」
その人は、図面を巻いた。
「ナナセ殿。用件を申し上げます」
「はい」
「あなたが帰る場合、当日の朝から立ち会っていただきます。準備に半日かかりますので」
「はい」
「残る場合は、その旨を十四日目までに。陣は起こしません」
「はい」
それだけだった。
その人は蝋板を取って、何か書いた。書いてから、こちらを見た。
「以上です」
「あの」
「はい」
「シリルさんは、どっちがいいですか」
聞いてしまってから、失礼だったと思った。
その人は、筆を置いた。
「答える立場にありません」
「はい」
「私はあなたを測ってきました。測る側が対象の選択に影響を与えると、そのあとの記録が使えなくなります」
「はい」
「ですので、私は何も言いません」
私は、頷いた。
頷いて、立ち上がった。
立ち上がったところで、その人が言った。
「──ナナセ殿」
「はい」
「一つだけ、記録に関係のないことを申し上げても」
「はい」
その人は、少し黙った。
いつも即答する人が、黙った。
「あなたが帰った場合、私の観測記録は、四十二枚の未完成な束として残ります」
「未完成」
「初回から、右の端に欄を一つ空けてあります」
その人は、机の蝋板を一枚引き寄せて、こちらへ向けた。
線が引いてある。縦に区切られていて、いちばん右の枠だけ、何も書かれていなかった。
「四十二枚、全部です」
「あの、これ、何の欄ですか」
「意味です」
その人は言った。
「あなたが何を歌っているのか。歌詞が何を言っているのか。──それが分かれば、形と合わせて、他の者に渡せます」
「はい」
「一度も埋まりませんでした」
私は、その空欄を見ていた。
四十二枚。二百日ぶん。
「それは──」
言葉が、そこで止まった。
止まって、その人は眼鏡の位置を直した。直す必要のない位置だった。
「いえ。これも記録の話でした。失礼」
「シリルさん」
「以上です」
その人は、蝋板を開いた。
開いて、何も書かなかった。
七日目に、詰所へ行った。
団長さんは机にいた。書きものをしていた。前と違って、丸めた紙が転がっていない。
「ナナセ殿」
「はい」
「聞いている」
「はい」
「十五日のうち、七日だな」
「はい」
その人は、筆を置いた。
置いて、机の上で手を組んだ。
「一つ、言っておく」
「はい」
「私は、あなたを引き止めん」
私は、その人を見た。
「理由を言う。──引き止めれば、あなたは残るからだ」
前にも聞いた言い方だった。
北へ来いとは言えん、と言われたときと同じだった。
「あなたは、頼まれれば断らん。それを私は知っている。知っていて頼むのは、卑怯だ」
「はい」
「だから言わん。……言わんが」
その人は、そこで手を解いた。
解いて、机の縁を掴んだ。前にも見た。妹さんの話をしたときと同じ形だった。
「言わんことが、正しいのかどうかは、分からん」
「え」
「三年、私は正しいことをしてきたつもりだった。修繕を待った。順番を守った。それで妹が」
「団長さん」
「──済まん。今のは違う」
その人は、手を離した。
「引き止めんと言った以上、引き止めん。それだけだ」
「はい」
「ただ」
目が、こちらを向いた。
「あなたが帰ったあと、私はまた眠らんようになる。それは分かっている」
私は、返事ができなかった。
「あなたのせいではない。私がそういう人間だというだけだ。──これは、引き止めているのではない」
「はい」
「引き止めているように聞こえたなら、忘れてくれ」
忘れられるはずがなかった。
この人は、それを分かっていて言ったのだと思う。
分かっていて、それでも言わずにいられなかったのだと思う。
九日目に、王女の部屋にユーリ様が来た。
珍しくなかった。冬のあいだ、この人はよく来るようになっていた。ティアと二人で床に座って、下手な絵を描いている。
その日は、ティアが昼寝をしていた。
部屋の隅で、私は繕い物をしていた。ティアの服の袖が、また裂けていた。
「ナナセ殿」
「はい」
「隣、よろしいですか」
私は頷いた。
その人は、床に座った。王子が床に座るのを、私はもう何度か見ている。
しばらく、二人とも黙っていた。
私は縫っていた。その人は、寝ているティアを見ていた。
「私は、帰っていただきたいと申し上げました」
「はい」
「三度、申し上げました。秋に一度、先日に一度、それから今」
「はい」
「四度目は、申し上げません」
私は、手を止めた。
「なぜですか」
「三度言えば、十分だからです」
その人は、膝を抱えた。
十九か、二十か。城の中でいちばん重いものを持っている人が、膝を抱えて床に座っていた。
「ナナセ殿。私は、あなたに帰っていただきたい。それは今も本当です」
「はい」
「あなたをここへ引いたのは私で、五人が代償を払ったのも私のせいで、あなたが一年削られたのも──」
「ユーリ様」
「はい」
「それ、もう聞きました」
その人が、少し笑った。
初めて見る笑い方だった。困ったときの顔ではなく、笑っていた。
「そうですね」
「はい」
「では、別のことを言います」
その人は、膝を抱えたまま、こちらを見た。
「私は、あなたに帰っていただきたい」
「はい」
「──と、思いたいのです」
私は、針を持ったまま、その人を見た。
「思いたい、というのは」
「言葉の通りです」
その人は、目を逸らさなかった。
この人が私を正面から見るのは、たぶん、二度目か三度目だった。
「私は、自分がそう思っていることにしています。そのほうが筋が通る。呼んだ者が、帰す。それがいちばん正しい形です」
「はい」
「正しい形を選べば、私は自分を許せる」
その人は、そこで一度、息を吸った。
「──だから、私は、正しいほうを選んでいるだけかもしれない」
部屋が、静かだった。
ティアの寝息だけがしていた。
「本当は、何ですか」
私は、聞いた。
聞いてしまってから、聞くべきではなかったと思った。
その人は、答えなかった。
答えずに、膝を抱えたまま、ティアのほうを見た。長く見ていた。
「──妹が、起きます」
言われて、私は寝台を見た。
ティアが寝返りを打っていた。まだ寝ている。
起きていなかった。
「起きてないですよ」
「はい」
「あの」
「──失礼します」
その人は立ち上がった。
立ち上がって、扉のほうへ歩いて、取っ手に手をかけて、そこで止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
私は、待った。
その人は、振り返らずに部屋を出ていった。
私は、繕いかけの袖を持ったままだった。
針が、途中で止まっている。
どこまで縫ったのか、分からなくなっていた。




