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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第9章「星合の夜」

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第三節

 十五日のうち、三日が過ぎた。


 誰にも言っていなかった。言わなくても、たぶん、城の半分は知っていた。


 四日目に、塔から使いが来た。

 シリルさんは、部屋にいた。机に紙が広げてある。今度は図面だった。円が二重に描いてある。


「陣の図です」


 私が見ているのに気づいて、その人が言った。


「外側の輪の配置を、三度直しました。前回の記録が残っていなかったので、逆算しています」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫です。──ただし、私が確かめられるのは当日だけです。試しに一度動かす、ということができない」


「はい」


 その人は、図面を巻いた。


「ナナセ殿。用件を申し上げます」


「はい」


「あなたが帰る場合、当日の朝から立ち会っていただきます。準備に半日かかりますので」


「はい」


「残る場合は、その旨を十四日目までに。陣は起こしません」


「はい」


 それだけだった。

 その人は蝋板を取って、何か書いた。書いてから、こちらを見た。


「以上です」


「あの」


「はい」


「シリルさんは、どっちがいいですか」


 聞いてしまってから、失礼だったと思った。

 その人は、筆を置いた。


「答える立場にありません」


「はい」


「私はあなたを測ってきました。測る側が対象の選択に影響を与えると、そのあとの記録が使えなくなります」


「はい」


「ですので、私は何も言いません」


 私は、頷いた。

 頷いて、立ち上がった。

 立ち上がったところで、その人が言った。


「──ナナセ殿」


「はい」


「一つだけ、記録に関係のないことを申し上げても」


「はい」


 その人は、少し黙った。

 いつも即答する人が、黙った。


「あなたが帰った場合、私の観測記録は、四十二枚の未完成な束として残ります」


「未完成」


「初回から、右の端に欄を一つ空けてあります」


 その人は、机の蝋板を一枚引き寄せて、こちらへ向けた。

 線が引いてある。縦に区切られていて、いちばん右の枠だけ、何も書かれていなかった。


「四十二枚、全部です」


「あの、これ、何の欄ですか」


「意味です」


 その人は言った。


「あなたが何を歌っているのか。歌詞が何を言っているのか。──それが分かれば、形と合わせて、他の者に渡せます」


「はい」


「一度も埋まりませんでした」


 私は、その空欄を見ていた。


 四十二枚。二百日ぶん。


「それは──」


 言葉が、そこで止まった。

 止まって、その人は眼鏡の位置を直した。直す必要のない位置だった。


「いえ。これも記録の話でした。失礼」


「シリルさん」


「以上です」


 その人は、蝋板を開いた。

 開いて、何も書かなかった。


 七日目に、詰所へ行った。


 団長さんは机にいた。書きものをしていた。前と違って、丸めた紙が転がっていない。


「ナナセ殿」


「はい」


「聞いている」


「はい」


「十五日のうち、七日だな」


「はい」


 その人は、筆を置いた。

 置いて、机の上で手を組んだ。


「一つ、言っておく」


「はい」


「私は、あなたを引き止めん」


 私は、その人を見た。


「理由を言う。──引き止めれば、あなたは残るからだ」


 前にも聞いた言い方だった。

 北へ来いとは言えん、と言われたときと同じだった。


「あなたは、頼まれれば断らん。それを私は知っている。知っていて頼むのは、卑怯だ」


「はい」


「だから言わん。……言わんが」


 その人は、そこで手を解いた。

 解いて、机の縁を掴んだ。前にも見た。妹さんの話をしたときと同じ形だった。


「言わんことが、正しいのかどうかは、分からん」


「え」


「三年、私は正しいことをしてきたつもりだった。修繕を待った。順番を守った。それで妹が」


「団長さん」


「──済まん。今のは違う」


 その人は、手を離した。


「引き止めんと言った以上、引き止めん。それだけだ」


「はい」


「ただ」


 目が、こちらを向いた。


「あなたが帰ったあと、私はまた眠らんようになる。それは分かっている」


 私は、返事ができなかった。


「あなたのせいではない。私がそういう人間だというだけだ。──これは、引き止めているのではない」


「はい」


「引き止めているように聞こえたなら、忘れてくれ」


 忘れられるはずがなかった。

 この人は、それを分かっていて言ったのだと思う。

 分かっていて、それでも言わずにいられなかったのだと思う。


 九日目に、王女の部屋にユーリ様が来た。


 珍しくなかった。冬のあいだ、この人はよく来るようになっていた。ティアと二人で床に座って、下手な絵を描いている。


 その日は、ティアが昼寝をしていた。


 部屋の隅で、私は繕い物をしていた。ティアの服の袖が、また裂けていた。


「ナナセ殿」


「はい」


「隣、よろしいですか」


 私は頷いた。

 その人は、床に座った。王子が床に座るのを、私はもう何度か見ている。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 私は縫っていた。その人は、寝ているティアを見ていた。


「私は、帰っていただきたいと申し上げました」


「はい」


「三度、申し上げました。秋に一度、先日に一度、それから今」


「はい」


「四度目は、申し上げません」


 私は、手を止めた。


「なぜですか」


「三度言えば、十分だからです」


 その人は、膝を抱えた。

 十九か、二十か。城の中でいちばん重いものを持っている人が、膝を抱えて床に座っていた。


「ナナセ殿。私は、あなたに帰っていただきたい。それは今も本当です」


「はい」


「あなたをここへ引いたのは私で、五人が代償を払ったのも私のせいで、あなたが一年削られたのも──」


「ユーリ様」


「はい」


「それ、もう聞きました」


 その人が、少し笑った。

 初めて見る笑い方だった。困ったときの顔ではなく、笑っていた。


「そうですね」


「はい」


「では、別のことを言います」


 その人は、膝を抱えたまま、こちらを見た。


「私は、あなたに帰っていただきたい」


「はい」


「──と、思いたいのです」


 私は、針を持ったまま、その人を見た。


「思いたい、というのは」


「言葉の通りです」


 その人は、目を逸らさなかった。

 この人が私を正面から見るのは、たぶん、二度目か三度目だった。


「私は、自分がそう思っていることにしています。そのほうが筋が通る。呼んだ者が、帰す。それがいちばん正しい形です」


「はい」


「正しい形を選べば、私は自分を許せる」


 その人は、そこで一度、息を吸った。


「──だから、私は、正しいほうを選んでいるだけかもしれない」


 部屋が、静かだった。


 ティアの寝息だけがしていた。


「本当は、何ですか」


 私は、聞いた。


 聞いてしまってから、聞くべきではなかったと思った。


 その人は、答えなかった。


 答えずに、膝を抱えたまま、ティアのほうを見た。長く見ていた。


「──妹が、起きます」


 言われて、私は寝台を見た。


 ティアが寝返りを打っていた。まだ寝ている。

 起きていなかった。


「起きてないですよ」


「はい」


「あの」


「──失礼します」


 その人は立ち上がった。


 立ち上がって、扉のほうへ歩いて、取っ手に手をかけて、そこで止まった。

 止まったまま、しばらく動かなかった。


 私は、待った。


 その人は、振り返らずに部屋を出ていった。


 私は、繕いかけの袖を持ったままだった。


 針が、途中で止まっている。


 どこまで縫ったのか、分からなくなっていた。


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