第一節
その日は、朝から鐘が違った。
三つではなかった。短いのが何度も鳴った。数えようとして、数えきる前に途切れて、また鳴りはじめた。
廊下を人が走っていた。城の人が走るのを、私はここへ来て初めて見た。
部屋を出たところで、イルゼさんに会った。
「みおり様。殿下のお部屋へ」
「あの、これ」
「壁際に、群れが出ております」
「はい」
「一つではございません」
ティアの部屋には、もう人が集まっていた。
女官が三人。ティアは寝台の上に座って、私を見て、すぐに手を伸ばしてきた。抱き上げると、しがみついてきた。
「みおり」
「うん」
「かねが、へん」
「うん。変だね」
「こわい」
「うん」
嘘は言わなかった。
窓の外を見た。壁の上に人が増えている。等間隔ではなくなっていた。何人かが一箇所に集まって、外を指している。
半刻ほどして、扉が叩かれた。
エルナさんだった。装備をつけていた。胴当ての上から外套、脛当て、それから、腰に長いものがもう一本増えている。
「ミオリ」
「はい」
「団長が呼んでる。詰所」
「あの、ティア様が」
「連れてって」
連れていった。
中庭を横切るあいだ、ティアは私の首に腕を回していた。石畳に人が出ていて、荷車が並んでいる。桶。布。担架。あの朝と同じものが、あの朝の三倍くらい並んでいた。
あの朝は、帰ってきた人のために並んでいた。今日は、これから出る人のために並んでいる。
同じものが、順番だけ逆になっていた。
詰所の中は、いっぱいだった。
二十七人が全員いる。それだけではない。見たことのない顔が十人以上いた。別の隊の人たちだと、あとで分かった。
私が入ると、道が空いた。
団長さんは机の前に立っていた。地図が広げてある。
「ナナセ殿」
「はい」
「状況を言う」
その人は、地図の上を指した。
「壁際に群れが三つ。北、東、南西。数は北が最も多く、およそ四十。東が二十前後。南西が十五」
「はい」
「同時だ」
地図の三箇所に、石が置かれていた。
「三箇所とも門を開けて出る。北に十八、東に十二、南西に十。それぞれ別の隊が出る」
「はい」
「日没までに片づける。夜になれば、向こうが有利になる」
私は、地図を見ていた。
三つの石を、順番に見た。
「体は一つだ」
団長さんが言った。
「あなたは、どこか一つにしか行けん」
部屋が静かになった。
誰も、こちらを見ていなかった。見ないようにしているのが分かった。
「あの」
「はい」
「私が選ぶんですか」
「本来は私が決める」
その人は、地図から手を離した。
「だが、今回は決められん。──三つのうち、どれかを選べば、選ばなかった二つを見捨てることになる。それを私が決めれば、あなたは何も背負わずに済む」
「はい」
「だから、私が決めるべきだ。そう思った」
その人は、そこで一度、言葉を切った。
「思って、決めきれなかった」
私は、顔を上げた。
その人は、こちらを見ていた。目の下が、いつもより濃い。昨日から寝ていないのだと思った。
「私は、北へ行く」
「はい」
「北がいちばん多い。団長として、そこへ行く。──だから、私はあなたに『北へ来い』とは言えん」
「なんでですか」
「言えば、あなたは来るからだ」
私は、口を閉じた。
その通りだった。言われたら、行っていた。
「東は、ダールの隊だ。南西は、ハウゼンという男の隊で、あなたは会ったことがない」
その人は、地図の南西の石を指した。
「南西は、いちばん数が少ない。だが、いちばん人数が少ない。十で十五を相手にする」
「はい」
「以上だ。選んでくれ」
私は、ティアを抱いたままだった。
その子は、私の肩に顔を埋めている。話は聞いていないと思う。聞いていても、分からないと思う。
でも、この場にいる。
私は、ティアをイルゼさんに渡した。
渡すときに、その子が声を出した。手が服を掴んでいたので、一本ずつ外した。外しながら、耳のところで言った。
「行ってくる」
「やだ」
「うん。でも、行ってくる」
「かえってくる?」
私は、答えられなかった。
答えられないまま、その子の額に自分の額をつけた。園でよくやった。言葉が出ないときの、代わりだった。
ティアは泣かなかった。
泣かずに、私の襟を掴んで、少し引いた。
喉が見えた。
細い線が、鎖骨のところに戻っている。この一月で、少しずつ濃くなったやつだ。前の半分もない。それでも、ある。
その子は、それを見た。
見て、手を離した。
「いってらっしゃい」
イルゼさんの言い方だった。
私は、地図の前に戻った。
三つの石を、もう一度見た。
北。四十。十八人。
東。二十。十二人。
南西。十五。十人。
数を、頭の中で並べた。並べて、割った。
一人あたり、北が二・二。東が一・七。南西が一・五。
南西がいちばん楽に見えた。数字の上では。
でも、と思った。
北には団長さんがいる。東にはエルナさんがいる。南西には、私が会ったことのない人たちがいる。
その差を、いま私は数えていた。
数えている自分に気づいて、少し気持ちが悪くなった。
「南西に行きます」
言った。
自分の声が、部屋によく響いた。
「理由を」
団長さんが言った。
「いちばん人が少ないので」
「北は四十だ」
「はい。でも、北は十八人います」
「南西は十だ」
「十で十五だと、一人が一・五です。北は一人が二・二だから、北のほうが厳しいのは分かります」
私は、指を折っていた。
「でも、北は十八人で退がれます。八人減っても十人残る。南西は、三人減ったら七人です。七人で十五は、たぶん、退がるのも難しいです」
言いながら、自分が何を言っているのか、途中で分からなくなった。
分からないまま、続けた。
「あと」
「なんだ」
「団長さんとエルナさんのところに行きたいって、さっき思ったので」
部屋の誰かが、息を吸った。
「思ったから、行かないことにしました」
団長さんは、しばらく黙っていた。
黙ってから、地図の上に手を置いた。置いただけで、動かさなかった。
「──それは、私が三年かかって、まだできんことだ」
「え」
「行きたいところへ行くな、というのは、易い。行きたいと思ったことを理由に外す、というのは、そうではない」
その人は、地図を巻いた。
「ハウゼン」
「はっ」
部屋の後ろから、男の人が出てきた。四十くらい。背が低くて、肩幅が広い。顎に古い傷がある。
「ナナセ殿を預ける」
「承知」
「──この方は、村から出さん約束で運用してきた。今日は村がない」
「では、門の内に」
ハウゼンさんが言った。
「南西門は二重です。外の門扉を開けて出ますが、内側の門は閉めたままにできる。その内側に置きます。──扉越しに、声は届きます」
「頼む」
「外へは出しません。何があってもです」
それだけだった。
私は、腰に木の板を下げた。ずっと部屋に置いてあったやつだ。紐が少し傷んでいたので、朝のうちに結び直してあった。




