第四節
神殿へ行きたい、と言い出したのは私だった。
言ったのはイルゼさんにで、イルゼさんは黙って聞いて、次の日に「使いを出しました」と言った。誰への使いなのかは教えてくれなかった。
三日後、迎えが来た。
「お久しぶりでございます」
覚えていた。
鑑定の日に、私の喉に手をかざした人だった。あのとき、走って出ていった人。
「あの、お名前」
「ニクラス・ヴェントと申します」
「ニクラスさん」
「はい」
その人は、私より少し背が高い。痩せていて、肩の骨が衣の上からでも分かる。髪は薄い茶色で、耳の上で切り揃えてある。目が薄い緑だった。指が長い。書く人の指だった。
「大神官様は」
「ご存じです」
「え」
「存じた上で、何もおっしゃいませんでした」
それが許可なのかどうかは、聞かなかった。
神殿は、あの日と同じ白い建物だった。
入り口ではなく、横の小さい扉から入った。廊下が細くて、天井が低い。灯りが少ない。ここは表ではないのだと分かった。
「五人のうち、三人が今日おられます」
歩きながら、ニクラスさんが言った。
「カイン殿は伏せておられます。お年ですので。シュタイン殿は勤めに出ています」
「はい」
「ベルグ夫妻と、ハイム殿が」
「ロレンツさん」
その人が、少し驚いた顔をした。
「ご存じでしたか」
「名前だけ」
通されたのは、奥の部屋だった。
窓が二つ。長椅子が壁沿いに置いてあって、真ん中に低い机がある。花はない。代わりに、机の上に木の実が入った鉢があった。
三人が座っていた。
男の人と女の人が並んで、少し離れて、若い男の人が一人。
並んでいるほうが夫婦だと、すぐ分かった。座り方が近い。肩が触れている。
ヨナさんは、三十半ばくらいに見えた。ティルダさんはもう少し若い。二人とも灰色の衣で、二人とも私を見た。
もう一人は、目を閉じていた。
閉じているのではなくて、開けていないのだと、少し経ってから分かった。顔がこちらを向いている。向いているのに、焦点がない。若い。二十六と聞いていた。それより若く見えた。
「ナナセ・ミオリ殿です」
ニクラスさんが言った。
三人が、頭を下げた。ロレンツさんも下げた。声のする方向に、正確に。
私は、どうしていいか分からなくて、深く頭を下げた。
下げてから、三人のうち一人には見えていないことを思い出した。
「あの」
声が出た。
「はじめまして。七瀬澪里です」
ヨナさんが、口を動かした。
音は出なかった。口の形だけが動いて、それから、その人は自分の胸に手を当てて、頭をもう一度下げた。
名乗ったのだと思った。
私も胸に手を当てて、頭を下げた。合っているかどうかは分からない。
ティルダさんが、机の鉢を押してきた。
木の実だった。食べろということらしい。私は一つ取って、口に入れた。硬くて、噛むと油の味がした。
「あの、おいしいです」
ティルダさんが笑った。
声のない笑い方だった。肩が動いて、目が細くなる。
その笑い方を、私は知っていた。
園に、まだ言葉の出ない子がいた。二歳児は半分がそうだ。あの子たちは声より先に肩で笑う。
「あの、歌ってもいいですか」
言ってから、失礼かもしれないと思った。
声を失った人の前で歌うというのが、どういうことなのか、私は考えていなかった。
ニクラスさんが、三人に何か言った。
ヨナさんが頷いた。ティルダさんも頷いた。ロレンツさんは、顔を少しこちらへ動かした。
私は、長椅子の前に立った。
立ってから、座ることにした。三人が座っているのに、私だけ立っているのは変な気がした。床に座った。
膝をついて、それから、歌った。
つみきさん、おやすみ。
部屋の中は、よく響いた。石だからだと思う。城の部屋よりも、自分の声が大きく聞こえた。
喉が熱くなった。
少し弱い。それはもう分かっている。分かっていても、出るものは出る。
一番を歌った。二番を歌った。
ティルダさんが、目を閉じていた。
閉じて、少し顎を上げている。喉が伸びる姿勢だった。
その喉が、動いた。
私は、歌いながら、その動きを見た。
薄い皮膚の下で、何かが上下した。飲み込むときの動きに似ていた。似ているけれど、少し違う。位置がもっと上だった。
この人だ、と思った。
私は歌を続けた。続けながら、ティルダさんのほうへ少し体を向けた。名前を呼ぶところで、この人の名前を入れた。ティルダさん、おやすみ。
喉が、もう一度動いた。
三番まで歌った。歌い終わって、待った。
何も起きなかった。
ティルダさんが目を開けた。開けて、私を見て、笑った。声のない笑い方だった。それから、両手を胸の前で合わせた。
礼をされたのだと分かった。
それだけだった。
「ナナセ殿」
ニクラスさんの声だった。
小さかった。小さいのに、切羽詰まっていた。
私は振り返った。
ニクラスさんは、ティルダさんを見ていなかった。
部屋の隅を見ていた。
ロレンツさんが、口を開けていた。
開けて、閉じて、また開けている。喉が動いていた。ティルダさんのそれよりも、はっきりと。
音は、出ていない。
出ていないのに、その人は続けていた。開けて、閉じて、開けて。息だけが出ている。息が、喉の途中で引っかかる音がした。
かすれた、ごく短い音だった。
言葉ではなかった。母音でもなかった。空気が擦れただけの音かもしれない。
私は、その人を見ていた。
見ていて、自分がずっと別の人を見ていたことに気づいた。
ティルダさんは、目を閉じて音を聞いていただけだった。喉が動いたのは、たぶん、飲み込んだからだ。私が勝手に、そうであってほしいものを見ていた。
三年見てきた子どもの喉と、この人たちの喉は、違う。
当たり前だった。
当たり前のことを、私は今まで一度も考えなかった。
「ロレンツさん」
名前を呼んだ。
その人の顔が、こちらへ動いた。
「もう一回、歌います」
返事はない。返事はないけれど、その人は口を閉じて、待った。
私は歌った。
今度は、その人の名前を呼んだ。ロレンツさん、おやすみ。畑にいる人。土を手で分かる人。
喉が動いた。
動いて、それから、止まった。
止まったまま、動かなくなった。
私は三番まで歌って、それからもう一度、最初から歌った。二度目の途中で、声が掠れた。掠れたところで止めて、また続けた。
最後まで歌った。
音は、出なかった。
ロレンツさんは、口を閉じたままだった。
部屋が静かになって、しばらく、誰も動かなかった。
それから、その人が手を上げた。
こちらへ向かって、まっすぐ上げた。何かを探すのではなく、私がいる場所を知っている上げ方だった。
私は膝で近づいて、その手を取った。
握られた。強かった。
「はい」
私は言った。
「はい。いますよ」
その人は、頷いた。
それから、口を開けた。
開けて、閉じた。何も出なかった。それでもその人は、もう一度、開けた。
扉のところに、人が立っていた。
いつからいたのかは分からない。歌っているあいだ、私は自分の声しか聞いていなかった。
白い衣。杖。灰色の目。
大神官様は、何も言わなかった。
私と目が合って、それから、ロレンツさんの手のほうを見た。長く見ていた。
それから、扉を閉めて、行ってしまった。




