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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第7章「声の戻る場所」

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第四節

 神殿へ行きたい、と言い出したのは私だった。


 言ったのはイルゼさんにで、イルゼさんは黙って聞いて、次の日に「使いを出しました」と言った。誰への使いなのかは教えてくれなかった。


 三日後、迎えが来た。


「お久しぶりでございます」


 覚えていた。

 鑑定の日に、私の喉に手をかざした人だった。あのとき、走って出ていった人。


「あの、お名前」


「ニクラス・ヴェントと申します」


「ニクラスさん」


「はい」


 その人は、私より少し背が高い。痩せていて、肩の骨が衣の上からでも分かる。髪は薄い茶色で、耳の上で切り揃えてある。目が薄い緑だった。指が長い。書く人の指だった。


「大神官様は」


「ご存じです」


「え」


「存じた上で、何もおっしゃいませんでした」


 それが許可なのかどうかは、聞かなかった。

 神殿は、あの日と同じ白い建物だった。


 入り口ではなく、横の小さい扉から入った。廊下が細くて、天井が低い。灯りが少ない。ここは表ではないのだと分かった。


「五人のうち、三人が今日おられます」


 歩きながら、ニクラスさんが言った。


「カイン殿は伏せておられます。お年ですので。シュタイン殿は勤めに出ています」


「はい」


「ベルグ夫妻と、ハイム殿が」


「ロレンツさん」


 その人が、少し驚いた顔をした。


「ご存じでしたか」


「名前だけ」


 通されたのは、奥の部屋だった。


 窓が二つ。長椅子が壁沿いに置いてあって、真ん中に低い机がある。花はない。代わりに、机の上に木の実が入った鉢があった。


 三人が座っていた。


 男の人と女の人が並んで、少し離れて、若い男の人が一人。

 並んでいるほうが夫婦だと、すぐ分かった。座り方が近い。肩が触れている。


 ヨナさんは、三十半ばくらいに見えた。ティルダさんはもう少し若い。二人とも灰色の衣で、二人とも私を見た。


 もう一人は、目を閉じていた。


 閉じているのではなくて、開けていないのだと、少し経ってから分かった。顔がこちらを向いている。向いているのに、焦点がない。若い。二十六と聞いていた。それより若く見えた。


「ナナセ・ミオリ殿です」


 ニクラスさんが言った。


 三人が、頭を下げた。ロレンツさんも下げた。声のする方向に、正確に。

 私は、どうしていいか分からなくて、深く頭を下げた。

 下げてから、三人のうち一人には見えていないことを思い出した。


「あの」


 声が出た。


「はじめまして。七瀬澪里です」


 ヨナさんが、口を動かした。

 音は出なかった。口の形だけが動いて、それから、その人は自分の胸に手を当てて、頭をもう一度下げた。


 名乗ったのだと思った。

 私も胸に手を当てて、頭を下げた。合っているかどうかは分からない。



 ティルダさんが、机の鉢を押してきた。


 木の実だった。食べろということらしい。私は一つ取って、口に入れた。硬くて、噛むと油の味がした。


「あの、おいしいです」


 ティルダさんが笑った。

 声のない笑い方だった。肩が動いて、目が細くなる。

 その笑い方を、私は知っていた。


 園に、まだ言葉の出ない子がいた。二歳児は半分がそうだ。あの子たちは声より先に肩で笑う。


「あの、歌ってもいいですか」


 言ってから、失礼かもしれないと思った。

 声を失った人の前で歌うというのが、どういうことなのか、私は考えていなかった。


 ニクラスさんが、三人に何か言った。

 ヨナさんが頷いた。ティルダさんも頷いた。ロレンツさんは、顔を少しこちらへ動かした。


 私は、長椅子の前に立った。

 立ってから、座ることにした。三人が座っているのに、私だけ立っているのは変な気がした。床に座った。


 膝をついて、それから、歌った。


 つみきさん、おやすみ。


 部屋の中は、よく響いた。石だからだと思う。城の部屋よりも、自分の声が大きく聞こえた。

 喉が熱くなった。

 少し弱い。それはもう分かっている。分かっていても、出るものは出る。


 一番を歌った。二番を歌った。


 ティルダさんが、目を閉じていた。


 閉じて、少し顎を上げている。喉が伸びる姿勢だった。


 その喉が、動いた。


 私は、歌いながら、その動きを見た。


 薄い皮膚の下で、何かが上下した。飲み込むときの動きに似ていた。似ているけれど、少し違う。位置がもっと上だった。


 この人だ、と思った。


 私は歌を続けた。続けながら、ティルダさんのほうへ少し体を向けた。名前を呼ぶところで、この人の名前を入れた。ティルダさん、おやすみ。


 喉が、もう一度動いた。


 三番まで歌った。歌い終わって、待った。


 何も起きなかった。


 ティルダさんが目を開けた。開けて、私を見て、笑った。声のない笑い方だった。それから、両手を胸の前で合わせた。

 礼をされたのだと分かった。


 それだけだった。


「ナナセ殿」


 ニクラスさんの声だった。


 小さかった。小さいのに、切羽詰まっていた。

 私は振り返った。

 ニクラスさんは、ティルダさんを見ていなかった。

 部屋の隅を見ていた。


 ロレンツさんが、口を開けていた。

 開けて、閉じて、また開けている。喉が動いていた。ティルダさんのそれよりも、はっきりと。


 音は、出ていない。


 出ていないのに、その人は続けていた。開けて、閉じて、開けて。息だけが出ている。息が、喉の途中で引っかかる音がした。


 かすれた、ごく短い音だった。


 言葉ではなかった。母音でもなかった。空気が擦れただけの音かもしれない。


 私は、その人を見ていた。

 見ていて、自分がずっと別の人を見ていたことに気づいた。


 ティルダさんは、目を閉じて音を聞いていただけだった。喉が動いたのは、たぶん、飲み込んだからだ。私が勝手に、そうであってほしいものを見ていた。


 三年見てきた子どもの喉と、この人たちの喉は、違う。


 当たり前だった。

 当たり前のことを、私は今まで一度も考えなかった。


「ロレンツさん」


 名前を呼んだ。

 その人の顔が、こちらへ動いた。


「もう一回、歌います」


 返事はない。返事はないけれど、その人は口を閉じて、待った。


 私は歌った。


 今度は、その人の名前を呼んだ。ロレンツさん、おやすみ。畑にいる人。土を手で分かる人。

 喉が動いた。


 動いて、それから、止まった。

 止まったまま、動かなくなった。


 私は三番まで歌って、それからもう一度、最初から歌った。二度目の途中で、声が掠れた。掠れたところで止めて、また続けた。


 最後まで歌った。


 音は、出なかった。

 ロレンツさんは、口を閉じたままだった。

 部屋が静かになって、しばらく、誰も動かなかった。


 それから、その人が手を上げた。


 こちらへ向かって、まっすぐ上げた。何かを探すのではなく、私がいる場所を知っている上げ方だった。

 私は膝で近づいて、その手を取った。


 握られた。強かった。


「はい」


 私は言った。


「はい。いますよ」


 その人は、頷いた。

 それから、口を開けた。


 開けて、閉じた。何も出なかった。それでもその人は、もう一度、開けた。

 扉のところに、人が立っていた。


 いつからいたのかは分からない。歌っているあいだ、私は自分の声しか聞いていなかった。


 白い衣。杖。灰色の目。


 大神官様は、何も言わなかった。


 私と目が合って、それから、ロレンツさんの手のほうを見た。長く見ていた。

 それから、扉を閉めて、行ってしまった。


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