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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第7章「声の戻る場所」

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第三節

 その人から呼ばれたのは、初めてだった。

 使いが来て、儀式の間へ、と言われた。


 場所を聞いても分からなかったので、案内された。廊下を四回曲がって、階段を降りて、また廊下を歩いた。行くにつれて、人がいなくなった。


 扉の前で、案内の人が止まった。


「こちらでございます」


 扉を開けて、中を見て、私は動けなくなった。

 天井が高い。石の梁が組まれていて、その隙間から光が斜めに落ちている。埃が見える。


 床に、白い線があった。

 円だった。内側にも外側にも文字が並んでいる。


 読めた。


 いや、読めなかった。形は追える。追えるのに、意味が結ばない。常用文字ではないのだと、それで分かった。


「来ていただいて、すみません」


 円の向こうに、ユーリ様が立っていた。

 金の髪が、上からの光で白く見えた。青い上着ではなかった。今日は濃い灰色で、飾りが何もない。


「ここは」


「あなたが最初にいた場所です」


 知っていた。

 知っていたけれど、言われるまで、認めていなかった気がする。


 私は円のふちで止まった。中には入らなかった。入る理由がなかった。

 案内の人は、扉のところに残った。中には入らずに、そこで控えている。


「血のあとが、ないですね」


「拭かせました。……あの日から、何度か」


「はい」


「消えるまで、時間がかかりました」


 その人は、円の内側に立っていた。

 私が座っていたあたりに、たぶん、立っていた。


「ナナセ殿」


「はい」


「五人の名を、申し上げてもよろしいですか」


 風のない部屋だった。

 声が、思ったより響いた。


「はい」


 その人は懐から紙を出した。出したけれど、開かなかった。

 持ったまま、そらで言った。


「エルドラ・カイン。神殿の記録係でした。両目の視力を失いました」


 私は、動かなかった。


「マレク・シュタイン。同じく記録係です。左目だけが残りました。書くのが遅くなったと、本人が言っています」


「はい」


「ヨナ・ベルグ。声を失いました。喉は無事です。原因は、誰にも分かりません」


 三人目で、私は自分の喉に手をやった。

 やってから、下ろした。


「ティルダ・ベルグ。ヨナの妻です。──同じく、声を」


 私は、顔を上げた。


「夫婦、ですか」


「夫婦です」


 その人は、まっすぐ立っていた。


「二人とも儀式に立ちました。私は止めていません。──夫婦は避けるべきだと、大神官は言いました。私が押し切りました。人数が足りなかったので」


「あの」


「五人目は、ロレンツ・ハイム。二十六歳。いちばん若い」


 その人は、そこで一度、息を吸った。


「彼は、視力と声の両方を失いました」


 言い終わって、その人は紙を懐に戻した。

 開かないまま、戻した。


「五人です。全員、生きています。全員、神殿にいます」


 私は、円の白い線を見ていた。

 あの日、この線の上に血が落ちて、私のいるほうへ滲んできた。


「あの、ロレンツさんは」


「はい」


「今、何をされてますか」


 その人は、少し黙った。


「──庭にいます」


「庭」


「神殿の裏に畑があります。神官たちが野菜を作っている。彼は、そこにいることが多いと聞きました」


「見えなくても、ですか」


「土は、手で分かるそうです」


 私は、それを聞いて、少しだけ息が楽になった。

 楽になった自分に、すぐ嫌気がさした。


「ナナセ殿。ここからが、本題です」


 その人は、円の中で私のほうを向いた。


「星合の夜のことは、ご存じですね」


「はい。来年の春だって」


「三年に一度です。前回は、二年前でした」


 数が、頭の中で並んだ。

 二年前。それから三年後が、来年の春。


「私が召喚を発議したのは、去年の冬です。実行が、今年の春」


「はい」


「星合まで、一年でした」


 言葉が、そこで止まった。

 止まったのは一瞬で、その人は続けた。


「星合の夜であれば、大地から魔力を借りられます。誰の身も削らずに済んだ。──あと一年、待てばよかった」


 私は、円の外に立っていた。

 立ったまま、その一年を数えていた。


「待たなかった理由を、申し上げます」


「はい」


「去年、騎士団は二十六人死にました」


 数字が出た。二度目だった。


「壁が破られた夜から、三年です。あれ以来、被害が減っていない。減らないどころか、外の個体数が増えている。──一年待てば、また二十数人死ぬ計算でした」


「はい」


「私は、二十六と五を比べました」


 私は、その人の顔を見た。

 顔は、何も動いていなかった。


「五人が何かを失えば、二十六人が死なずに済むかもしれない。──そう計算して、私は儀式を出しました」


「あの」


「間違っていたとは、今も思っていません」


 言い切られた。

 言い切られたのが、いちばん重かった。


「間違っていないのに、五人は失いました。そして、呼ばれたのはあなたでした」


「はい」


「私は、剣か炎を期待していました。期待して、来たのがあなたで──」


 その人は、そこで初めて言葉を切った。

 切って、少し目を伏せた。


「──失礼。この続きは、あなたに言うことではない」


「言ってください」


「いえ」


「言ってください」


 自分の声が、思ったより強かった。

 その人が、顔を上げた。


「……あの日、私はあなたを見て、間に合わなかったと思いました」


「はい」


「二十六人を止めるために五人を差し出して、来たのは戦えない人だった。差し引きが合わない。──そう思いました」


「はい」


「その計算を、私は今年一年、毎日やり直しています」


 その人は、円の中で一歩、こちらへ来た。


「二十六には、遠く届いていません」


 私は、動けなかった。


「計算は、合いました」


 声が、少し変わっていた。


「合ってしまいました」


 その人は、そこで一度、口を閉じた。


「五人が代償を払って、あなたが来て、去年なら死んでいた人が生きている。数字の上では、私の判断は正しかったことになる。……そう言えば言えるのです」


「ユーリ様」


「言いたくありません」


 その人は、はっきり言った。


「言えば、五人が数になる。生きている人も数になる。私はこの一年で、それだけはやるまいと決めました」


 私は、円のふちに立ったまま、その人を見ていた。

 この人は、たぶん、二十歳にもなっていない。


 四年前に妹が生まれて、去年に儀式を出して、今年、私を呼んだ。その全部を、この人は一人で持っている。


「あの」


「はい」


「一人で計算するの、やめられませんか」


 その人が、止まった。


「え」


「誰かに、半分持ってもらうとかは」


「──できません」


「なんでですか」


「私が出した儀式だからです」


 迷いがなかった。


 その迷いのなさは、団長さんのものと同じ形をしていた。この人たちは、たぶん、同じ病気にかかっている。


「ナナセ殿」


「はい」


「一つだけ、お願いがあります」


 その人は、円の中で膝をついた。

 石の床に、両膝を。

 扉のところで、案内の人が息を呑んだ。


 この国で、王子が膝をつくのがどれくらいのことなのかは、私には分からない。分からないけれど、あの人の息の音で、普通ではないのだと分かった。


「やめてください」


「聞いてください」


「立ってください」


「──来年の春、あなたは帰れます」


 私は、口を閉じた。


「星合の夜です。誰の身も削らずに、あなたを元の場所へ戻せます。……それだけが、この一年で私にできたことです」


 その人は、顔を上げた。

 下から見上げられて、目が合った。青い瞳が、こちらを見ていた。


「帰ってください」


「え」


「あなたはここへ、望んで来たわけではない。私が引いて、私が連れてきた。──だから、帰してみせます」


 その人は、そこで少し息を吸った。


「五人のことは、私の罪です。あなたのことは、まだ間に合う」


 私は、何も言えなかった。

 言えないまま、円のふちを見た。


 白い線が、足の先の少し向こうにあった。


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