第三節
その人から呼ばれたのは、初めてだった。
使いが来て、儀式の間へ、と言われた。
場所を聞いても分からなかったので、案内された。廊下を四回曲がって、階段を降りて、また廊下を歩いた。行くにつれて、人がいなくなった。
扉の前で、案内の人が止まった。
「こちらでございます」
扉を開けて、中を見て、私は動けなくなった。
天井が高い。石の梁が組まれていて、その隙間から光が斜めに落ちている。埃が見える。
床に、白い線があった。
円だった。内側にも外側にも文字が並んでいる。
読めた。
いや、読めなかった。形は追える。追えるのに、意味が結ばない。常用文字ではないのだと、それで分かった。
「来ていただいて、すみません」
円の向こうに、ユーリ様が立っていた。
金の髪が、上からの光で白く見えた。青い上着ではなかった。今日は濃い灰色で、飾りが何もない。
「ここは」
「あなたが最初にいた場所です」
知っていた。
知っていたけれど、言われるまで、認めていなかった気がする。
私は円のふちで止まった。中には入らなかった。入る理由がなかった。
案内の人は、扉のところに残った。中には入らずに、そこで控えている。
「血のあとが、ないですね」
「拭かせました。……あの日から、何度か」
「はい」
「消えるまで、時間がかかりました」
その人は、円の内側に立っていた。
私が座っていたあたりに、たぶん、立っていた。
「ナナセ殿」
「はい」
「五人の名を、申し上げてもよろしいですか」
風のない部屋だった。
声が、思ったより響いた。
「はい」
その人は懐から紙を出した。出したけれど、開かなかった。
持ったまま、そらで言った。
「エルドラ・カイン。神殿の記録係でした。両目の視力を失いました」
私は、動かなかった。
「マレク・シュタイン。同じく記録係です。左目だけが残りました。書くのが遅くなったと、本人が言っています」
「はい」
「ヨナ・ベルグ。声を失いました。喉は無事です。原因は、誰にも分かりません」
三人目で、私は自分の喉に手をやった。
やってから、下ろした。
「ティルダ・ベルグ。ヨナの妻です。──同じく、声を」
私は、顔を上げた。
「夫婦、ですか」
「夫婦です」
その人は、まっすぐ立っていた。
「二人とも儀式に立ちました。私は止めていません。──夫婦は避けるべきだと、大神官は言いました。私が押し切りました。人数が足りなかったので」
「あの」
「五人目は、ロレンツ・ハイム。二十六歳。いちばん若い」
その人は、そこで一度、息を吸った。
「彼は、視力と声の両方を失いました」
言い終わって、その人は紙を懐に戻した。
開かないまま、戻した。
「五人です。全員、生きています。全員、神殿にいます」
私は、円の白い線を見ていた。
あの日、この線の上に血が落ちて、私のいるほうへ滲んできた。
「あの、ロレンツさんは」
「はい」
「今、何をされてますか」
その人は、少し黙った。
「──庭にいます」
「庭」
「神殿の裏に畑があります。神官たちが野菜を作っている。彼は、そこにいることが多いと聞きました」
「見えなくても、ですか」
「土は、手で分かるそうです」
私は、それを聞いて、少しだけ息が楽になった。
楽になった自分に、すぐ嫌気がさした。
「ナナセ殿。ここからが、本題です」
その人は、円の中で私のほうを向いた。
「星合の夜のことは、ご存じですね」
「はい。来年の春だって」
「三年に一度です。前回は、二年前でした」
数が、頭の中で並んだ。
二年前。それから三年後が、来年の春。
「私が召喚を発議したのは、去年の冬です。実行が、今年の春」
「はい」
「星合まで、一年でした」
言葉が、そこで止まった。
止まったのは一瞬で、その人は続けた。
「星合の夜であれば、大地から魔力を借りられます。誰の身も削らずに済んだ。──あと一年、待てばよかった」
私は、円の外に立っていた。
立ったまま、その一年を数えていた。
「待たなかった理由を、申し上げます」
「はい」
「去年、騎士団は二十六人死にました」
数字が出た。二度目だった。
「壁が破られた夜から、三年です。あれ以来、被害が減っていない。減らないどころか、外の個体数が増えている。──一年待てば、また二十数人死ぬ計算でした」
「はい」
「私は、二十六と五を比べました」
私は、その人の顔を見た。
顔は、何も動いていなかった。
「五人が何かを失えば、二十六人が死なずに済むかもしれない。──そう計算して、私は儀式を出しました」
「あの」
「間違っていたとは、今も思っていません」
言い切られた。
言い切られたのが、いちばん重かった。
「間違っていないのに、五人は失いました。そして、呼ばれたのはあなたでした」
「はい」
「私は、剣か炎を期待していました。期待して、来たのがあなたで──」
その人は、そこで初めて言葉を切った。
切って、少し目を伏せた。
「──失礼。この続きは、あなたに言うことではない」
「言ってください」
「いえ」
「言ってください」
自分の声が、思ったより強かった。
その人が、顔を上げた。
「……あの日、私はあなたを見て、間に合わなかったと思いました」
「はい」
「二十六人を止めるために五人を差し出して、来たのは戦えない人だった。差し引きが合わない。──そう思いました」
「はい」
「その計算を、私は今年一年、毎日やり直しています」
その人は、円の中で一歩、こちらへ来た。
「二十六には、遠く届いていません」
私は、動けなかった。
「計算は、合いました」
声が、少し変わっていた。
「合ってしまいました」
その人は、そこで一度、口を閉じた。
「五人が代償を払って、あなたが来て、去年なら死んでいた人が生きている。数字の上では、私の判断は正しかったことになる。……そう言えば言えるのです」
「ユーリ様」
「言いたくありません」
その人は、はっきり言った。
「言えば、五人が数になる。生きている人も数になる。私はこの一年で、それだけはやるまいと決めました」
私は、円のふちに立ったまま、その人を見ていた。
この人は、たぶん、二十歳にもなっていない。
四年前に妹が生まれて、去年に儀式を出して、今年、私を呼んだ。その全部を、この人は一人で持っている。
「あの」
「はい」
「一人で計算するの、やめられませんか」
その人が、止まった。
「え」
「誰かに、半分持ってもらうとかは」
「──できません」
「なんでですか」
「私が出した儀式だからです」
迷いがなかった。
その迷いのなさは、団長さんのものと同じ形をしていた。この人たちは、たぶん、同じ病気にかかっている。
「ナナセ殿」
「はい」
「一つだけ、お願いがあります」
その人は、円の中で膝をついた。
石の床に、両膝を。
扉のところで、案内の人が息を呑んだ。
この国で、王子が膝をつくのがどれくらいのことなのかは、私には分からない。分からないけれど、あの人の息の音で、普通ではないのだと分かった。
「やめてください」
「聞いてください」
「立ってください」
「──来年の春、あなたは帰れます」
私は、口を閉じた。
「星合の夜です。誰の身も削らずに、あなたを元の場所へ戻せます。……それだけが、この一年で私にできたことです」
その人は、顔を上げた。
下から見上げられて、目が合った。青い瞳が、こちらを見ていた。
「帰ってください」
「え」
「あなたはここへ、望んで来たわけではない。私が引いて、私が連れてきた。──だから、帰してみせます」
その人は、そこで少し息を吸った。
「五人のことは、私の罪です。あなたのことは、まだ間に合う」
私は、何も言えなかった。
言えないまま、円のふちを見た。
白い線が、足の先の少し向こうにあった。




