第一節
アッシュフォードの屋敷は、城下の西にあった。
馬車で四半刻。私は初めて馬車に乗った。揺れがひどくて、途中で酔いかけた。
「大丈夫か」
「はい。あの、乗り物が」
「歩いたほうがよければ、降りる」
「大丈夫です」
団長さんは、それきり何も言わなかった。
あとで知ったことだけれど、屋敷までは歩いても四半刻だった。
私が倒れたのは、ひと月も前ではない。
屋敷は、思っていたより小さかった。
石造りの二階建てで、庭に木が二本。塀が低い。三年前に建て直したのだと、来る途中で聞いた。前の家は、あの夜に壊れた。
入り口で、年配の女の人が待っていた。
団長さんが何か言うと、その人は頷いて、私を見て、頭を下げた。それから、先に立って歩いた。
階段を上がって、廊下の突き当たり。
扉の前で、団長さんが止まった。
「ナナセ殿」
「はい」
「何も起きんかもしれん」
「はい」
「起きなくていい」
その人は、扉を開けた。
部屋は明るかった。
南向きの窓が二つ。両方とも開いていて、風が入っている。花が活けてあった。萎れていない。誰かが毎日替えている。
寝台が一つ。
その上に、眠っていた。
小さい。十七だと聞いていたのに、もっと小さく見えた。腕が細くて、手首の骨が浮いている。髪は短く切ってあった。整えるために切ったのだと思う。
目は、閉じていた。
私は、扉のところで立っていた。
「セシリア」
団長さんが言った。
「客を連れてきた」
返事はない。
その人は寝台の横まで行って、椅子に座った。座って、妹さんの手を取った。取り方が、慣れていた。
「ナナセ殿。近くへ」
私は近づいた。
近づいて、寝ている人の顔を見た。
目のあたりが、少し似ている気がした。似ていると思うのは、兄だと知っているからかもしれない。
息をしている。
胸が、ゆっくり上下していた。眠っている子の息とは違う。もっと浅くて、規則的すぎる。
「触ってもいいですか」
「ああ」
手に触れた。
温かかった。
それに、少し驚いた。眠っているだけの人と、同じ温度だった。
「セシリアさん」
声をかけた。
返事はない。返事がないのは分かっていた。分かっていても、名前を呼ぶところから始めるのが、私のやり方だった。
「はじめまして。七瀬澪里です」
窓の外で、木の葉が鳴った。
「あの、今から歌を歌います。……嫌だったら、ごめんなさい」
私は椅子を引いて、寝台の横に座った。
団長さんが少し場所を空けてくれた。空けたところに座って、手を握ったまま、もう片方の手を掛布の上に置いた。
背中は叩けない。仰向けだから。
だから、掛布の上から、胸のあたりに手を当てた。上下しているのが分かる位置に。
息を吸った。
歌った。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。
寝かせる歌だった。この人はもう三年寝ている。それでも、私が持っているのはこれだけだった。
喉のところが、熱くなった。
いつもより、少し弱い気がした。気のせいかもしれない。気のせいだと思うことにした。
一番を歌い終わって、二番に入った。
手のひらの下で、胸が上下している。速さは変わらない。
三番まで歌った。
歌い終わって、そのまま待った。
何も起きなかった。
もう一度歌った。
今度は、名前を変えた。この人が好きだったものを知らないので、部屋にあるものを呼んだ。花。窓。それから、この人の名前も呼んだ。
セシリアさん、おやすみ。
三番まで歌った。
指は動かなかった。まぶたも動かなかった。息の速さも、最初から最後まで同じだった。
私は、手を離せなかった。
離すと、終わってしまう。
「ナナセ殿」
「もう一回、いいですか」
「──ああ」
三度目を歌った。
途中で、声が掠れた。掠れたところで少し止まって、また続けた。
最後まで歌った。
何も起きなかった。
私は、手を離した。
離してから、握っていたところを見た。少し赤くなっていた。強く握りすぎていた。
「すみません」
言葉が、勝手に出た。
「すみません、あの、私」
「ナナセ殿」
「もう少し、うまくやれば」
「ナナセ殿」
その人が、立ち上がった。
立ち上がって、私の前に来た。近い。見上げる形になった。
「ありがとう」
言われた。
その言葉が、体のどこにも入らなかった。
「あの」
「三年で、この部屋に人を呼んだのは初めてだ」
「はい」
「妹に、外から来た声を聞かせたのも初めてだ」
「でも、何も」
「起きなくていいと言った」
その人は、そう言った。
言い方に、嘘がなかった。嘘がないのが、いちばんつらかった。
私は、下を向いた。
下を向いて、そこで初めて、自分が泣きそうになっているのに気づいた。
泣く場面ではなかった。
この部屋で泣いていい人間は、私ではない。私はさっき来たばかりで、この人は三年ここにいる。
だから、こらえた。
こらえたのが、たぶん、顔に出ていた。
「ナナセ殿」
「はい」
「泣くな。……いや」
その人は、困ったような顔で少し笑った。
「泣かれると、私が泣いてしまう…」
私は、顔を上げた。
その人は、こちらを見ていなかった。窓のほうを見ていた。窓の外の、木のあたりを。
しばらく、二人とも黙っていた。
風が入って、花が少し揺れた。
「あの」
「なんだ」
「また、来ていいですか」
その人が、こちらを向いた。
「効かんぞ」
「はい」
「今日で分かっただろう。効かん」
「はい」
「それでも来るのか」
私は、頷いた。
理由はうまく言えなかった。効くと思っているわけではない。効かないと分かっている。分かっているのに、この部屋に誰も来ないというのが、私には引っかかっていた。
「あの、三年、一人でしたよね」
「──ああ」
「私も、来ます」
その人は、返事をしなかった。
返事の代わりに、椅子を一つ、寝台の横へ動かした。
私が座っていた椅子を、そこへ置いた。




