第一節
「みおり」
朝、部屋に入った瞬間だった。
ティアは寝台の上に立っていた。立って、こっちを見ている。両手を後ろに回して、何か持っている。
「おはよう。ティア様、寝台の上は立たない約束」
「みおり、こっち」
「降りてから」
「こっち」
降りなかった。
仕方なく近づいた。近づいたら、腕を掴まれた。両手で、思いきり引かれた。
私は寝台に膝をついた。ついた拍子に、顔がその子の高さになった。
ティアが、後ろに回していた手を出した。
櫛だった。私の髪を梳かすときにイルゼさんが使うやつ。
「かして」
「え」
「かみ、とかす」
差し出された。私は少し笑って、後ろを向いた。
向いた背中に、その子が膝立ちで寄ってきた。櫛が一度だけ通った。一度だけだった。
二度目が来ないので、振り返った。
振り返ったところに、手があった。
早かった。
止める間がなかった。指が布の中に入って、そのまま下へ引いた。
冷たい空気が、首に当たった。
「──ティア様」
その子は、じっと見ていた。
見て、それから、櫛を落とした。落とした音がして、私はそちらを見た。見てから、また顔を戻した。
ティアは私の喉のところを見ていた。
「みおりの、おくび」
「あの」
「うすくなってる」
言われた。
子どもの声は、遠慮がない。部屋の外まで届くくらいの大きさだった。
「しっ」
私は指を口に当てた。
「静かに。ね」
「なんで」
「静かに」
「なんで」
三回目は言わせなかった。私はその子を抱き上げて、寝台に座らせて、正面に座った。
両手を握った。小さい。
「ティア様。これ、内緒にできる?」
「ないしょ」
「うん。誰にも言わないこと」
ティアは私の顔を見た。それから、自分の手を見た。私に握られている手を、少し動かした。
「イルゼにも?」
「うん」
「にいさまにも」
「うん」
「かあさまにも」
「……うん」
その子は、口をきゅっと閉じた。
閉じて、しばらくそのままだった。私は待った。待つのは得意だった。
それから、ティアは首を横に振った。
「やだ」
「え」
「ないしょ、やだ」
「ティア様」
「みおり、ないしょばっかり」
握っていた手が、抜けた。
ティアは寝台の上で膝立ちになって、私を見下ろした。私が座っていたので、その子のほうが高かった。
「うたも、ないしょ」
「うん」
「くびも、ないしょ」
「うん」
「いなくなるのも、ないしょ」
言葉が、途中から震えていた。
それが泣く前の震えだと分かったときには、もう遅かった。
「みおり、きえるの」
「え」
「おくび、きえたら、みおりもきえる」
私は、口を開けた。
開けたまま、何も言えなかった。
この子が何をどこまで分かっているのか、私には測れなかった。五歳は、聞いたことを勝手に足し算する。
足し算は、たいてい間違っている。
この場合は、答えのほうが合っていた。
私が言おうとしていた嘘が、全部、先回りされていた。
「ティア様、あのね」
「いや」
「消えないよ」
「うそ」
「嘘じゃない」
「うそ!」
叫んだ。
叫んで、それから泣いた。声を出して、口を開けて、遠慮なく泣いた。園でよく見た泣き方だった。加減のない泣き方。
私はその子を抱き上げた。
抱き上げて、揺らした。いつもの通りに、背中を叩いた。とん、とん。心臓より少しゆっくり。
歌おうとして、口を開けて、やめた。
これで寝かせるのは、たぶん、違う。
だから、黙って揺らした。
扉が開いた。
イルゼさんが立っていた。泣き声を聞いて来たのだと思う。手に何も持っていなかった。
私は顔を上げた。
上げたときに、自分の襟が開いたままだと気づいた。
気づいて、手を離せなかった。ティアを抱いているので、片手も空いていない。空いていないので、そのままだった。
イルゼさんの目が、私の喉のところで止まった。
しばらく、そこにあった。
それから、その人は扉を閉めた。
内側から。
部屋に入ってきて、私の前まで来て、膝をついた。ティアの背中に手を当てた。
「殿下」
ティアは泣き続けていた。
「殿下、みおり様はここにおられます」
「うそ」
「嘘ではございません」
「きえる」
「消えません」
イルゼさんが、私を見た。
見て、それから、はっきりした声で言った。
「みおり様は、消えません。──そうでございますね、みおり様」
私は、頷けなかった。
頷けば嘘になる。頷かなければ、この子がまた泣く。
だから、私は別のことを言った。
「ティア様。今日、一緒にいる」
泣き声が、少し止まった。
「今日、ずっといる。どこにも行かない」
「きょう」
「うん。今日」
「あしたは」
「明日は、分からない」
言ってしまってから、失敗したと思った。
子どもに「分からない」を言うのは、いちばんやってはいけないことだ。
なのに、ティアは泣きやんだ。
しゃくり上げながら、私の服を掴んで、鼻を押しつけてきた。
「きょう」
「うん」
「ずっと」
「うん」
その日、私は塔へ行かなかった。
北の巡回にも行かなかった。行かないと誰かに伝える方法が分からなくて、イルゼさんに頼んだ。イルゼさんは何も聞かずに、分かりました、とだけ言った。
一日、ティアの部屋にいた。
積み木を積んで、指人形を出して、昼を食べて、午睡をさせて、起きたら手習いをした。
久しぶりに、順番通りにできた。
夕方、鐘が鳴るころには、ティアはもう機嫌が直っていた。直りすぎて、寝る時間になっても寝たがらなかった。
寝台に入れて、背中を叩いた。今度は歌った。
二番の途中で、寝た。
私は、そっと立ち上がった。
立ち上がったら、扉のところにイルゼさんがいた。手燭を持って、待っていた。
「みおり様」
「はい」
「いつからでございますか」
嘘をつけると思った。思ったけれど、無理だった。
「……十日くらい前です」
言ってから、違うかもしれないと思った。もっと前かもしれない。数えていなかった。
イルゼさんは、そこを直さなかった。
「どなたかに、お話しになりましたか」
「いえ」
「では、明日、お話しになってください」
「あの」
「わたくしが申し上げてもよろしいのですが」
その人は手燭を持ち替えた。
「みおり様のお口から聞かないと、あの方々は納得なさいません」
あの方々、が誰なのかは、聞かなかった。
聞かなくても、明日になれば分かる気がした。




