第五節
鏡は、朝に一度だけ見る。
城へ来た次の日からの習慣だった。着替えのあと、姿見の前に立って、襟を引いて、線を見る。それで終わり。長く見ないと決めていた。
その朝、私は二度見た。
一度目は、いつも通りだった。引いて、見て、離した。離してから、扉のところまで歩いて、そこで止まった。
戻って、もう一度引いた。
薄い。
窓のほうを向いて、光を当てた。角度を変えた。手のひらで一度こすって、それから、また見た。
薄かった。
根元のほう──鎖骨のあたりが、輪郭を失っている。喉に近い側はまだ濃い。濃いけれど、前は全部が同じ濃さだった。
目の錯覚だと思った。
思って、指で押さえた。押さえたところの皮膚が白くなって、離すと戻る。戻ったところに、薄い線がある。
もう一度見た。
三度目だった。
私は襟から手を離して、寝台に座った。
座って、しばらく何も考えなかった。考えなかったというより、考えが動かなかった。
ひとつだけ、はっきりしていた。
誰にも言わない。
その日は塔だった。
着替えのときに、いちばん襟の詰まった服を選んだ。この国の女の人の服は首元が開いているものが多くて、探すのに時間がかかった。冬用の、厚い布のを見つけた。
暑い。
塔まで歩くだけで、背中に汗が出た。
「ナナセ殿」
部屋に入るなり、シリルさんが言った。
「その服は」
「あ、少し寒くて」
「今日は暖かいですが……」
「私、寒がりなので」
嘘をついた。
この人に嘘をつくのは、たぶん、いちばん向いていない相手だった。
その人は蝋板を開いて、いつも通りに始めた。三つ目、七つ目、十四個目。私は歌った。歌いながら、喉の熱さを測っていた。
いつもと同じくらい、熱かった。
それが分かって、少し息が楽になった。
「今日は、触れますか」
その人が言った。
「え」
「熱の測定です。前回から二十日空いています」
「あの……」
「はい」
「今日は、大丈夫です」
「大丈夫、とは」
「あの、測らなくても、いつもと同じなので」
その人は、少し黙った。
「それはあなたの主観です」
「はい」
「主観は記録できません」
「はい」
私は、頷いた。頷いたけれど、襟には手をかけなかった。
その人は蝋板を持ったまま、私を見ていた。
立ち上がるかと思った。立ち上がって、こちらへ来るかと思った。
来なかった。
「──分かりました。今日は測りません」
「すみません」
「謝罪は求めていません」
その人は蝋板に何か書いた。
何を書いたのかは聞かなかった。聞かないほうがいい気がした。
塔を出て、城へ戻る途中で、エルナさんに会った。
「ミオリ、それ何着てんの」
「あの、寒くて」
「今日?」
「はい」
「あんた汗かいてるけど」
拭った。拭ってから、そのしぐさが余計に怪しいと気づいた。
「熱でもある?」
「ないです」
「顔近づけていい?」
「だめです」
言い方が強くなった。
自分でも驚いた。エルナさんも驚いた顔をした。
「……ごめん」
「あ、いえ、こっちこそ、あの」
「体調悪いなら言いなよ。私、団長に言えるから」
「大丈夫です。ほんとに」
私は笑った。
笑えたと思う。エルナさんはそれ以上何も言わずに、じゃあね、と言って行った。
部屋に戻って、扉を閉めて、襟を引いた。
変わっていない。朝と同じ。薄いまま、濃くもならず、それ以上薄くもならない。
私は、寝台に座った。
考えないようにしていたことを、そこで少し考えた。
これが消えたら、どうなるのか。
補助魔法は、アザの特性だ。アザが消えたら、たぶん、力も消える。消えたら、私は歌えるだけの人間になる。歌が効かなくなったら、ただ歌える人間になる。
この城に、ただ歌える人間の居場所はない。
剣も使えない。字も読めない。鑑定書もない。名簿にも載っていない。
残っているのは、これだけだった。
喉のところに、手を当てた。
まだある。まだあるうちは、大丈夫だ。
次の日、ティアの部屋へ行った。
久しぶりだった。何日ぶりなのかは、数えなかった。
ティアは床に座って、指人形を並べていた。並べて、順番に立たせて、また倒す。私が入っても顔を上げなかった。
「ティア様」
「……ん」
「おはよう」
「おはよう」
返してくれた。それだけで、少し安心した。
私は隣に座った。座ると、ティアが人形を一つ、こちらへ寄越した。うさぎだった。
「はい」
「ありがとう」
「うさぎさん、こんにちは」
「こんにちは、ねこさん」
いつもの順番だった。
しばらくやった。ねこがにんじんを嫌いで、うさぎが好きで、それでも食べる。同じ話を、この子は何十回もやりたがる。
途中で、ティアが手を止めた。
私を見上げていた。
「みおり」
「はい」
「そこ、あついの?」
「え」
「くび。ふゆのふく」
私は、襟に手をやった。
やってから、それが答えになってしまうと気づいた。
「うん。ちょっと寒くて」
「さむくないよ」
「私は寒いの」
「ふうん」
ティアは納得しなかった。納得しない顔のまま、うさぎを私の膝に置いた。
それから、手を伸ばしてきた。
小さい手だった。私の襟のところへ、まっすぐ来た。
私は、その手を掴んだ。
思ったより強く掴んでしまって、ティアの目が丸くなった。
「あ」
「いたい」
「ごめん。ごめんね」
離した。ティアは自分の手首をさすった。さすりながら、私を見ていた。
怒っていなかった。
怒っていない顔のほうが、怖かった。
「ごめんね。ティア様、ごめん」
「みおり」
「うん」
「かくしてる」
子どもは、隠しごとには正確だった。
私は襟を押さえた。押さえて、指で少し引き上げた。首の下まで、布が上がる。
布の下は、見えない。
ティアは、その布を見ていた。
中を見ようとはしなかった。手も、もう伸ばさなかった。
何も言わずに、うさぎを拾って、自分の膝に戻した。
見なかったのか、見ないでいてくれたのかは、分からなかった。




