第二節
「木の板を見せてください」
十日目の朝、部屋に入るなり言われた。
「え」
「遠征でお使いになったという、音の出るものです。ダール殿から聞きました」
腰に下げていた。遠征から戻ってからも、なんとなく外せずにいた。
渡すと、その人は両手で持って、振った。カン、カン。それから紐を解いて、二枚を別々にして、それぞれの重さを手のひらで量った。
「これはあなたが作った」
「はい」
「材は」
「厨房の裏に落ちてたやつです」
「削ったのは」
「私です。あの、下手ですけど」
その人は答えずに、拍子木の断面に指を当てた。しばらく当てていた。
「音の高さが、二枚で違います」
「あ、そうですか」
「気づいていなかった」
「はい」
「意図せず違えたものが、意図して合わせたものより意味を持つことがあります」
何を言われたのか分からなかった。
その人は拍子木を机に置いて、蝋板を開いた。
「ナナセ殿。私の考えを申し上げます」
「はい」
「あなたの旋律を、物に移せないかと考えています」
「物に」
「そうです。歌わずに済む形です」
その人は棚から筒を三つ出して、机に並べた。中から巻いた紙を出して、広げる。線が引いてあった。何かの図面らしい。
「例えば、笛。あるいは弦を張った箱。あなたの旋律をそのまま鳴らせる道具を作り、それを各隊に配る」
「私が行かなくても」
「そうです。そこが要点です」
その人は図面の一つを指した。
「現在、あなたは一人しかいない。北の巡回にあなたが出れば、南には出られない。南に出れば、東には出られない。──これは配分の問題ではなく、単に足りていない」
「はい」
「道具に移せれば、あなたは行かなくていい」
私は、図面を見ていた。
線と数字が並んでいる。数字だけは読める。
「試しました」
その人が言った。
「昨日、笛を三本作らせました。あなたの三つ目の旋律を、音の高さのまま吹けるように穴を開けた」
「はい」
「鳴りました。効きません」
それだけ言って、その人は筒を巻き直した。
「音の高さと長さは再現できます。効果は出ません。──ヴィムに歌わせたときと同じです」
「じゃあ」
「もう一つ、試したいことがあります」
その人は新しい紙を出した。
文字が並んでいた。上から下へ、短い行が続いている。
「これは何ですか」
「あなたの歌の、訳です」
「訳」
「歌詞の意味は変換されません。ですが、あなたに一語ずつ喋っていただけば、その語は通ります。──ヴィムが三日かけて聞き取りました」
私は、その紙を見た。読めない。読めないけれど、行の数は数えられた。
十二行。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。
たぶん、それが並んでいる。
「歌ってみてください。この言葉で」
「え」
「同じ旋律で、歌詞だけをこちらに替える。──効くなら、歌詞の意味が効いていることになります」
「あの、私、これ読めないです」
「読み上げます。一行ずつ」
やってみた。
その人が一行読んで、私がそれを旋律に乗せる。区切りが合わなくて、二回やり直した。三回目で通しになった。
変な感じだった。
自分の歌なのに、口の中に知らない音が入っている。知らないのに、意味だけは分かる。積み木。おやすみ。分かるのに、自分の歌ではない。
最後まで歌った。
その人は自分の腕を上げて、下ろした。
それから、もう一度上げた。
「……変わりません」
「変わらない」
「数値が一つも動いていません。訳す前と、まったく同じです」
その人は紙を裏返した。裏返してから、しばらく手を止めていた。
「意味ではない」
「はい」
「意味が効いているなら、訳せば変わるはずです。変わらないということは、効いているのは意味ではない。──では何が効いているのか」
誰も答えなかった。
私も答えられなかった。答えられないのに、少し落ち着かない気持ちになった。
訳したほうを歌ったとき、私は何も感じなかった。
いつもの歌詞で歌うときには、何かある。何かあるのに、それが何なのかは、私にも言えない。
「声そのものか、あるいはあなたの体のどこかが要る」
その人は言った。
「一つ、消えました。歌詞ではない」
その人は蝋板に何か書いて、それから顔を上げた。
「ナナセ殿。少し失礼します」
立ち上がって、机を回ってきた。
私の横に立って、指を伸ばした。
喉のところに、触れた。
服の上ではなく、皮膚に直接だった。鎖骨の少し上、線が這っているあたり。冷たい指だった。
「あの」
「動かないでください」
その人は、もう片方の手を私の顎の下に添えた。
添えてから、自分の手を見た。
「──失礼。不要でした」
その手が離れた。離れたのに、離れたことのほうが気になった。
「三つ目を、歌ってください」
「あの、この距離だと」
「この距離でないと分かりません」
歌った。
声が震えた。詠唱の途中で一度切れて、切れたところから唱え直した。
その人の指は、動かなかった。
歌い終わると、指が離れた。離れて、その人は自分の指先を見て、それから机に戻った。
「熱を持ちます」
「はい」
「歌っているあいだだけ。詠唱を平らに唱えたときは、ほとんど上がらない」
書いていた。
私は椅子に座ったまま、自分の喉を押さえていた。触られたところが、まだ何かの感じを残している。
顔が熱いのが分かった。
分かったので、下を向いた。
「ナナセ殿」
「はい」
「顔色が変わりましたが、体調ですか」
「違います」
「では何ですか」
「……何でもないです」
「記録できません」
「記録しなくていいです……」
その人は少し止まって、それから、蝋板に何も書かずに次へ進んだ。
書かなかったことに、私は少し驚いた。
「では、次の話をします」
別の紙が出てきた。
これは図面ではなかった。表だった。縦に線が引いてあって、区切られた枠の中に、文字と数字が書いてある。
「配備の案です」
「はいび」
「あなたを、どこへ、いつ出すか。──騎士団と塔で、それぞれ要望が出ています。それを一枚にまとめました」
その人は表の上を指でなぞった。
「北の巡回。月に六日。壁際なので日帰りができます」
「はい」
「南の遠征。月に四日から五日。これは泊まりになります」
「はい」
「東の街道の護衛。要請が来ています。月に三日」
「はい」
「塔での検証。私は毎日を希望していますが、五日に一度で妥協します」
「はい」
「王女殿下の付き添い。これは陛下のご意向で、削れません」
「はい」
私は、頷き続けていた。
頷きながら、表を見ていた。文字は読めない。数字は読める。読める数字だけを、順番に足していった。
六。四。三。それから、五日に一度。
足していくうちに、指が足りなくなった。
「ナナセ殿」
「はい」
「今、何回頷きましたか」
「え」
「私が数えていました。九回です」
その人は表を裏返した。
「九回とも、あなたは考えていない」
「考えてます!」
「では、いま申し上げた中で、断りたいものはどれですか」
答えられなかった。
断りたいものはない。どれも、誰かが必要としているものだ。北の巡回も、南の遠征も、東の街道も。断れば、その日、誰かが疲れたまま外に出る。
「……ないです」
「そうでしょう」
その人は表を戻して、私のほうへ押した。
「これは私が作りましたが、私の要望も入っています。私も、あなたを使いたい側です」
言い方に、迷いがなかった。
「ナナセ殿。あなたは断らない。だから、私が一つ削ります」
「え」
「東の街道の護衛。あれは商隊の要請で、金が出る仕事です。騎士団の予算に入る。──だから断りにくい」
その人は表の一行に、線を引いた。
「私が断ります。理由は、検証の日程と重なるからです。嘘ではない」
私は、その線を見ていた。
「あの」
「はい」
「どうして」
「あなたが断らないからです」
その人は蝋板を閉じた。
「私は、あなたを消耗させたくない。──ただし、それは温情ではありません。消耗した対象は、数値が汚れる」
その日、私は表を持って帰った。
部屋の机に広げて、灯りを近づけて、また数字を足した。
六。四。三。塔が、月に六日。
十九日。
ひと月は三十日だった。残りが十一日。そのうち、ティアの部屋にいられるのが何日なのかは、この表には書いていない。
書いていないのは、そこが余りだからだった。
私は、しばらくその表を見ていた。
それから、畳んで、紙の束の一番下に入れた。
一番下には、ユーリさんの家の絵と、自分の名前を書いた紙が入っている。




