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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第5章「奪い合われる」

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第一節

 次の日から、私は塔へ通うようになった。


 魔術師塔は、城の北側に立っていた。近くで見ると、思っていたより古い。石の色がまだらで、上のほうだけ新しい石が混ざっている。継ぎ足したのだと分かる。

 入り口を入ると、螺旋の階段があった。

 二階まで上がって、そこから廊下を歩く。窓が少ない。灯りが等間隔に置いてあって、そのあいだが暗い。


「こちらです」


 ヴィムさんが先を歩いた。


「あの、シリルさんは」


「師は上におられます。三階から上は、師の階です」


「階、丸ごとですか」


「はい」


 通された部屋には、机が四つあった。

 どれにも紙と蝋板が積んである。壁一面が棚で、棚には筒が並んでいた。巻いた紙が入っているらしい。窓の下に、椅子が一つだけ置いてある。


「そこにお掛けください。師はすぐに」


 すぐに、というのは本当だった。


 座ってから十も数えないうちに、扉が開いた。


「ナナセ殿。三つ目の詠唱を、歌ってください」


 挨拶はなかった。


 その人は入ってくるなり机の前に立って、蝋板を開いた。私はまだ座ったばかりで、外套も脱いでいなかった。


「あの、おはようございます」


「おはようございます。三つ目を」


 歌った。

 その人は書いた。それから顔を上げて、こう言った。


「次、七つ目を。それから十四個目」


 午前中で、十六個を三周した。

 途中で水を飲んだ。飲んだ回数も書かれていた。


「あの……」


「はい」


「それ、何を書いてるんですか」


「あなたの声の高さ、長さ、区切りの位置。息を継ぐ場所。継いだ回数。それから、私の腕の重さの変化」


「腕」


「私が測る側なので、私の体で測ります。ヴィムより精度が高い。私は疲れていませんので」


 その人は蝋板を持ち上げて、こちらに見せた。


 線が引いてある。上下に波打っている線と、その下に細かい印。


「これが、あなたの旋律です」


「私の」


「音の高さを縦にとって、時間を横にとりました。三つ目の詠唱を歌ったときの形です。──三周とも、ほとんど同じ形になりました」


「同じ、ですか」


「同じです。誤差が小さい。あなたは毎回、同じ形で歌っている」


 私は、その線を見た。

 自分の歌が線になっているのを見るのは、初めてだった。上がって、下がって、また上がって、最後に下がる。下がるところが長い。


 どこかで見たような形だと思って、少し考えた。

 城下町の広場で、赤ん坊を抱いていた人の歌だ。あれも、終わりに向かってゆっくり下がっていた。


「あの、これ、どこで習うんですか」


「習いません」


 その人は書きながら答えた。


「歌を線にする作法は、この国にありません。歌は覚えるものであって、残すものではないので。──三日前に作りました」


「作った」


「必要でしたので」


 それだけだった。

 私は、線をもう一度見た。

 三日前に作られたものの上に、私の声が乗っている。


「あの」


「はい」


「これ、意味は分からないんですよね」


「分かりません」


 その人は即答した。


「歌詞は変換されない。あなたが何を言っているのか、私には一音も分からない。──ですが、形は取れます」


「形……」

「音の高さ、長さ、間。それだけで再現できるなら、他の者にも歌わせられる」


 私は、少し黙った。


「他の人が歌っても、効きますか」


「試しました」


 その人は、机の隅の蝋板を一枚引き出した。


「ヴィムに歌わせました。あなたの旋律を、そのまま。──効きません」


「じゃあ」


「歌詞が要る。あるいは、あなたが要る。どちらかです。現時点では区別がつきません」


 その人は書いた。書きながら、続けた。


「私は後者だと思っています。前者であってほしいが」


「なんでですか」


「歌詞なら、写せます。あなたが要るなら、写せない」


 言い方が、あまりに平らだった。

 平らだったので、私はそれが何を意味するのか、少し遅れて分かった。


 写せないものは、一人しかいない。


 その日から、通いは毎日になった。


 午前が塔。午後がティアの部屋。日が落ちる前には帰る。イルゼさんがそう決めて、シリルさんに直接そう言った。シリルさんは頷いた。


「合理的です。疲労は数値を汚しますので」


 汚す、という言い方を、私はしばらく考えていた。


 塔での時間は、悪くなかった。

 あの人は、私に何も期待しなかった。強くなれとも言わないし、頑張れとも言わない。ただ、歌ってください、と言う。歌うと、書く。書き終わると、次を言う。


 褒められることもなかった。

 その代わり、否定もされなかった。


 三日目に、私はそれに気づいた。

 城へ来てから、私はずっと何かを言われていた。剣は使えるのか。魔法は使えるのか。書はあるのか。ないのか。ないなら、どうするのか。


 塔では、誰もそれを聞かない。

 聞かれるのは、いつ息を継いだか、だけだった。


 六日目の午前だった。


「ナナセ殿」


「はい」


「今日はここまでにします。あなたの声が少し掠れている」


「あ、大丈夫です」


「大丈夫ではありません。三日目の午後から、高いほうの音が出ていない」


 その人は蝋板を閉じた。


「声は消耗します。使いすぎれば戻らなくなる」


 私は、自分の喉に手を当てた。

 自分では気づいていなかった。三日、気づかずに歌っていた。


「あの、なんで分かるんですか」


「測っているからです」


 その人は立ち上がって、棚に蝋板を戻した。


「ナナセ殿。あなたは自分の状態を報告しません。だから私が測ります。──それだけのことです」


 私は、うまく返事ができなかった。


 塔を出ると、日がまだ高かった。

 城へ戻る道を、私は少し早く歩いていた。


 早く歩く理由は、なかった。午後の支度はもう済んでいるし、ティアが起きるまでにはまだ間がある。


 歩きながら、自分の喉を触っていた。

 触っている自分が、なんだか変だった。


 変なのに、やめなかった。

 やめなかった理由を、そのときは考えなかった。

 考えなかったので、気づかなかった。


 私は、誰かに測ってもらえることを、嬉しいと思っていた。


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