第六節
遠征のことが、しばらく引っかかっていた。
詠唱が出なかった。十六個のうち、一つも。二か月かけて覚えたものが、いちばん要るときに出てこなかった。
ヴィムさんに言ったら、珍しいことではないと言われた。
「実戦で唱えられない者は多いです。だから騎士は短縮詠唱を使います。三音か四音まで削って、体で覚える」
「私も、削れますか」
「補助は削れません。長さそのものが効いていますので」
それきりだった。
私は稽古を続けた。三日に一度、午前中。十六個を順番に唱えて、そのたびにヴィムさんが自分の腕を上げ下げする。上げて、下ろして、少し考えて、それから蝋板に書きつける。
効いたかどうかは、その人の体で測っていた。
道具ではないのだと、だいぶ経ってから気づいた。
「数値が動きませんね」
「動かないと、まずいですか」
「まずくはありません。ただ、二か月同じというのは」
言いかけて、やめた。
「気にしないでください。個人差ですので」
私は気にした。
その日の夜、机に向かって、十六個を順番に思い出した。
覚えるときは、歌にした。旋律をつけて、区切りを決めて、音の高さで似た音を分けた。そうしないと入らなかった。
唱えるときは、平らに言っている。ヴィムさんにそう言われたからだ。
平らに、抑揚をつけずに。
それを二か月やっている。
私は、そこでしばらく手を止めた。
園庭のことを考えていた。
広い園庭で、遠くにいる子を呼ぶとき、私は名前を呼ぶ。普通に呼んでも届かない。手を振っても、子どもはこっちを見ていない。
だから、歌う。
片付けの歌を歌うと、園庭の端にいた子まで戻ってくる。クラスの子が全員、一斉に。声を張り上げるより、そっちのほうが早い。
理由は、たぶん、音の高さだと思っていた。喋る声より、歌う声のほうが遠くまで通る。
でも、それだけではない気もしていた。
子どもは、命令されると止まる。歌には、命令の形がない。
次の稽古の日、私はヴィムさんに聞いた。
「あの、詠唱を、歌ってもいいですか」
その人が顔を上げた。
「歌う」
「はい。覚えるときは、歌にしてたので」
「唱えるときは平らに、と申し上げましたが」
「はい。だから、一回だけ、試させてください」
ヴィムさんは蝋板を持ったまま、少し考えた。
「……効果は落ちると思いますが」
「落ちたら、やめます」
三つ目の詠唱を、歌った。
覚えたときの旋律で。区切りを守って、音の高さを変えて、最後まで。
喉のところが、熱くなった。
いつもより、熱かった。
ヴィムさんが、蝋板を落とした。
枠の角が欠けて、蝋が少し割れた。その人はそれを見ていなかった。自分の腕を見ていた。上げて、下ろして、また上げて、それから両手を握って、開いた。
握って、開いて、もう一度握った。
「もう一度」
「え」
「もう一度、お願いします」
私はもう一度歌った。
その人は今度は目を閉じていた。閉じたまま、十数えるくらい動かなかった。それから目を開けて、床の板を拾って、欠けた角を見て、また私を見た。
「今の、数値が」
「はい」
「四倍です」
「よん……」
「四倍を超えています。持続も、たぶん」
その人は袖をまくって、自分の腕を見た。何を見ているのかは分からなかった。
「──失礼。少し外します!」
ヴィムさんは出ていった。蝋板を持ったまま、走っていった。
私は部屋に一人で残された。
残されて、椅子に座って、自分の喉に手を当てた。まだ少し熱かった。
四倍……。
言われても、実感がなかった。弱いものが四つぶんでも、弱いことに変わりはない。
五日後に、その人が来た。
朝の鐘の三つ目が鳴る前だった。扉が開いて、いきなり入ってきた。ノックはなかった。
「ナナセ・ミオリ!」
顔を上げると、知らない人が立っていた。
背が高い。細い。灰色の外套を着ていて、その下の服が濃紺で、袖口に細い刺繍が入っている。髪は肩より少し長くて、片側だけ耳にかけてある。
髪の色が変わっていた。銀に見えるのに、角度によって青が出る。まっすぐで、一本も跳ねていない。
眼鏡をかけていた。この国で眼鏡を見たのは初めてだった。細い金の枠で、鼻に乗っているというより、顔に留めてある感じがする。
その奥の目は、灰色だった。まばたきが少ない。
脇に、蝋板を三枚抱えていた。
「はい、あの」
「シリル・ヴァレンス。宮廷魔術師です。ヴィムの師にあたります」
その人は名乗りながら部屋に入ってきて、私の正面に立った。
近い。
半歩ぶん、普通より近かった。
「四倍という報告を受けました。誤りである可能性が高い。ヴィムは自分の体で測ります。あれは疲れていると大きく感じる」
「あ、はい」
「今から検証します。同じことをしてください」
「今からですか……」
「今からです。何か不都合が」
「あの、ティア様が起きるので」
「王女殿下は先ほど厨房においででした。パンを裂いておられた」
見てきたらしい。
私は座り直した。座り直したら、その人が椅子を引いて、私の正面に座った。膝が当たりそうな距離だった。
「あの、少し」
「はい」
「近いです……」
「近いほうが正確に測れます」
そう言われると、何も言えなかった。
その人は蝋板を膝に置いて、細い棒を構えた。
「では、平らな詠唱から。三つ目を」
言われた通りにした。
その人は自分の手を開いて、閉じて、それから書いた。
「次、歌ってください」
歌った。
書く手が、途中で止まった。
止まって、それから、また書いた。書き終わって、蝋板を持ち上げて、目の高さで見た。
「もう一度」
「はい」
「五回、続けてお願いします。間を空けずに」
五回歌った。
五回目の終わりに、少し息が切れた。喉の熱が引かなかった。いつもなら、歌い終わればすぐ冷める。
切れたのが分かったらしくて、その人は水を持ってこさせた。誰にも命じていないのに、扉の外にいたヴィムさんが持ってきた。
「ナナセ殿。あなたは自分の出力をどう認識していますか」
「え」
「自分の力が、どの程度だと思っていますか」
私は少し考えた。
「あの、弱いと思います」
「根拠は」
「最初に、弱いって言われたので」
「それは平らな詠唱のときの数値です」
「あ……」
「歌ったときの数値を、あなたは知らない。知らないまま弱いと思っている」
その人は蝋板に何か書き足した。
「実測値は、王宮の補助魔法の使い手のうち、上から二番目に相当します」
言葉が、うまく入ってこなかった。
「二番目」
「一番目は七十二歳で、現在は寝台から出られません。実質、あなたが一番です」
「そんなわけ」
「数値です」
その人は蝋板をこちらに向けた。
文字と、数字が並んでいた。数字は読めた。ティアと一緒に習ったので、数だけは分かる。
読めても、意味は分からなかった。
「あの、でも、私、傷は治せないですし」
「治せません。補助ですので」
「戦えないですし」
「戦えません。補助ですので」
「じゃあ」
「補助として一番だと申し上げています」
その人は蝋板を戻して、また書いた。
書きながら、顔を上げずに言った。
「あなたは今、三回続けて、できないことを挙げましたね」
私は口を閉じた。
「記録します」
「え、あの、何をですか」
「対象は──」
その人は書きながら、声に出した。
「自身の出力を、過小に申告する傾向がある」




