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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第4章「数えられない功績」

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第五節

 半月ほど経って、エルナさんに誘われた。


「明日、非番。飯行こう!」


「飯?」


「街。あの屋台、また行こうよ」


 行きます、と言いかけて、止まった。

 止まったのが、顔に出たらしい。


「なに」


「あの、お金が…」


「いくらか出しなよ。全部奢れとは言わない」


「持ってないんです」


「今日は?」


「今日も、その、ずっと」


 エルナさんの顔から、表情が抜けた。


「……ずっと?」


「はい」


 その人は、私の顔をしばらく見ていた。それから、目を細めた。


「あんた、給金は?」


 給金、と言われた。

 言葉は分かった。分かったのに、自分に関係のあるものだとは思っていなかった。


「……もらってない、です」


 言ってから、それが今わかったことだと気づいた。


「いつから」


「最初から、だと思います」


 エルナさんが指を折った。折って、途中でやめた。


「じゃあ、あんた、どうやって暮らしてんの」


「あの、ごはんは出るので。服も、貸してもらってて」


「金は」


「使うことがなくて」


 言いながら、そういえば街に行ったのはあの一度きりだったと思い出した。

 行けないのだから、要らない。要らないから、考えたことがなかった。


「置いてもらってるので、そういうものかと」


 エルナさんが、下を向いた。

 下を向いたまま、しばらく動かなかった。それから顔を上げて、私の手首を掴んだ。


「行くよ」


「え、あの、どこ」


「詰所」


 団長さんは、話を聞き終えるまで一言も口を挟まなかった。

 聞き終えて、机の上で手を組んだ。


「名簿だ」


「は?」


「城の支給は名簿に基づいている。名簿に載せるには鑑定書が要る」


「──また鑑定書ですか」


「また鑑定書だ」


 その人は立ち上がって、棚から帳面を出した。分厚い。開いて、指で追って、途中で止めた。


「王妃陛下の任は、名簿とは別系統だ。任じることはできるが、支払いは別の部署が握っている。そこは書式でしか動かん」


「悪意はないってことですか」


「ない。あれば、まだ相手ができる」


 団長さんは帳面を閉じた。


「ナナセ殿。あなたは自分が無給であることを、誰かに言ったか」


「あの、言ってないです」


「なぜだ」


「気づいてなかったので…」


 その人が、少しのあいだ黙った。


「……三月みつきのあいだ、誰も気づかなかったということか」


 誰も答えなかった。


「五日後に来てくれ」


 その人が言った。


「支給ではない。隊への協力に対する謝礼だ。名目が違えば、私の裁量で出せる」


 五日後、詰所で袋を渡された。

 小さい袋だった。受け取った瞬間に、手が下がった。


 重い。


 思っていたより、ずっと重かった。


「数えろ」


 言われて、机の上で数えた。

 銀貨だった。一枚ずつ、指で寄せて、並べていく。並べながら数えて、途中で分からなくなって、もう一度並べ直した。


 三十枚。


「三十枚です」


「そうだ」


 私は、それを見ていた。

 三十枚が、机の上に並んでいる。銀色で、少し曇っていて、縁が擦り減っているのもある。

 いくらなのかが、分からなかった。

 この国の物の値段を、私はほとんど知らない。知っているのは、一つだけだった。


「あの」


「なんだ」


「これでお芋、いくつ買えますか」


 団長さんが、私を見た。

 それから、エルナさんを見た。エルナさんは口を押さえていた。


「……芋か」


「はい」


「一枚で三つだ」


 私は、指を使った。三十枚で、三つずつ。

 九十。


「九十個か」


「そうなる」


「九十個」


 もう一度言った。

 三十二個作った飴を、多いと思った。それより三倍近い数を、私は今、手のひらの上に持っている。


「多くないですか」


「多くはない」


 その人は、はっきり言った。


「あなたは城に三月いて、五日の遠征に出た。──三十枚は、少ない」


「え」


「私が出せる裁量の上限だ。それでも足りん」


 言い方が、事務的だった。事務的なのに、そうではないのが分かった。


 私は、銀貨を袋に戻した。三十枚、一枚ずつ。

 全部入れたら、また重くなった。


 次の非番の日に、街へ出た。

 門で、エルナさんが紙を見せる。門番が私を見る。前と同じだった。前と違うのは、私の懐に袋があることだけだった。


 匂いが、同じだった。

 パンと、煙と、獣と、酸っぱいもの。二月ふたつき前と何も変わっていない。変わっていないことに、なぜか安心した。


 屋台は、同じ場所にあった。

 並んでいる。前より人が多い。


「あんた、買いなよ」


「え」


「自分で言うの。二つ、って」


 列に並んだ。

 順番が来るまでに、口の中で三回練習した。前の人が離れて、店の人がこっちを見た。


「二つください」


 言えた。


「銅貨八枚」


 銅貨。

 持っていない。銀貨しかない。


 袋から一枚出して、渡した。店の人が受け取って、木の箱を開けて、じゃらじゃらと音を立てて、銅貨を二枚返してきた。


 葉に包まれたものを、二つ渡された。

 熱かった。

 エルナさんのところへ戻って、片方を押しつけた。


「はい!」


「え」


「前の、返してなかったので」


 エルナさんが受け取って、包みを開けて、それから私を見た。


「……あんたさ」


「はい」


「初めての給金で、最初に買うのがそれ?」


「はい!」


「他に欲しいもの、ないの」


 考えた。

 考えて、出てこなかった。


 服はある。食べるものも出る。寝るところもある。買わないと困るものが、一つも思いつかない。

 園でも、そうだった。給料日に何を買ったか、思い出せない。たいてい何も買わずに、次の給料日が来ていた。


「……ないです」


「ないって」


「あ、でも」


「うん」


「紙は、買えますか?」


 エルナさんが、齧りかけたまま止まった。

 止まって、飲み込んで、それから、大声で笑った。


 通りの人が何人か振り返った。私は恥ずかしくて下を向いた。下を向いたら、自分の手の中のものが目に入った。


 齧った。

 脂が出て、口の中が熱くなった。前と同じ味だった。


「熱っ」


「熱い」


「はい!」


 二人で立ったまま食べた。

 食べ終わって、手が油だらけになった。


 拭くものがない。エルナさんは服で拭いていた。私は少し迷って、井戸のほうを見た。

 懐の袋は、まだ重かった。

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