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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第4章「数えられない功績」

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第三節

 門は、日の出と同時に開いた。

 朝の鐘が鳴りきる前だった。空はまだ半分暗い。隊はもう並んでいて、私はその中ほどに立たされていた。


 前に十四人、後ろに十三人。

 数えたのは、癖だった。


 門を出て、しばらくは石畳が続いた。それが途中で土になって、そこから道が細くなった。

 振り返ると、壁があった。

 高い。近くで見ると、内側から見ていたよりずっと高い。上を歩いている人の姿が、豆粒くらいになっている。

 その壁が、だんだん小さくなっていった。


「前見て歩きな」


 エルナさんが言った。


「はい」


「転ぶよ」


 転んだ…二回。

 二回目のあと、エルナさんが私の歩幅に合わせて歩くようになった。その人の足が、半歩ごとに一度止まるようになった。

 外は、静かではなかった。


 虫が鳴いている。風が草を鳴らす。鳥。それだけなのに、音が大きく聞こえた。城の中では、こんなに音がしていなかった。


 草が高い。腰くらいまである。道の両側が全部草で、その向こうに林がある。

 誰も喋らなかった。

 私が知っている人たちは、詰所ではあれだけ喋っていた。ここでは誰も喋らない。喋らずに、時々、誰かが顔を横に向ける。向けて、また前を向く。


 二刻ほど歩いたところで、止まった。


「休憩。四半刻」


 全員が座った。座り方が早い。座って、水を飲んで、足を伸ばす。

 私も座った。座ってから、立ち上がった。


「ミオリ?」


「あの、かけます」


 詠唱の三つ目を唱えた。それから、八つ目も唱えた。八つ目は足に効くやつだと、ヴィムさんが言っていた。


 平らに、抑揚をつけずに。


 誰も何も言わなかった。二人が足首を回した。それだけだった。

 また歩いた。

 昼を過ぎて、日が傾きはじめたころ、隊列が急に短くなった。

 前が詰まって、後ろが寄ってくる。誰かが手を上げた。声は出さない。


 エルナさんが私の腕を掴んだ。

 草の中に引き込まれて、屈まされた。私の頭がエルナさんの肩より下になる。その人は片膝をついて、私の前に体を入れた。


「動かない」


 小さい声だった。


「音も出さない」


 私は頷いた。頷いたのが見えたかどうか分からない。


 匂いがした。

 草でも土でもない。獣のような、でも獣より濃い。厨房の隅で忘れられていた籠の匂いに、少し似ていた。

 風が来るたびに、強くなる。


 前のほうで、金属が擦れる音がした。それから、走る足音。

 声が上がった。人の声だった。それに重なって、別の音が聞こえた。


 高い。高くて、途中で割れる。

 鳥のようでもあったし、そうでないようでもあった。それが二つ、三つと重なって、どこから聞こえているのか分からなくなった。


 体が動かなかった。

 息を止めていた。止めていることに、途中で気づいた。気づいて、吸おうとして、うまく吸えなかった。


 草の隙間から、動くものが見えた。

 黒い。それしか分からなかった。大きさも形も、見えたときには通り過ぎている。低い位置を、地面すれすれを走っていく。速い。四つ足なのだと思う。思うだけで、確かめる余裕はなかった。


 エルナさんが剣を抜いた。


 抜く音が、すぐ横でした。

 その音で、私は自分の膝が震えているのに気づいた。


 地面についている膝が、地面を叩いている。止めようとしても止まらない。手も震えていた。指先が冷たくて、感覚がなかった。


 カン、カン。


 どこかで木の板が鳴った。

 二回。退がれ。


 足音が近づいてくる。人の足音だ。数人が退がってきて、私たちの後ろを通った。誰かが息を切らしていた。


「ダール、右!」


「はい!」


 エルナさんが動いた。


 私の前から、いなくなった。

 急に、視界が開けた。


 草の向こうに、人がいた。背中が見える。三人が横に並んで、その向こうに、黒いものがいる。

 一つではなかった。


 私は、袋を握っていた。飴の袋だ。ずっと握っていたらしい。指が痛くなっていた。

 木の板は、腰に下げていた。

 手を伸ばした。伸ばした手が、震えていて、紐から外すのに三回かかった。

 握って、振った。


 カン、カン、カン。


 自分でも驚くほど、小さい音だった。

 もう一度振った。


 カン、カン、カン。


 誰かがこっちを見た。見て、後ろに下がってきた。一人。それから二人。

 三回。


 三回は、私が歌うという意味だった。


 六日前に、自分で決めた。決めて、みんなの前で説明して、エルナさんに板を振らせた。カン、カン、カン。それを覚えている人が、いま二人、退がってきている。


 歌わなかったら、この人たちは何のために退がってきたのか分からなくなる。

 詠唱を、と思った。


 三つ目。身体のやつ。出だしの音が、思い出せない。


 二つ目でもいい。それも出てこない。


 十六個、全部覚えたはずだった。三日に一度、二か月かけて。ヴィムさんの前では通しで言えた。

 覚えたはずのものが、一つも出てこなかった。


 残っているのは、約束のほうだけだった。


 私は口を開けた。

 声が出なかった。

 喉が閉まっている。息だけが出て、音にならない。何度か試して、そのたびに失敗した。

 つみきさん、と口が動いた。


 音が出た。


 考えて出した音ではなかった。園で、泣いている子の前に座ったときと同じで、口のほうが先に動いていた。

 震えていた。ひどく震えていて、旋律になっていなかった。途中で音が飛んで、飛んだところで息が切れた。


 やめなかった。


 つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。

 出てきたのは寝かしつけの歌だった。


 こんなところで寝かせてどうするのか、と自分でも思った。思ったけれど、ほかに出る音がなかった。


 それに、と思った。

 声なら、こっちを見なくても分かる。


 園庭でもそうだった。遠くの子を呼び戻すとき、手を振っても気づかない。声のほうが早い。声は、探さなくても届く。


 だから、大きさより、続けることだと思った。


 喉のところが、熱くなった。


 熱くなったのが分かったので、続けた。

 声はまだ震えていた。震えたまま、二番に入った。

 目の前を、人が通っていった。退がってきた人だった。私の横で膝をついて、片手を地面についた。

 その人は、そこで動かなくなった。


 肩が上下している。上下する間隔が、少しずつ長くなっていく。


 それから、立ち上がった。

 立ち上がって、前へ戻っていった。


 戻る足が、さっきより速かった。


 三番まで歌った。

 歌い終わって、また最初から歌った。何回歌ったのかは、覚えていない。

 途中で、匂いが薄くなった。


 気づいたのは、そのあとだった。音が減っていた。人の声だけが残っていて、それも、命令ではなくなっていた。


「──退がったぞ」


「追うな」


「追いません」


 団長さんの声が、遠くでした。


 私は歌うのをやめた。やめてから、自分がまだ膝をついているのに気づいた。立とうとしたら、立てなかった。


 足に力が入らない。

 エルナさんが戻ってきて、私の腕を掴んで、引っ張り上げた。


「ミオリ!」


「はい」


「立てる?」


「たぶん」


 立てなかった。

 その人は私を座らせて、水筒を渡した。飲んだ。飲んだら、水が口の端から垂れた。手が震えて、うまく飲めない。


「はい、ゆっくり」


「すみません」


「謝んなくていい」


 二口飲んで、息が戻ってきた。


 戻ってきたら、詠唱が出た。


 三つ目。出だしから終わりまで、つかえずに。平らに、抑揚をつけずに。さっきは一つも出てこなかったのに、今は出る。


 続けて八つ目。足のやつ。

 エルナさんが自分の足を見た。それから、私を見た。


「今の、なんで戦ってるときにやらなかったの」


「……出なかったんです」


「出ない?」


「はい。歌は出てきたんですけど…」


 その人は少し黙って、それから、そういうこともあるか、と言った。

 私も、そういうこともあるのだと思った。


 エルナさんの顔に、何かがついていた。


 黒い。汚れているのか、そうでないのかは、私には判断がつかなかった。判断をつけないことにした。

 誰かが叫んだ。


「シェンナが足やられた!」


「動かすな!」


「深いです…」


 人が集まっていく。私は座ったまま、そっちを見ていた。

 見ていて、それから、袋を開けた。

 飴を一つ取り出して、立ち上がろうとして、また転んだ。転んだところで、エルナさんが袋ごと取り上げた。


「持ってく。あんたはここ」


「あの、二十八個」


「え?」


「二十八個、あります」


 エルナさんは何も言わずに、袋を持って走っていった。


 私は、草の中に座っていた。

 膝がまだ震えていた。手も震えていた。震えているのに、喉のところだけが、まだ熱かった。

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