第三節
門は、日の出と同時に開いた。
朝の鐘が鳴りきる前だった。空はまだ半分暗い。隊はもう並んでいて、私はその中ほどに立たされていた。
前に十四人、後ろに十三人。
数えたのは、癖だった。
門を出て、しばらくは石畳が続いた。それが途中で土になって、そこから道が細くなった。
振り返ると、壁があった。
高い。近くで見ると、内側から見ていたよりずっと高い。上を歩いている人の姿が、豆粒くらいになっている。
その壁が、だんだん小さくなっていった。
「前見て歩きな」
エルナさんが言った。
「はい」
「転ぶよ」
転んだ…二回。
二回目のあと、エルナさんが私の歩幅に合わせて歩くようになった。その人の足が、半歩ごとに一度止まるようになった。
外は、静かではなかった。
虫が鳴いている。風が草を鳴らす。鳥。それだけなのに、音が大きく聞こえた。城の中では、こんなに音がしていなかった。
草が高い。腰くらいまである。道の両側が全部草で、その向こうに林がある。
誰も喋らなかった。
私が知っている人たちは、詰所ではあれだけ喋っていた。ここでは誰も喋らない。喋らずに、時々、誰かが顔を横に向ける。向けて、また前を向く。
二刻ほど歩いたところで、止まった。
「休憩。四半刻」
全員が座った。座り方が早い。座って、水を飲んで、足を伸ばす。
私も座った。座ってから、立ち上がった。
「ミオリ?」
「あの、かけます」
詠唱の三つ目を唱えた。それから、八つ目も唱えた。八つ目は足に効くやつだと、ヴィムさんが言っていた。
平らに、抑揚をつけずに。
誰も何も言わなかった。二人が足首を回した。それだけだった。
また歩いた。
昼を過ぎて、日が傾きはじめたころ、隊列が急に短くなった。
前が詰まって、後ろが寄ってくる。誰かが手を上げた。声は出さない。
エルナさんが私の腕を掴んだ。
草の中に引き込まれて、屈まされた。私の頭がエルナさんの肩より下になる。その人は片膝をついて、私の前に体を入れた。
「動かない」
小さい声だった。
「音も出さない」
私は頷いた。頷いたのが見えたかどうか分からない。
匂いがした。
草でも土でもない。獣のような、でも獣より濃い。厨房の隅で忘れられていた籠の匂いに、少し似ていた。
風が来るたびに、強くなる。
前のほうで、金属が擦れる音がした。それから、走る足音。
声が上がった。人の声だった。それに重なって、別の音が聞こえた。
高い。高くて、途中で割れる。
鳥のようでもあったし、そうでないようでもあった。それが二つ、三つと重なって、どこから聞こえているのか分からなくなった。
体が動かなかった。
息を止めていた。止めていることに、途中で気づいた。気づいて、吸おうとして、うまく吸えなかった。
草の隙間から、動くものが見えた。
黒い。それしか分からなかった。大きさも形も、見えたときには通り過ぎている。低い位置を、地面すれすれを走っていく。速い。四つ足なのだと思う。思うだけで、確かめる余裕はなかった。
エルナさんが剣を抜いた。
抜く音が、すぐ横でした。
その音で、私は自分の膝が震えているのに気づいた。
地面についている膝が、地面を叩いている。止めようとしても止まらない。手も震えていた。指先が冷たくて、感覚がなかった。
カン、カン。
どこかで木の板が鳴った。
二回。退がれ。
足音が近づいてくる。人の足音だ。数人が退がってきて、私たちの後ろを通った。誰かが息を切らしていた。
「ダール、右!」
「はい!」
エルナさんが動いた。
私の前から、いなくなった。
急に、視界が開けた。
草の向こうに、人がいた。背中が見える。三人が横に並んで、その向こうに、黒いものがいる。
一つではなかった。
私は、袋を握っていた。飴の袋だ。ずっと握っていたらしい。指が痛くなっていた。
木の板は、腰に下げていた。
手を伸ばした。伸ばした手が、震えていて、紐から外すのに三回かかった。
握って、振った。
カン、カン、カン。
自分でも驚くほど、小さい音だった。
もう一度振った。
カン、カン、カン。
誰かがこっちを見た。見て、後ろに下がってきた。一人。それから二人。
三回。
三回は、私が歌うという意味だった。
六日前に、自分で決めた。決めて、みんなの前で説明して、エルナさんに板を振らせた。カン、カン、カン。それを覚えている人が、いま二人、退がってきている。
歌わなかったら、この人たちは何のために退がってきたのか分からなくなる。
詠唱を、と思った。
三つ目。身体のやつ。出だしの音が、思い出せない。
二つ目でもいい。それも出てこない。
十六個、全部覚えたはずだった。三日に一度、二か月かけて。ヴィムさんの前では通しで言えた。
覚えたはずのものが、一つも出てこなかった。
残っているのは、約束のほうだけだった。
私は口を開けた。
声が出なかった。
喉が閉まっている。息だけが出て、音にならない。何度か試して、そのたびに失敗した。
つみきさん、と口が動いた。
音が出た。
考えて出した音ではなかった。園で、泣いている子の前に座ったときと同じで、口のほうが先に動いていた。
震えていた。ひどく震えていて、旋律になっていなかった。途中で音が飛んで、飛んだところで息が切れた。
やめなかった。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。
出てきたのは寝かしつけの歌だった。
こんなところで寝かせてどうするのか、と自分でも思った。思ったけれど、ほかに出る音がなかった。
それに、と思った。
声なら、こっちを見なくても分かる。
園庭でもそうだった。遠くの子を呼び戻すとき、手を振っても気づかない。声のほうが早い。声は、探さなくても届く。
だから、大きさより、続けることだと思った。
喉のところが、熱くなった。
熱くなったのが分かったので、続けた。
声はまだ震えていた。震えたまま、二番に入った。
目の前を、人が通っていった。退がってきた人だった。私の横で膝をついて、片手を地面についた。
その人は、そこで動かなくなった。
肩が上下している。上下する間隔が、少しずつ長くなっていく。
それから、立ち上がった。
立ち上がって、前へ戻っていった。
戻る足が、さっきより速かった。
三番まで歌った。
歌い終わって、また最初から歌った。何回歌ったのかは、覚えていない。
途中で、匂いが薄くなった。
気づいたのは、そのあとだった。音が減っていた。人の声だけが残っていて、それも、命令ではなくなっていた。
「──退がったぞ」
「追うな」
「追いません」
団長さんの声が、遠くでした。
私は歌うのをやめた。やめてから、自分がまだ膝をついているのに気づいた。立とうとしたら、立てなかった。
足に力が入らない。
エルナさんが戻ってきて、私の腕を掴んで、引っ張り上げた。
「ミオリ!」
「はい」
「立てる?」
「たぶん」
立てなかった。
その人は私を座らせて、水筒を渡した。飲んだ。飲んだら、水が口の端から垂れた。手が震えて、うまく飲めない。
「はい、ゆっくり」
「すみません」
「謝んなくていい」
二口飲んで、息が戻ってきた。
戻ってきたら、詠唱が出た。
三つ目。出だしから終わりまで、つかえずに。平らに、抑揚をつけずに。さっきは一つも出てこなかったのに、今は出る。
続けて八つ目。足のやつ。
エルナさんが自分の足を見た。それから、私を見た。
「今の、なんで戦ってるときにやらなかったの」
「……出なかったんです」
「出ない?」
「はい。歌は出てきたんですけど…」
その人は少し黙って、それから、そういうこともあるか、と言った。
私も、そういうこともあるのだと思った。
エルナさんの顔に、何かがついていた。
黒い。汚れているのか、そうでないのかは、私には判断がつかなかった。判断をつけないことにした。
誰かが叫んだ。
「シェンナが足やられた!」
「動かすな!」
「深いです…」
人が集まっていく。私は座ったまま、そっちを見ていた。
見ていて、それから、袋を開けた。
飴を一つ取り出して、立ち上がろうとして、また転んだ。転んだところで、エルナさんが袋ごと取り上げた。
「持ってく。あんたはここ」
「あの、二十八個」
「え?」
「二十八個、あります」
エルナさんは何も言わずに、袋を持って走っていった。
私は、草の中に座っていた。
膝がまだ震えていた。手も震えていた。震えているのに、喉のところだけが、まだ熱かった。




