第二節
その日から、私は詰所の前を通るようになった。
通り道ではない。ティアの部屋からも、私の部屋からも、遠回りになる。それでも通った。理由は自分でもよく分からなかった。
三日目に、壁の札を見た。
あの朝に見たのと同じ壁だった。木の札が二列。隣の壁に、もっと多い列。
私は近づいて、札を見た。
文字が並んでいる。読めない。読めないけれど、形は見える。同じ形が繰り返されているところがあって、たぶんそれが名字なのだと思った。
右から数えた。
二十七。
こっちの壁が二十七枚だった。団長さんが預かっていると言った数と、同じだった。
それから、隣の壁を数えた。
途中でやめた。
やめたのは、数えたくなかったからではない。数え終わったら、その数を覚えてしまうと思ったからだ。
「何してんの」
エルナさんだった。
「あ、すみません」
「謝ることないでしょ。──数えてた?」
「はい」
「二十七だよ、こっち」
「はい。合ってました」
その人は、私の横に立った。並んで札を見た。
「出発、六日後」
「はい」
「団長は変えないよ、あれ。一回言ったことは変えない」
「はい」
私は、それから何も言わなかった。言わないまま、まだ札を見ていた。
自分が何をしたいのか、そのときはまだ分かっていなかった。
分かったのは、その夜だった。
寝台に入って、目を閉じて、それで、隊が出ていくところを想像した。門が開いて、二十七人が出ていく。五日後に帰ってくる。
帰ってきたところを想像したら、数えていた。
二十七。二十六。二十五。
勝手に減っていく。減った分だけ、あの壁の札が移動する。移動するのを、私は城の中から聞く。木と木が当たる音を、たぶん、聞かない。あの音は小さい。中庭までは届かない。
起き上がった。
次の日、詰所へ行った。
言うことは、朝までに決めてあった。何度も口の中で並べ直した。人前で何かを頼むのが、私はいちばん苦手だ。園でも、シフトを代わってほしいと言えたことが一度もない。言えないまま、自分が出た。
団長さんは机にいた。書きものではなく、地図のようなものを広げていた。私が入っていくと、顔を上げた。
「ナナセ殿」
「あの」
声が出なかった。二度、息を吸い直した。
「あの、連れていってください」
言った。
言ってから、膝に力が入っていないのに気づいた。
団長さんは、地図から手を離した。
「既に決まっている」
「……え」
「昨日、上から通達が来た」
その人は、机の端の紙を一枚、指で押さえた。私には読めない紙だった。
「あなたは王妃陛下の預かりであって、私の部下ではない。同行を止める権限が、私にはない。──断ったのは私の意見であって、命令ではなかった」
「あの」
「塔からも数値が上がっている。弱いが、通ってはいると」
私は、口を開けたまま立っていた。
用意してきた言葉が、全部いらなくなっていた。
「不服だ」
その人が言った。
「今も不服だ。だが、止められん。ならば条件を出す」
地図を、こちらへ回した。
線が引いてある。太い線が一本と、そこから離れたところに囲いのようなもの。
「南の村だ。小さいが壁と門もある」
「はい」
「あなたは村に入ったら、壁の外へ出ない。討伐には出さない。隊は村から出て、村へ戻る。──あなたは、戻ってくる者を待つ役だ」
「待つ…」
「そうだ」
その人は、線の一本を指でなぞった。
「あなたが危険に晒されるのは、この街道だけになる。往路一日半、復路一日半。そのあいだは隊列の中ほどを歩いていただく」
「はい」
「エルナ・ダールをあなたにつける。歩くとき、止まるとき、退くとき、すべて彼女の指示に従っていただく。私の指示より優先する」
「あ、はい」
「返事が早い」
「はい」
その人は、地図を戻した。
戻してから、少し黙った。
「──もう一つ、言っておく」
「はい」
「私はまだ、あなたを連れていく理由を認めていない。認めていないが、計算はした」
「計算」
「三日、行軍する。三日歩いた人間は、三日ぶん疲れる。疲れた人間から死んでいく。……それだけは、私が三年かけてどうにもできなかったものだ」
言い方が、静かだった。
「そこに、弱くとも効くものがあるという。低い見込みだ。低いが、私は試したことがない」
私は、下を向いた。
それから、顔を上げた。
用意してきた言葉は、もういらない。いらないのに、言わないと帰れない気がした。
「あの、一つだけ」
「何だ」
「札を、数えました。二十七でした」
「うむ」
「それで、昨日、寝る前に、帰ってきたところを想像したら、数えてました。二十七、二十六、二十五って。まだ出てもいないのに」
喋りながら、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
「たぶん、行かなかったら、ずっとそれをやります。城の中で、勝手に数えて、勝手に減らして。──それが、嫌でした」
言い終わって、私は下を向いた。
沈黙が長かった。
地図が風で少し動いて、その人がそれを手で押さえた。
「……そうか」
それだけだった。
私の言ったことは、何も動かさなかった。決まっていたことが、決まっていただけだった。
それでも、言ってよかったのかどうかは、分からなかった。
「ナナセ殿」
「はい」
「一つ、あなたに背負わせることがある」
その人は椅子から立ち上がって、こちらへ来た。
近くに来ると、やはり大きい。見上げる形になった。
「あなたが危ないとき、私は隊を退かせる。討伐を捨てる。それで村が一つ焼けることもある」
「はい」
「命令が私に出せない以上、退かせる判断だけは私に残っている。──それを使う日が来たら、あなたのせいになる」
私は、少し考えた。
「あの、それって」
「何だ」
「団長さんが決めることですよね」
その人が、黙った。
「私が決めることじゃなくて。──だから、背負うのは団長さんです」
言ってから、生意気だったかと思った。
その人は、少しのあいだ何も言わなかった。それから、目のあたりだけで笑った。口は動いていなかった。
「そうだな」
それだけだった。
六日のあいだに、私は作れるものを作った。
まず、布。
厨房で古い布を分けてもらって、細く切った。腕に巻ける長さで、二十八本。色をつけたかったので、ヴィムさんに相談したら、染料は塔にあると言われて、赤と黄色を少しもらった。
赤が十四本、黄色が十四本。
「何これ」
エルナさんが自分の腕を出しながら言った。
「目印です。二人組で同じ色にして、片方が動いたら、もう片方が必ず見えるところにいるようにします」
「へえ」
「あの、園で散歩に行くときに、色分けしてたので」
言ってから、園、が音になったのに気づいた。エルナさんは聞き返さなかった。この人はもう慣れている。
次に、音の出るもの。
小さい木を二つ削って、紐で結んだ。振ると鳴る。カン、カン、と乾いた音。
「金属はやめときな」
エルナさんが言った。
「響きすぎる。こっちに聞こえるってことは、向こうにも聞こえるってこと」
「向こう」
「魔獣。音で寄ってくるのもいる」
木にした。
「これ、何回鳴らすかで意味を変えます。一回が集合。二回が退がる。三回が」
「三回が?」
「三回が、私です」
「あんた?」
「私が歌うので、そのあいだ、私のところに退がってきてくださいって意味です」
エルナさんが、木の板を振った。カン、カン、カン。
「……あんた、村から出ないんでしょ」
「はい」
「じゃあ、あんたのところに退がるって、村に帰るってことじゃん」
言われて、私は少し考えた。
「……そうですね」
「いや、いいと思う」
その人は板をもう一度振った。
「帰る場所が鳴ってるって、悪くない」
最後に、飴を作った。
厨房を借りた。砂糖を煮て、伸ばして、切る。城の砂糖は高いので、一掴みぶんだけ分けてもらった。二十八個できると思ったら、三十二個できた。
包む紙がなかったので、葉っぱで包んだ。
「これは何?」
「あの、動けなくなったときに、口に入れます」
「飯食えばよくない?」
「食べられないときがあると思うので」
私は自分の分を一つ、口に入れて確かめた。甘い。甘すぎるくらい甘い。
園では、遠足で子どもがぐずったときに使っていた。効かないこともある。それでも持っていく。
三十二個を袋に入れた。
出発の前の日、詰所でそれを配った。
布を渡すと、みんな一度は変な顔をした。腕に巻くように言うと、もっと変な顔をした。
「赤かよ」
「私、黄色がいい」
「順番でしょ」
「ダール、あんたずるくない?」
結局、二人が交換して、一人が両方巻いた。両方巻いた人は、エルナさんに叱られて片方外した。
エルナさんは赤だった。
「私が赤だから、あんたも赤ね」
「はい」
「私が見えなくなったら、大声出しな。恥ずかしいとか言ってる場合じゃないから」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい!」
エルナさんが私の腕に赤い布を巻いた。結び目が固かった。指を入れて緩めようとしたら、駄目、と言われた。
「解けるほうが困る」
飴を配ると、その場で食べた人が四人いた。
「あの、それ、当日の分です」
「うまいな、これ」
「明日、渡さないですよ」
「渡してくれよ」
残りを数えたら、二十八個だった。
ちょうどだった。ちょうどになったのが、なんだかおかしくて、私は口を押さえた。
「何笑ってんの」
「いえ、あの」
「言いなよ」
「……四個、余分に作っちゃったので」
エルナさんが袋を覗き込んで、それから、声を出して笑った。
部屋の隅で、団長さんがそれを見ていた。
見ていて、何も言わなかった。腕に赤い布を巻いていた。誰が渡したのかは、私ではない。




